精神現象学0229(日付間違えてた)
ズーアカンプ版pp380〜
[これまでの話。]
精神的な実体は国家権力と高貴な意識に分かれ、一方では国家権力は抽象的な普遍(公共の福祉)と自立的な意志(君主)に分かれ、他方では高貴な意識が純粋な自己(滅私奉公)とエゴイズムに分かれていく。
君主は当初、自分に即して普遍的なものであるのだが、抽象的なものであった。君主が自己意識として確立すると、つまり王に対して貴族(高貴な意識)が「あなたが王なのだ」と語り、傍で用を足してやると、王はむしろ飾りにすぎなくなり(空虚な名前)、王におもねる臣下の側に権力があることになる。
忠誠を誓う騎士や、こびへつらう貴族たちは、一見国家に滅私奉公するのだという意味で純粋な自己を見出そうとしているのだが、それは実際には、国家がもつ富を利益として自分に分け与えようという動機も働いているのであって、エゴイズムを含みこんでいる。
このように高貴な意識は、一般的な権力[国家権力]に対して同じやり方で関係するように定められてはいるのだが、高貴な意識の真理はむしろ、奉公していながらも、自分自身のエゴイズムを保っている。つまり高貴な意識という自分の人格を拒んでいながらも、一般的実体[国家のあり方]を現に捨て去ってしまい、破壊してしまうということである。高貴な意識の精神は、全く等しくない関係になっている。つまり一方では、奉公の名誉にあって、自分の意志をそのままにして、他方では自分の意志を廃棄しながらもあるときは自分の内面を疎外させ、自分自身と全く等しくなくなり、またあるときは一般的実体を自分に従属させて、実体を自分自身と全く等しいものではなくしてしまう。
――ここで明らかなことは、上記のことから、高貴な意識が下劣な意識と呼ばれたものに対して判断するにおいて持っていた規定的なあり方も消えてしまい、したがってまた下劣な意識も消え去っているということである。下劣な意識は、一般的権力を相手がいて成り立つ存在に従属させるという、自分の目的を達成したわけである。
このように、一般的権力によって豊かにされたので、自己意識は一般的な慈善を施す人として現存している。言い換えると、一般的権力は富であるが、この富それ自体は、また意識にとって対象である。というのも、富はこの意識にとっては従属させられた一般者であるが、この一般者ははじめの廃棄によっては、自分に帰っているにしても、まだ絶対的にではないからである。
――つまり自己は、自分を対象としてはいるものの、まだ自己としてではなく、一般的実在を捨ててしまったものとしてである。この対象は、やっとまだ生まれたばかりであるから、それに対する意識の無媒介の関係が措定されてはいるが、意識はまだ対象と自分が等しくないということを表してはいない。つまり高貴な意識こそ、非本質的となった一般者において、エゴイズムを保っていて、したがって対象を承認し、慈善を施す人に対して感謝している。
富は、自分自身において、既にエゴイズムの契機を有している。富は、国家権力という自己なき一般者でも、精神の素朴な無機的本性でもない。経済は、国家権力を我が物にして享受しようとする人に対抗し、意志によって自分自身に執着するときの国家権力である。しかし富は本質の形式にすぎないから、それ自体で成立するものでなくむしろ、自体を廃棄された一面的なエゴイズムであり、個人が享受するにあたって本質を失って自分自身に帰ることである。だから富には、生命を与える必要がある。
そこで富が反省する運動は、ただ自分だけである富が、絶対的なものとなり、廃棄された本質が本質となる点にある。そうなったとき、富は自分自身の精神を、自分自身で支えることになる。――だが、この反省の運動の形式については前に論じておいたから、ここではその内容を定めるだけで充分である。
――
それゆえここでは、高貴な意識は、本質一般としての対象に関係するのではない。自分にとって無縁のものであるのは、自立した存在そのものである。この意識は、自分の自己そのものが自分以外の・固定した・相手がいて成り立つ存在から受け取らねばならないような、対象的な固定した現実であるという形で、疎外されていることに気がつく。この意識の対象は、自立した存在であって、つまりは意識自身のものである。
しかしそれは、対象であることによって、同時にそのままで自分自身の自立した存在であり、自分自身の意志でありながらある疎外された現実である。つまりこの意識は、自分の自己が、ある疎外されたものの意志に左右されていることを知る。すなわちこの相手がいる存在を自分に許してくれるかどうかは、ある疎遠な意志のままである。
2012年02月29日
2012年02月27日
かみのけ0227
かみのけ0227
先日、石牟礼道子さんの番組をNHKスペシャルでやってた。ラスト30分くらいしか見てないし、彼女の思想に全面的に賛成というわけではないが、言葉の重みがありすぎて、逆に自分はなにも言えないと思った。とにかく、すごい映像だった気がする。
・髪の毛切った。久しぶりに友達とゆっくり話し、近くの本屋さんで立川談志特集の『ユリイカ』を買った。落ち着いた一日だった。「お前平和か!」(フットボールアワー後藤のスマートツッコミ)
・ルーマソ「エコロジーのコミュニケーショソ」ですが、一読したものの、やっぱり分からなかったので、あきらめるとともに、ンをソにしました。
・この後、すごいダレそうなので、記事をすごく短く切り上げることにしやす。
時間ができたのに、時間がたりん。どうしたらいいんだ。あれやこれや、こんなもの。
先日、石牟礼道子さんの番組をNHKスペシャルでやってた。ラスト30分くらいしか見てないし、彼女の思想に全面的に賛成というわけではないが、言葉の重みがありすぎて、逆に自分はなにも言えないと思った。とにかく、すごい映像だった気がする。
・髪の毛切った。久しぶりに友達とゆっくり話し、近くの本屋さんで立川談志特集の『ユリイカ』を買った。落ち着いた一日だった。「お前平和か!」(フットボールアワー後藤のスマートツッコミ)
・ルーマソ「エコロジーのコミュニケーショソ」ですが、一読したものの、やっぱり分からなかったので、あきらめるとともに、ンをソにしました。
・この後、すごいダレそうなので、記事をすごく短く切り上げることにしやす。
時間ができたのに、時間がたりん。どうしたらいいんだ。あれやこれや、こんなもの。
2012年02月26日
トマトは納豆の二の舞になるか?0224−0226
地元記。
じいちゃんの四十九日ということで(私の地元だけの風習なのか全国的なそれなのかは知るところではないが、人が亡くなってから7日=1週×7週間で49日で霊が天に召されて自動的に仏様になるというけっこうゆるい階級制度の発想の下、改めて儀式を行うらしい。私は詳細をよく知らず。)、再び帰郷。本年、1週間ぶり3度目の地元。
そういうわけで、以下、ネットが使えないときのことのメモ代わりに、ここにメモ。
・中学生同士が、カップルで帰宅。まだ中学生くらいだと青臭くて、手も握れねえんだなあれな。友達にイジられると恥ずかしいからわざと二人っきりで遅れて帰ったりするんだけど、後々友達にイジられるんだなあれな。つい1週間前に韓国人の中年女性におちんちんを握ってもらった私は、そんな感じでしみじみと中学生を見つめながら、お墓を掃除しにいった。
ご先祖様、○○家の長男は、祖父の四十九日を前にして風俗にいきました。許してください。お酒も飲まないし、ギャンブルもやらない私がわずか60分間で1万5000円も使ったのは、人生ではじめてでした。すいません。ちなみに、手配師のおばあさんもお姉さん方(そのお店は女の人二人でまわしてるらしい。いつ休んでんだろう。)もみんな韓国人だと自己紹介していたのに、なぜ名前が「ゆり」さんだったんだろう。ウソをつく気があるのかないのか。
・そういうわけで、両親のみならず、姉ともお通夜と法事以来の再会。別にうれしくはないのだが、明日はほぼ確実に「あらアネエッティちゃんキレイになって〜。いい人は見つかった?お子さんは?」とコピペされたフレーズが30何歳の姉へとつきつけられると思うと、一人の人間としては悲しい思いがするとともに、弟としては「本人がそれで幸せになってくれるんだったら、結婚してもらっても私はいいと思うんですが……」という思いもする。個人的には結婚する気はないのだが、結婚という制度に反対するのは、なかなか難しいものよのう、とひとりごつ。大学でわずかばかりの、建前の「男女平等」を学んだ、ゴリゴリな保守思想にまみれた地元から出てきた私は、葬式の場で痛感した。
・父と母、両方もう老眼になってて、細かい文字を見るのに虫メガネ使ってた。名探偵コナンみたいになってた。
・新幹線から――私はもはや、お金を浮かして本を少しでも買って勉強したい、だから電車で何時間かかっても帰ろう、そのような若き時の情熱を捨てさってしまい、多少のカネを払ってとっとと帰ろうという、中国人の新富裕層のような精神を持つに至った――降りるとき、学生服を着たあんちゃんがバッグひとつをもって新幹線の駅に上って行った。高校生で学ランなのは、自分の高校(えてして地方の進学校はそうだと思うのだが、学区の中の一番の進学校って、旧制中学からの持ちあがりで、そういう学校が学ランを制服にしている)だし、今週末は国立大学の二次試験だと記憶している。
あんちゃん、がんばれ〜めちゃめちゃ緊張するし、もしかしたら試験中に「…あっ」って思う瞬間が何度も襲ってくるかもしんないし、落ちて失意のどん底に向かうかもしれない。でも、大学なんて入ってから――少なくとも勉強に限定すれば――好きなだけやれるから、大学に入ってくれい。がんばってくれい。見ず知らずの青年の背中を見て、「がんばっちくりぃ」と叫んだ私であった。
→さっき母親に聞いたのだが、日曜日が東京マラソンだそうな。石原の野郎、受験生の(科目が多い大学の試験の)二日目に移動手段が混雑してたら、東京の大学受ける子たちになんかあったらどうすんだよ。あのバーカ。
・実家にて済ませる用事終了。チチエッティ、渾身のスピーチ。別に話さなくてもいい会食の席にて、「親父とは……四十年の間、好きになれず、確執があるとはまでは言いませんが、そんなような状態が続いていました…1年半の介護生活にて、僕が親父を見ていたわけですが…そのときに…そのわだかまりは、解けたと、思います。」直木賞作家の田中氏を思わせる、まさかの名スピーチ。口々に飛び出る父への賞賛と、あふれ出す涙、突然現れた感動のピーク、思いのほかくるのが遅かった集合バス。
・で結局、ワタミはどうすればいいんでしょうか?
怒りにまみれて、もうワタミになんか行かないもんねっと私一人がつぶやいてみたものの、結局成績が悪くなると(よくなってもあんまり労働条件はよくならないみたいだし)労働者にしわ寄せが行きそうになって、あんまり意味ないのかも。聞くところによると、ワタミの社長って頭がもういっちゃってるみたいで、社長のありがたい御講演やら集会に出席するために、賃金も払われず、地方から東京まで出てこさせるみたい。人死んでんのに、っていうか過労自殺だっつってんのに、バングラデッシュに学校つくるのは彼女も望んでいると思いますとかたわけたことぬかしてるし。
ただ、ワタミの社長の頭がおかしいっていくら批判してもあんまり生産的じゃないし、あの社長が変わったところでワタミの体質が変わるわけでも、居酒屋産業のブラックな感じ(日本海庄やでも過労死の裁判があった。過労死させるようなところでメシは食わんて話になると、全国の居酒屋が廃業になる可能性がある)が変わるわけでも、ひいては日本の労働のありかたがかわるわけではないので、ここはいったん落ち着いて考え直そう。
まず、向かうべき方向性。
次に、マクロに。
あとは、ミクロに。
↑なんか偉そうなこと書こうと思ったけど、やっぱりやーめた。
この数日の話が前後してるけど、ちゅいったーでワタミが謝ったみたい。さすがに、夢のために人が死んで喜ぶっていう話にはならんよね。
・んで最賃なんだけども
最低賃金を設定することと、同一価値労働同一賃金を目指すことは、理論的には齟齬があるはずなのだが、にしても現状の労働諸制度では最賃が一定の人々の生活に関わってくることは疑うことなき事実であるように思う。最賃をあげるべきなのだが、あげると中小企業はどうなるんだろう。かといってあげないと、最賃をひとつの基準として決定されている労働市場に従事している人はどうなるのだろう。とっとと最賃あげろや、むしろ最賃を語らなくて済むようにジョブと賃金の関係を定めろや、といいたいところだが、実際に制度がそのように作られるかどうか以前に、私にはこの点がまだわからん。
じいちゃんの四十九日ということで(私の地元だけの風習なのか全国的なそれなのかは知るところではないが、人が亡くなってから7日=1週×7週間で49日で霊が天に召されて自動的に仏様になるというけっこうゆるい階級制度の発想の下、改めて儀式を行うらしい。私は詳細をよく知らず。)、再び帰郷。本年、1週間ぶり3度目の地元。
そういうわけで、以下、ネットが使えないときのことのメモ代わりに、ここにメモ。
・中学生同士が、カップルで帰宅。まだ中学生くらいだと青臭くて、手も握れねえんだなあれな。友達にイジられると恥ずかしいからわざと二人っきりで遅れて帰ったりするんだけど、後々友達にイジられるんだなあれな。つい1週間前に韓国人の中年女性におちんちんを握ってもらった私は、そんな感じでしみじみと中学生を見つめながら、お墓を掃除しにいった。
ご先祖様、○○家の長男は、祖父の四十九日を前にして風俗にいきました。許してください。お酒も飲まないし、ギャンブルもやらない私がわずか60分間で1万5000円も使ったのは、人生ではじめてでした。すいません。ちなみに、手配師のおばあさんもお姉さん方(そのお店は女の人二人でまわしてるらしい。いつ休んでんだろう。)もみんな韓国人だと自己紹介していたのに、なぜ名前が「ゆり」さんだったんだろう。ウソをつく気があるのかないのか。
・そういうわけで、両親のみならず、姉ともお通夜と法事以来の再会。別にうれしくはないのだが、明日はほぼ確実に「あらアネエッティちゃんキレイになって〜。いい人は見つかった?お子さんは?」とコピペされたフレーズが30何歳の姉へとつきつけられると思うと、一人の人間としては悲しい思いがするとともに、弟としては「本人がそれで幸せになってくれるんだったら、結婚してもらっても私はいいと思うんですが……」という思いもする。個人的には結婚する気はないのだが、結婚という制度に反対するのは、なかなか難しいものよのう、とひとりごつ。大学でわずかばかりの、建前の「男女平等」を学んだ、ゴリゴリな保守思想にまみれた地元から出てきた私は、葬式の場で痛感した。
・父と母、両方もう老眼になってて、細かい文字を見るのに虫メガネ使ってた。名探偵コナンみたいになってた。
・新幹線から――私はもはや、お金を浮かして本を少しでも買って勉強したい、だから電車で何時間かかっても帰ろう、そのような若き時の情熱を捨てさってしまい、多少のカネを払ってとっとと帰ろうという、中国人の新富裕層のような精神を持つに至った――降りるとき、学生服を着たあんちゃんがバッグひとつをもって新幹線の駅に上って行った。高校生で学ランなのは、自分の高校(えてして地方の進学校はそうだと思うのだが、学区の中の一番の進学校って、旧制中学からの持ちあがりで、そういう学校が学ランを制服にしている)だし、今週末は国立大学の二次試験だと記憶している。
あんちゃん、がんばれ〜めちゃめちゃ緊張するし、もしかしたら試験中に「…あっ」って思う瞬間が何度も襲ってくるかもしんないし、落ちて失意のどん底に向かうかもしれない。でも、大学なんて入ってから――少なくとも勉強に限定すれば――好きなだけやれるから、大学に入ってくれい。がんばってくれい。見ず知らずの青年の背中を見て、「がんばっちくりぃ」と叫んだ私であった。
→さっき母親に聞いたのだが、日曜日が東京マラソンだそうな。石原の野郎、受験生の(科目が多い大学の試験の)二日目に移動手段が混雑してたら、東京の大学受ける子たちになんかあったらどうすんだよ。あのバーカ。
・実家にて済ませる用事終了。チチエッティ、渾身のスピーチ。別に話さなくてもいい会食の席にて、「親父とは……四十年の間、好きになれず、確執があるとはまでは言いませんが、そんなような状態が続いていました…1年半の介護生活にて、僕が親父を見ていたわけですが…そのときに…そのわだかまりは、解けたと、思います。」直木賞作家の田中氏を思わせる、まさかの名スピーチ。口々に飛び出る父への賞賛と、あふれ出す涙、突然現れた感動のピーク、思いのほかくるのが遅かった集合バス。
・で結局、ワタミはどうすればいいんでしょうか?
怒りにまみれて、もうワタミになんか行かないもんねっと私一人がつぶやいてみたものの、結局成績が悪くなると(よくなってもあんまり労働条件はよくならないみたいだし)労働者にしわ寄せが行きそうになって、あんまり意味ないのかも。聞くところによると、ワタミの社長って頭がもういっちゃってるみたいで、社長のありがたい御講演やら集会に出席するために、賃金も払われず、地方から東京まで出てこさせるみたい。人死んでんのに、っていうか過労自殺だっつってんのに、バングラデッシュに学校つくるのは彼女も望んでいると思いますとかたわけたことぬかしてるし。
ただ、ワタミの社長の頭がおかしいっていくら批判してもあんまり生産的じゃないし、あの社長が変わったところでワタミの体質が変わるわけでも、居酒屋産業のブラックな感じ(日本海庄やでも過労死の裁判があった。過労死させるようなところでメシは食わんて話になると、全国の居酒屋が廃業になる可能性がある)が変わるわけでも、ひいては日本の労働のありかたがかわるわけではないので、ここはいったん落ち着いて考え直そう。
まず、向かうべき方向性。
次に、マクロに。
あとは、ミクロに。
↑なんか偉そうなこと書こうと思ったけど、やっぱりやーめた。
この数日の話が前後してるけど、ちゅいったーでワタミが謝ったみたい。さすがに、夢のために人が死んで喜ぶっていう話にはならんよね。
・んで最賃なんだけども
最低賃金を設定することと、同一価値労働同一賃金を目指すことは、理論的には齟齬があるはずなのだが、にしても現状の労働諸制度では最賃が一定の人々の生活に関わってくることは疑うことなき事実であるように思う。最賃をあげるべきなのだが、あげると中小企業はどうなるんだろう。かといってあげないと、最賃をひとつの基準として決定されている労働市場に従事している人はどうなるのだろう。とっとと最賃あげろや、むしろ最賃を語らなくて済むようにジョブと賃金の関係を定めろや、といいたいところだが、実際に制度がそのように作られるかどうか以前に、私にはこの点がまだわからん。
2012年02月23日
ルーマン『エコロジーのコミュニケーション』.
ルーマン,1986,『エコロジーのコミュニケーション』.(庄司信訳,2007,新泉社.)
ひとさまにいただきました。ありがとうございやす。
ルーマンを読んでて、読んでるというより文字を追っているという感じでよく分かんないんだが、それだけでなくいつも「こういう文章、自分には書けないなあ」と思う。権力、信頼、福祉国家における〜などを読んだものの、いまいち「分かった」感がしない。人に話せないようなら、分かってないってことだと思う。(ある程度話せて、知識がある人とやりとりをできるようになったら、いい感じだと思う。語学と話題は、ある程度知識がないと成立しない気がする。)
んで、これは割にいい感じの本らしい。タイトル通りエコロジーが本題なのだが、構成もいい感じらしい。どういうことかっていうと
システムの話…法、経済など
道具立ての話…第二階の観察、バイナリーコードなど
あとはそれ以外…共鳴(ってはじめて聞いた)、新しい社会運動など
って感じで、ルーマンの理論と道具立てが、細かい章に分かれて説明されているので、ルーマン本人が書いている、講義スタイルではない仕事の中では、わりと優しく書かれた本みたい。
で、今3分の1くらい読んだけど、相変わらず上手く理解できない。休憩。
[付記]
いま、読み返し中。おおよそ、これまで学んできたことの範疇であることに気づく。ただ、細かいところでは分からないところがあるので、ゆっくり読み返していければよいかなと思う。
おもしろかったところ。
・やはり、自己言及を徹底しないといけない。しかし、そうなると議論がとたんに難しくなっちまう。
・因果関係で考えないというのは、思いのほか難しい。法学や政策学は、その性質上、因果関係(を基礎にした価値の比較)という思考様式から自由になることはできず、システム理論とは対立せざるを得ない部分もある。ただ、ルーマンのシステム論は法学が一番分かりやすいといえば分かりやすいような気もするが…そこらへんどうなのよ。
・ハバーマスいじり。論争以前のルーマンの仕事はまだ読んだことがないのだが、論争以後は、おそらくどこかで共通の目的意識みたいなのはあるのかもしれないが、ことあるごとにハバーマスをいじる文章が出てくる。これは、道徳の話にすり替えられやすいということと、「ね、結局は政治が最後、全部を決めるのさ」というヒエラルヒーの話にされてしまうことの批判も含んでいるのかと。
以下、引用。おもしろかった部分だけ。
「理論に主導された分析に対しては、いつでも「実践との結び付き」が欠けていると非難することが可能である。そうした分析は誰かに処方箋を提示したりはしない。ただ実践を観察し、もしも人々がことを急くあまり修正を必要とする観念に基づいて行為している場合には、いったいそれがどれほど役に立つのかと、折に触れて問うだけである。もちろん、修正を必要とする観念に基づいて行為する場合でも何らかの有用な成果が得られる可能性は否定されない。ただ、そうだとしても理論はなお次のように主張するだろう。よりよく統制された方法に基づいて考えを構築するならば、有用な成果をもたらす可能性を高めることができるし、それ以上に無益な興奮をもたらす可能性を低めることができる、と。」pp6
「社会学が対抗科学あるいは「批判理論」を自認した場合でも、目を向けていたのは、社会と、眼前の社会がそれにふさわしいあり方をしていない――あるいは、いまだしていない――とされた人間の諸原理だけであった。少なすぎる自由、少なすぎる平等、少なすぎる正義、少なすぎる理性――ブルジョア的テーマばかりであった。」pp16
「してみると、帰責手続きの本当の意味は、こうした無実の弁明にこそあるのかもしれない。」pp25
「その際、よりよい行為の可能性を「基礎づける」ことは全く問題にならない。また「支配から自由な討議」を創設するなどといったことが問題なのでもない。……理性的合意と調和的な共同生活へと至る道を塞いでいる障害を取り除くことが問題なのでもない。」pp57
「新しい社会運動には理論がない」pp231
「だからといって、不安に対する社会治療的効果をこの考え方に期待することはできない。理論の抽象的世界に陶酔して、差し迫った問題に対する気休めをそこに求めたりするなどは言語道断であろう。」pp242
真中らへんは、まだ読み返せてない。気が向いたらまた加えます。
ひとさまにいただきました。ありがとうございやす。
ルーマンを読んでて、読んでるというより文字を追っているという感じでよく分かんないんだが、それだけでなくいつも「こういう文章、自分には書けないなあ」と思う。権力、信頼、福祉国家における〜などを読んだものの、いまいち「分かった」感がしない。人に話せないようなら、分かってないってことだと思う。(ある程度話せて、知識がある人とやりとりをできるようになったら、いい感じだと思う。語学と話題は、ある程度知識がないと成立しない気がする。)
んで、これは割にいい感じの本らしい。タイトル通りエコロジーが本題なのだが、構成もいい感じらしい。どういうことかっていうと
システムの話…法、経済など
道具立ての話…第二階の観察、バイナリーコードなど
あとはそれ以外…共鳴(ってはじめて聞いた)、新しい社会運動など
って感じで、ルーマンの理論と道具立てが、細かい章に分かれて説明されているので、ルーマン本人が書いている、講義スタイルではない仕事の中では、わりと優しく書かれた本みたい。
で、今3分の1くらい読んだけど、相変わらず上手く理解できない。休憩。
[付記]
いま、読み返し中。おおよそ、これまで学んできたことの範疇であることに気づく。ただ、細かいところでは分からないところがあるので、ゆっくり読み返していければよいかなと思う。
おもしろかったところ。
・やはり、自己言及を徹底しないといけない。しかし、そうなると議論がとたんに難しくなっちまう。
・因果関係で考えないというのは、思いのほか難しい。法学や政策学は、その性質上、因果関係(を基礎にした価値の比較)という思考様式から自由になることはできず、システム理論とは対立せざるを得ない部分もある。ただ、ルーマンのシステム論は法学が一番分かりやすいといえば分かりやすいような気もするが…そこらへんどうなのよ。
・ハバーマスいじり。論争以前のルーマンの仕事はまだ読んだことがないのだが、論争以後は、おそらくどこかで共通の目的意識みたいなのはあるのかもしれないが、ことあるごとにハバーマスをいじる文章が出てくる。これは、道徳の話にすり替えられやすいということと、「ね、結局は政治が最後、全部を決めるのさ」というヒエラルヒーの話にされてしまうことの批判も含んでいるのかと。
以下、引用。おもしろかった部分だけ。
「理論に主導された分析に対しては、いつでも「実践との結び付き」が欠けていると非難することが可能である。そうした分析は誰かに処方箋を提示したりはしない。ただ実践を観察し、もしも人々がことを急くあまり修正を必要とする観念に基づいて行為している場合には、いったいそれがどれほど役に立つのかと、折に触れて問うだけである。もちろん、修正を必要とする観念に基づいて行為する場合でも何らかの有用な成果が得られる可能性は否定されない。ただ、そうだとしても理論はなお次のように主張するだろう。よりよく統制された方法に基づいて考えを構築するならば、有用な成果をもたらす可能性を高めることができるし、それ以上に無益な興奮をもたらす可能性を低めることができる、と。」pp6
「社会学が対抗科学あるいは「批判理論」を自認した場合でも、目を向けていたのは、社会と、眼前の社会がそれにふさわしいあり方をしていない――あるいは、いまだしていない――とされた人間の諸原理だけであった。少なすぎる自由、少なすぎる平等、少なすぎる正義、少なすぎる理性――ブルジョア的テーマばかりであった。」pp16
「してみると、帰責手続きの本当の意味は、こうした無実の弁明にこそあるのかもしれない。」pp25
「その際、よりよい行為の可能性を「基礎づける」ことは全く問題にならない。また「支配から自由な討議」を創設するなどといったことが問題なのでもない。……理性的合意と調和的な共同生活へと至る道を塞いでいる障害を取り除くことが問題なのでもない。」pp57
「新しい社会運動には理論がない」pp231
「だからといって、不安に対する社会治療的効果をこの考え方に期待することはできない。理論の抽象的世界に陶酔して、差し迫った問題に対する気休めをそこに求めたりするなどは言語道断であろう。」pp242
真中らへんは、まだ読み返せてない。気が向いたらまた加えます。
2012年02月22日
びぼーろく〜0222
びぼーろく〜0222
・引っ越しをすることになり、荷物をまとめはじめたらさあ大変。帰ってきてからすぐはじめたら、ひと段落したと思えるところまでやってもうこんな時間でござる。
・髪の毛もきろう
・気になった記事
だまし絵とか、そういう類のもの。こういうの好きね〜
http://blog.livedoor.jp/worldfusigi/archives/5208489.html
「女子高生見学クラブ」
これは労働なのか。そして、性的リベラリズムについて私が不勉強な件。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-2162.html
酔っぱらったときに友達とやるゲーム。くだらないけど、こういうのをつくれることはすごいと思う。
http://blog.livedoor.jp/chihhylove/archives/6715969.html
奇妙だなあ。大正時代フェティシズム。天皇制と関係はあるだろうか。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4759.html
30歳になって気付いたこと。20歳の自分、30歳の自分、40歳の自分が読んでどう思うだろうか。
http://www.matacoco.com/archives/67317056.html
菅。「311がひどくなったのは、311以前のせいだもんっ」
http://news.harikonotora.net/r/21784/
都道府県別マックとスタバ
http://blog.livedoor.jp/gatun02/archives/6730715.html
AKBの生歌について。売れる―売れないという軸と、生歌−オンリー(声を別どりすること)という軸は、どのように交叉しているのか?
http://akb48matome.com/archives/51805185.html
大学が抱える問題は、その多くは企業および高校生までの問題であろう。こんなことが問題になるということを、大学の側がきちんと考えないと。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4771.html
なぜ永山基準に触れない?実名を出すかどうかとか、弁護団の戦略がどうとか、反省があるかどうかが本質ではないのではないか。
http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51698700.html
はすもと。高齢者を敵に回したら勝てないが、この件はどうなんだろう
http://white0wine.blog10.fc2.com/blog-entry-4212.html
結局、今日もあまり古典を読めなかった。他の本をや。うーむ。
付記。
ワタミで過労自殺。渡辺美樹の発言もあり。
腹立たしいを通り越して、今からどうにかしてやろうかと思う。
私一人がしたところで意味がないのはわかっているが、もう絶対ワタミにはいかないし、あいつがやらかしたことはしつこく告発しつづけないといけない。
このことを、正当化する奴らがいるならやってみろ。なにが幸せだ。なにがブラック企業ではありませんだ。この本物のクズめ。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4774.html
・引っ越しをすることになり、荷物をまとめはじめたらさあ大変。帰ってきてからすぐはじめたら、ひと段落したと思えるところまでやってもうこんな時間でござる。
・髪の毛もきろう
・気になった記事
だまし絵とか、そういう類のもの。こういうの好きね〜
http://blog.livedoor.jp/worldfusigi/archives/5208489.html
「女子高生見学クラブ」
これは労働なのか。そして、性的リベラリズムについて私が不勉強な件。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-2162.html
酔っぱらったときに友達とやるゲーム。くだらないけど、こういうのをつくれることはすごいと思う。
http://blog.livedoor.jp/chihhylove/archives/6715969.html
奇妙だなあ。大正時代フェティシズム。天皇制と関係はあるだろうか。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4759.html
30歳になって気付いたこと。20歳の自分、30歳の自分、40歳の自分が読んでどう思うだろうか。
http://www.matacoco.com/archives/67317056.html
菅。「311がひどくなったのは、311以前のせいだもんっ」
http://news.harikonotora.net/r/21784/
都道府県別マックとスタバ
http://blog.livedoor.jp/gatun02/archives/6730715.html
AKBの生歌について。売れる―売れないという軸と、生歌−オンリー(声を別どりすること)という軸は、どのように交叉しているのか?
http://akb48matome.com/archives/51805185.html
大学が抱える問題は、その多くは企業および高校生までの問題であろう。こんなことが問題になるということを、大学の側がきちんと考えないと。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4771.html
なぜ永山基準に触れない?実名を出すかどうかとか、弁護団の戦略がどうとか、反省があるかどうかが本質ではないのではないか。
http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51698700.html
はすもと。高齢者を敵に回したら勝てないが、この件はどうなんだろう
http://white0wine.blog10.fc2.com/blog-entry-4212.html
結局、今日もあまり古典を読めなかった。他の本をや。うーむ。
付記。
ワタミで過労自殺。渡辺美樹の発言もあり。
腹立たしいを通り越して、今からどうにかしてやろうかと思う。
私一人がしたところで意味がないのはわかっているが、もう絶対ワタミにはいかないし、あいつがやらかしたことはしつこく告発しつづけないといけない。
このことを、正当化する奴らがいるならやってみろ。なにが幸せだ。なにがブラック企業ではありませんだ。この本物のクズめ。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4774.html
2012年02月21日
ヴェーバー『職業としての学問』.
ヴェーバー,1919,『職業としての学問』.(岩波文庫版,1980年)
社会科学の古典4冊目。
デュルケムもヘーゲルもちっとも読み終えられそうにないし、ここ数日ゆっくり本を読めなかったから、短いのを読もうと思った。数日前に記事をあげた『職業としての政治』と同じで、連続した講座のひとつ。
ちなみに、訳は尾高さんのなんだが、たぶん他の訳のほうがいい。尾高さんのドイツ語能力や日本語の分かりやすい選択の能力というよりは、日本語として現代的な表現でないところが散見される。(実務家が実際家と言われていたり、「〜ということは、人はそうだとはしない」みたいな表現。もっと分かりやすく言い変えられると思うんだが…)
わかりやすさでいうと最近出たもの(中山さんだったかな?)のほうがいいと思う。岩波のだと、もう古いしみんな読んだことあるから、どこの古本屋でも100円コーナーで売られているが、上記の理由からあまりオススメできない。
おおまかな内容。
・ドイツの大学のアメリカ化
アメリカの大学は官僚的な組織になっていって、学生も官僚になるプロセスとしてくらいしか大学を認識してない。かたや教授にとっても、僥倖と情実(=偶然とコネ)によって職が決まってしまうから、あまり職業として安定してないみたいな。でこれが冒頭に言及されて、以下のような学問とか学生の態度とかに影響を与えている。
んだけど、これをわざわざ講演でいう意味はなんだろう??
・個性やら体験とは違う、学問への専心
当時のドイツは、左翼が社会主義革命へと期待をよせ、他方ではニーチェがいうようなニヒリズム(政治的立場としては保守というか、政治的無関心のために政治の悪化も受け入れてしまうような立場)が流行しており、学生としてもヴェーバーにそういった価値へのコミットを期待しているようなところがあったみたい。でも、そんなものを求めるのはお門違いで、学問が専門化していく中で、君たち学生はきちんと勉強しなきゃいけないし、教授もヘタにイデオロギッシュなことを語るべきでない、みたいな。
→価値自由というのは、ヴェーバー自身も強調しているように、価値の比較をするのではなく、個別の価値に立脚するところの体系性・論理性でもって政策の主張をすべきだという話であって、価値を語らない・価値を語るな、ということではない。しかし、晩年のヴェーバー(この講演は19年、没が20年)は、かなりこの点を(変に)つきつめていて、教授は授業で政策について語っちゃいけないとまで言ってしまってる。精神症を患っていたらしいが、教授がそのように価値にコミットしたがることを嫌ってのことだろうか。
・学問の意義
で学問の意義はなんなのかっていうと、ひとつには技術や予測の術を明らかにすることで合理化を推進しようとするものであり、もう一つは世界の仕組みや成り立ちを明らかにすることである。
→したがって、(当時は啓蒙主義も流行っていたのかな?)世界が「進歩」していくという思考は、トルストイがいうような「死には意味がない」という考えと対立するもの(世界は進んでいくのに、死は停止を意味するから)なのだから、宗教であれ芸術であれ、それらを観察する学問は「真の○○への道」(真の実在、真の神、真の芸術…など)ではないし、研究者は政治的・宗教的指導者でもない
まあ何回も読むことになるし、記事もまた書くだろうから、今日はここらへんで。
社会科学の古典4冊目。
デュルケムもヘーゲルもちっとも読み終えられそうにないし、ここ数日ゆっくり本を読めなかったから、短いのを読もうと思った。数日前に記事をあげた『職業としての政治』と同じで、連続した講座のひとつ。
ちなみに、訳は尾高さんのなんだが、たぶん他の訳のほうがいい。尾高さんのドイツ語能力や日本語の分かりやすい選択の能力というよりは、日本語として現代的な表現でないところが散見される。(実務家が実際家と言われていたり、「〜ということは、人はそうだとはしない」みたいな表現。もっと分かりやすく言い変えられると思うんだが…)
わかりやすさでいうと最近出たもの(中山さんだったかな?)のほうがいいと思う。岩波のだと、もう古いしみんな読んだことあるから、どこの古本屋でも100円コーナーで売られているが、上記の理由からあまりオススメできない。
おおまかな内容。
・ドイツの大学のアメリカ化
アメリカの大学は官僚的な組織になっていって、学生も官僚になるプロセスとしてくらいしか大学を認識してない。かたや教授にとっても、僥倖と情実(=偶然とコネ)によって職が決まってしまうから、あまり職業として安定してないみたいな。でこれが冒頭に言及されて、以下のような学問とか学生の態度とかに影響を与えている。
んだけど、これをわざわざ講演でいう意味はなんだろう??
・個性やら体験とは違う、学問への専心
当時のドイツは、左翼が社会主義革命へと期待をよせ、他方ではニーチェがいうようなニヒリズム(政治的立場としては保守というか、政治的無関心のために政治の悪化も受け入れてしまうような立場)が流行しており、学生としてもヴェーバーにそういった価値へのコミットを期待しているようなところがあったみたい。でも、そんなものを求めるのはお門違いで、学問が専門化していく中で、君たち学生はきちんと勉強しなきゃいけないし、教授もヘタにイデオロギッシュなことを語るべきでない、みたいな。
→価値自由というのは、ヴェーバー自身も強調しているように、価値の比較をするのではなく、個別の価値に立脚するところの体系性・論理性でもって政策の主張をすべきだという話であって、価値を語らない・価値を語るな、ということではない。しかし、晩年のヴェーバー(この講演は19年、没が20年)は、かなりこの点を(変に)つきつめていて、教授は授業で政策について語っちゃいけないとまで言ってしまってる。精神症を患っていたらしいが、教授がそのように価値にコミットしたがることを嫌ってのことだろうか。
・学問の意義
で学問の意義はなんなのかっていうと、ひとつには技術や予測の術を明らかにすることで合理化を推進しようとするものであり、もう一つは世界の仕組みや成り立ちを明らかにすることである。
→したがって、(当時は啓蒙主義も流行っていたのかな?)世界が「進歩」していくという思考は、トルストイがいうような「死には意味がない」という考えと対立するもの(世界は進んでいくのに、死は停止を意味するから)なのだから、宗教であれ芸術であれ、それらを観察する学問は「真の○○への道」(真の実在、真の神、真の芸術…など)ではないし、研究者は政治的・宗教的指導者でもない
まあ何回も読むことになるし、記事もまた書くだろうから、今日はここらへんで。
濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』.
濱口桂一郎,2011,『日本の雇用と労働法』日本経済新聞出版社.
読みたかった本、何冊目か。
以前読んだ、濱口さんの本についての記事。違う本なのだが、語っていることの本質は変わっていないと思うので、あげておく。
http://liberation.paslog.jp/article/1982820.html
さて。
濱口さんご本人のブログで新著が出ていたことを知っていたものの、個人的な事情から読むのをガマンしていた。今日、ご近所の大学の生協にて購入。なんとかゼミっていうゼミの本に指定されてて、その棚から一冊とっていったため、近い将来に「先生、生協においてあるはずの濱口先生の本がありませんでした」みたいことがあっても、それは私のせいじゃない。おもしろい本を書く濱口先生が悪いんだ。にこにこぷん。
読みたい気持ちをガマンできず、自転車で坂道を下りながら読んでやろうか、とも思った。私はよく職質を受けるのだが、もし私が濱口さんの本を読みながら自転車をこいでいるときに警察の人から職務質問を受けたら、「(本の内容を考えると、)ガマンできなかった。ムラムラしてやった。悪いことだとは思っていない。」などと痴漢のニュースに出てくるくだりを述べようと思っていた。
本題。
私に本書を要約できるほどの能力がないことは、このブログを読んでいただいている方はご存じかと思われるので、それはしない。むしろ、濱口さん自身が冒頭にて「いささか欲張りな本」だと宣言されていることからも分かるように、そして様々な方面からの高い評価がそれを証明しているように、そう厚くない本でありながらも、現在の日本の労働状況および労働法制についての簡潔かつ明快な要約となっているように思われるため、ぜひ本書を読んでいただくべきかなあと思う。
あとは、濱口さんご自身のブログがあるので、そちらも参考になるかと。本人は大学で学んだ当たり前のことくらいしか言ってないよ、と謙遜されているのだが、私みたいな知識のない人でもためになる話がけっこう書いてあるので、ざーっと流し読みするだけでも勉強になると思う。濱口さんのブログ、濱口さんのブログ、濱口桂一郎さんのブログです。大切なことなので、3回言いました。
というわけで、以下おもったことをメモ。
・おもしろい。いまようやく最後まで読めたが、最後までおもしろさが続くってすごいことだと思う。09年に出版された『新しい労働社会』と本質としては異なるものではないように思われるが、その本が現在の労働問題の議論の整理と問題点を示すことに重点が置かれていたのに対して、本書では労働問題とされていることの時代的・制度的変遷をたどりつつその制度の概要をつかむことが強調されていたので、いっそう立体的かつ個別テーマにそった労働問題の認識ができるようになったと思う。
・で、本質ってなにさという話だが、これは上記に挙げたどちらの本でもいいので、最初の30ページくらいまで読めば分かる。日本の労働問題の本質的な部分は、メンバーシップ型の労働契約にある。そしてそれらを取り囲む形での、法と判例(の蓄積)の齟齬、就業規則の占める重大な位置なども関わってくる。メンバーシップ型労働社会は、強調してもし足りないほどで、むしろ浅学の私なんかが繰り返すのはやめておく。
ただ私が強調したいのは、運動をがんばってる人がこの本を読んで抱くかもしれない、「これだから○○(官僚、研究者、そのほかお好みの悪口を挿入していただいて)は……」としか思わないことへの「ちょっと待った!」だ。つまり、濱口さんの議論を真剣に受け止めないと、もしかしたら自分たちの首をしめることになるかも、ということ。(これは、誤読されそうなのでちょっと丁寧に書いておきたい。)というのは、労働問題やら社会政策やらの講演会とか聞きに行くと、かなりの確率で、「私は女性なんだけど、結局会社って男中心で、差別はなくならない」とか、「非正規で働いてるけど、正社員の奴らはいい御身分で…」とか、労働市場における(量的な意味というよりは、待遇の面において)マイノリティの人々からの差別の告発がある。
その主張は、私だって(自分がそういう立場にあるわけではないから、当人の気持ちは分からないにしても)よくわかる話だし、問題だと思うし、解決ができることは解決すべきだと思う。じゃあだからといって、「女性を男性よりも保護しろ」とか、「派遣社員『であるがゆえに』正社員よりも保護しろ」、という議論になりますか、という話。そうはならないということを認識しておかないと、どこか話がねじれてしまう。
つまり本書でも強調されているように、女性労働者や非正規労働者は、いわゆる「正社員市場」がメンバーシップ型の労働契約の表面とするならば、それに対置される形での、裏面なのである。つまり、正社員―非正規社員という枠組みそれ自体が、日本型労働社会の表出だと認識しなくてはいけない。したがって、問題は同一価値労働同一賃金(賃金にとどまらず、労働諸条件も含める形で)を整備することであり、そのために公的な職業訓練や職業紹介、そして賃労働―資本への「必要な」国家介入を要求することかと思う。くどいけど、言いかえると、女性や非正規の問題は既存の労働社会における構造的に内包された問題なのだから、女性「であるがゆえに」、非正規「であるがゆえに」という問題の立て方は、誤った答えの立て方につながりやすい。
私の周りでも、困っている人やその当人として、運動をがんばっている人がいる。運動は、おそらくなにがしかの成果を獲得することばかりならず、集団としてのアイデンティティという意義をも多分に含み込むものだから、そのように主張したくなる気持ちは、政策としての妥当性以外からも導出されていることは想像できる。そして、抑圧を受けている当人の気持ちは私なんかにはわからないし、「うんうん、あなたの気持ち、よく分かるよ」なんて上から目線をすることは、出来る限り避けたい。しかし、「困っている人がいる、だから助けたい」という思いだけでつっぱしってしまうことで、どこか既存の権力関係を誤認し、それと共犯関係をとりむすび、結果として出てきてしまったものが「あれ、こんなはずでは…」というものになってほしくはない。だからこそ、この点は強調してもしたりない。
・結果としてそうなったのか、意図的にそうしたのか(もちろん両者が別のものだという合弁しなくてはいけない理由はないわけだが)分からないのだが、戦争のときの労働社会のありようが戦後のそれをも大きく規定しているという議論が強調されているように思う。なぜだろうか?
たしかに一般論としても、制度というのは出来たときが一番重要だし(文字通り制度をつくるということは作る背景や、ある枠組みを定めるということになる)、それ以降の変遷も措定されたときを基準にして作られるから、当たり前の話かもしれない。本書でいえば、流動的であった労働市場が徐々に枠づけられていく中で、戦争の際の「皇国の産業戦士」としての一体感が制度としても裏打ちされているという話は、繰り返し出てきていたように思う。そしてそれは、企業社会企業社会言われて久しい中で、戦後の経済成長を支えるメンバーシップ型労働社会が、実は戦争のときに出来たものなんですよということを意味しているから、強調されてしかるべきだとも言える。
他意はあるのだろうか、とついつい邪推したくなるものの、私に知識がなくて邪推すらできず。(「私たちの果敢な運動による成果として…」とアツく語りたがる一部の人に、「いやいや、それ別に戦後の運動だけによるものじゃないですから」とツッコミを入れてるのかなあ?)
あと、これが興味深かったのは、全然関係ないと思ってた最近の読書の経験とも実は似通っていたからである。上野英信っていう、当時からして十分すぎるほどにエリートである京大に入りながら(当時の共産党による指示だと思うんだけど)中退して炭鉱の労働者になる人のルポがいくつかあるのだが、そこでは被差別部落の人々が戦争の前線で「お国のために」と言いながら犠牲になっていくことと、炭鉱労働や港湾労働(もしかしたら現在では差別用語なのかもしれないけど、抗夫とか沖仲士って呼ばれていた)が過酷な労働条件や衛生環境で搾取されることも「お国のためだ」として、エピソードとして並列に並べられていた。
これが、(実際には権力関係を隠蔽し、むしろ権力―抑圧という図式を強化するという点においては、現実ではなくて虚偽意識である意味において)単なるイデオロギーにすぎない、というのではなく、ブルーカラーでもホワイトカラーでも、皇国の産業戦士であれば平等たるべきだ、という認識を制度化していく背景になったともいえる、っぽい。
・んでコラムもおもしろい。全然労働法が分からんていう人も、最初の30ページくらいとコラムだけ読めば、なんとなーくメンバーシップ型についての雰囲気が分かるかなあと思う。もとより、この一冊で日本の社会がすべて分かるんだい、とまで風呂敷を広げていはいないものの、QCサークルの話とか、社内結婚の話とかは、改めて企業―社会の関係を考える上では示唆に富むかと。
そりゃあ、雇ってくれるばかりでなく、嫁さんももらえて(だいぶ言葉が汚いけど、分かりやすいので)、社宅やら家族手当やらももらえて、「やめさえしなければ」安泰だったら、「長時間スレスレまで働くのが最も合理的」と言わしめるようになりますわな、と思う。制度として結実したものが、制度と社会のありようと社会規範が奇妙にごちゃまぜになった結果、合理的と思われないことが合理的とされているいい例かと。
・たしか前回の本を読んだとき、ああ労働法勉強しなきゃなあ、と思いながらおよそ1年が経とうとしている。残念ながら、今回もその言葉で記事をしめることなる。私の「労働問題について勉強する本のメモ」は、「空白の石板」となった。無念。
いやみなさん、知ってます?そもそも「労働法」っていう法はないんですよ、というのもね……
[付記]
伊集院光のラジオでたまたま、「私の24時間は私の24時間だから企業になんか従属したくない」「会社の上下関係とかウザい」という一口をそえたスーツ姿の女性が描かれた派遣会社の宣伝の広告(東京の大きい駅だと、そういう広告がちょっとコメントやら色を変えて、通路にそってながーく張られている)のことが語られていた。伊集院は、それを池袋駅で見たらしいんだけど、「募集する側はそれでいいかもしんないけど、募集をかける側からしたら、『ええ〜、人材を欲しがっているこっちの身にもなってよ』って思っちゃうよね」って言ってた。
問題は、企業になんかしばられたくないんだ、って思うことでも、企業に役立つ人材を選ぶ立場から広告を眺めることでもなく、その選択が適切な選択肢ではなくなるような、適切な制度をつくることだと思う。そっから先は、個人なり企業の人事部やら派遣会社の自由となるだろう。
あとラジオの続きで、ゼブラさんと伊集院さんがツイッター上でやりとりしてて、伊集院自体は「もういいや」的な感じになったらしい。やりとりの様子が具体的には分かんないけど、「自分が言ったことは、あとでどう曲解されたり誤解されたりしても、そこにまで責任を持つべきなのか?」というのが二人の論争の中心になってたみたい。学問の世界だと、いっそうこの言葉って問題になるんだよなあと思いつつ、たしかに……以下、あんまり怖いので書こうと思ったことは書かないでおこう(笑)
読みたかった本、何冊目か。
以前読んだ、濱口さんの本についての記事。違う本なのだが、語っていることの本質は変わっていないと思うので、あげておく。
http://liberation.paslog.jp/article/1982820.html
さて。
濱口さんご本人のブログで新著が出ていたことを知っていたものの、個人的な事情から読むのをガマンしていた。今日、ご近所の大学の生協にて購入。なんとかゼミっていうゼミの本に指定されてて、その棚から一冊とっていったため、近い将来に「先生、生協においてあるはずの濱口先生の本がありませんでした」みたいことがあっても、それは私のせいじゃない。おもしろい本を書く濱口先生が悪いんだ。にこにこぷん。
読みたい気持ちをガマンできず、自転車で坂道を下りながら読んでやろうか、とも思った。私はよく職質を受けるのだが、もし私が濱口さんの本を読みながら自転車をこいでいるときに警察の人から職務質問を受けたら、「(本の内容を考えると、)ガマンできなかった。ムラムラしてやった。悪いことだとは思っていない。」などと痴漢のニュースに出てくるくだりを述べようと思っていた。
本題。
私に本書を要約できるほどの能力がないことは、このブログを読んでいただいている方はご存じかと思われるので、それはしない。むしろ、濱口さん自身が冒頭にて「いささか欲張りな本」だと宣言されていることからも分かるように、そして様々な方面からの高い評価がそれを証明しているように、そう厚くない本でありながらも、現在の日本の労働状況および労働法制についての簡潔かつ明快な要約となっているように思われるため、ぜひ本書を読んでいただくべきかなあと思う。
あとは、濱口さんご自身のブログがあるので、そちらも参考になるかと。本人は大学で学んだ当たり前のことくらいしか言ってないよ、と謙遜されているのだが、私みたいな知識のない人でもためになる話がけっこう書いてあるので、ざーっと流し読みするだけでも勉強になると思う。濱口さんのブログ、濱口さんのブログ、濱口桂一郎さんのブログです。大切なことなので、3回言いました。
というわけで、以下おもったことをメモ。
・おもしろい。いまようやく最後まで読めたが、最後までおもしろさが続くってすごいことだと思う。09年に出版された『新しい労働社会』と本質としては異なるものではないように思われるが、その本が現在の労働問題の議論の整理と問題点を示すことに重点が置かれていたのに対して、本書では労働問題とされていることの時代的・制度的変遷をたどりつつその制度の概要をつかむことが強調されていたので、いっそう立体的かつ個別テーマにそった労働問題の認識ができるようになったと思う。
・で、本質ってなにさという話だが、これは上記に挙げたどちらの本でもいいので、最初の30ページくらいまで読めば分かる。日本の労働問題の本質的な部分は、メンバーシップ型の労働契約にある。そしてそれらを取り囲む形での、法と判例(の蓄積)の齟齬、就業規則の占める重大な位置なども関わってくる。メンバーシップ型労働社会は、強調してもし足りないほどで、むしろ浅学の私なんかが繰り返すのはやめておく。
ただ私が強調したいのは、運動をがんばってる人がこの本を読んで抱くかもしれない、「これだから○○(官僚、研究者、そのほかお好みの悪口を挿入していただいて)は……」としか思わないことへの「ちょっと待った!」だ。つまり、濱口さんの議論を真剣に受け止めないと、もしかしたら自分たちの首をしめることになるかも、ということ。(これは、誤読されそうなのでちょっと丁寧に書いておきたい。)というのは、労働問題やら社会政策やらの講演会とか聞きに行くと、かなりの確率で、「私は女性なんだけど、結局会社って男中心で、差別はなくならない」とか、「非正規で働いてるけど、正社員の奴らはいい御身分で…」とか、労働市場における(量的な意味というよりは、待遇の面において)マイノリティの人々からの差別の告発がある。
その主張は、私だって(自分がそういう立場にあるわけではないから、当人の気持ちは分からないにしても)よくわかる話だし、問題だと思うし、解決ができることは解決すべきだと思う。じゃあだからといって、「女性を男性よりも保護しろ」とか、「派遣社員『であるがゆえに』正社員よりも保護しろ」、という議論になりますか、という話。そうはならないということを認識しておかないと、どこか話がねじれてしまう。
つまり本書でも強調されているように、女性労働者や非正規労働者は、いわゆる「正社員市場」がメンバーシップ型の労働契約の表面とするならば、それに対置される形での、裏面なのである。つまり、正社員―非正規社員という枠組みそれ自体が、日本型労働社会の表出だと認識しなくてはいけない。したがって、問題は同一価値労働同一賃金(賃金にとどまらず、労働諸条件も含める形で)を整備することであり、そのために公的な職業訓練や職業紹介、そして賃労働―資本への「必要な」国家介入を要求することかと思う。くどいけど、言いかえると、女性や非正規の問題は既存の労働社会における構造的に内包された問題なのだから、女性「であるがゆえに」、非正規「であるがゆえに」という問題の立て方は、誤った答えの立て方につながりやすい。
私の周りでも、困っている人やその当人として、運動をがんばっている人がいる。運動は、おそらくなにがしかの成果を獲得することばかりならず、集団としてのアイデンティティという意義をも多分に含み込むものだから、そのように主張したくなる気持ちは、政策としての妥当性以外からも導出されていることは想像できる。そして、抑圧を受けている当人の気持ちは私なんかにはわからないし、「うんうん、あなたの気持ち、よく分かるよ」なんて上から目線をすることは、出来る限り避けたい。しかし、「困っている人がいる、だから助けたい」という思いだけでつっぱしってしまうことで、どこか既存の権力関係を誤認し、それと共犯関係をとりむすび、結果として出てきてしまったものが「あれ、こんなはずでは…」というものになってほしくはない。だからこそ、この点は強調してもしたりない。
・結果としてそうなったのか、意図的にそうしたのか(もちろん両者が別のものだという合弁しなくてはいけない理由はないわけだが)分からないのだが、戦争のときの労働社会のありようが戦後のそれをも大きく規定しているという議論が強調されているように思う。なぜだろうか?
たしかに一般論としても、制度というのは出来たときが一番重要だし(文字通り制度をつくるということは作る背景や、ある枠組みを定めるということになる)、それ以降の変遷も措定されたときを基準にして作られるから、当たり前の話かもしれない。本書でいえば、流動的であった労働市場が徐々に枠づけられていく中で、戦争の際の「皇国の産業戦士」としての一体感が制度としても裏打ちされているという話は、繰り返し出てきていたように思う。そしてそれは、企業社会企業社会言われて久しい中で、戦後の経済成長を支えるメンバーシップ型労働社会が、実は戦争のときに出来たものなんですよということを意味しているから、強調されてしかるべきだとも言える。
他意はあるのだろうか、とついつい邪推したくなるものの、私に知識がなくて邪推すらできず。(「私たちの果敢な運動による成果として…」とアツく語りたがる一部の人に、「いやいや、それ別に戦後の運動だけによるものじゃないですから」とツッコミを入れてるのかなあ?)
あと、これが興味深かったのは、全然関係ないと思ってた最近の読書の経験とも実は似通っていたからである。上野英信っていう、当時からして十分すぎるほどにエリートである京大に入りながら(当時の共産党による指示だと思うんだけど)中退して炭鉱の労働者になる人のルポがいくつかあるのだが、そこでは被差別部落の人々が戦争の前線で「お国のために」と言いながら犠牲になっていくことと、炭鉱労働や港湾労働(もしかしたら現在では差別用語なのかもしれないけど、抗夫とか沖仲士って呼ばれていた)が過酷な労働条件や衛生環境で搾取されることも「お国のためだ」として、エピソードとして並列に並べられていた。
これが、(実際には権力関係を隠蔽し、むしろ権力―抑圧という図式を強化するという点においては、現実ではなくて虚偽意識である意味において)単なるイデオロギーにすぎない、というのではなく、ブルーカラーでもホワイトカラーでも、皇国の産業戦士であれば平等たるべきだ、という認識を制度化していく背景になったともいえる、っぽい。
・んでコラムもおもしろい。全然労働法が分からんていう人も、最初の30ページくらいとコラムだけ読めば、なんとなーくメンバーシップ型についての雰囲気が分かるかなあと思う。もとより、この一冊で日本の社会がすべて分かるんだい、とまで風呂敷を広げていはいないものの、QCサークルの話とか、社内結婚の話とかは、改めて企業―社会の関係を考える上では示唆に富むかと。
そりゃあ、雇ってくれるばかりでなく、嫁さんももらえて(だいぶ言葉が汚いけど、分かりやすいので)、社宅やら家族手当やらももらえて、「やめさえしなければ」安泰だったら、「長時間スレスレまで働くのが最も合理的」と言わしめるようになりますわな、と思う。制度として結実したものが、制度と社会のありようと社会規範が奇妙にごちゃまぜになった結果、合理的と思われないことが合理的とされているいい例かと。
・たしか前回の本を読んだとき、ああ労働法勉強しなきゃなあ、と思いながらおよそ1年が経とうとしている。残念ながら、今回もその言葉で記事をしめることなる。私の「労働問題について勉強する本のメモ」は、「空白の石板」となった。無念。
いやみなさん、知ってます?そもそも「労働法」っていう法はないんですよ、というのもね……
[付記]
伊集院光のラジオでたまたま、「私の24時間は私の24時間だから企業になんか従属したくない」「会社の上下関係とかウザい」という一口をそえたスーツ姿の女性が描かれた派遣会社の宣伝の広告(東京の大きい駅だと、そういう広告がちょっとコメントやら色を変えて、通路にそってながーく張られている)のことが語られていた。伊集院は、それを池袋駅で見たらしいんだけど、「募集する側はそれでいいかもしんないけど、募集をかける側からしたら、『ええ〜、人材を欲しがっているこっちの身にもなってよ』って思っちゃうよね」って言ってた。
問題は、企業になんかしばられたくないんだ、って思うことでも、企業に役立つ人材を選ぶ立場から広告を眺めることでもなく、その選択が適切な選択肢ではなくなるような、適切な制度をつくることだと思う。そっから先は、個人なり企業の人事部やら派遣会社の自由となるだろう。
あとラジオの続きで、ゼブラさんと伊集院さんがツイッター上でやりとりしてて、伊集院自体は「もういいや」的な感じになったらしい。やりとりの様子が具体的には分かんないけど、「自分が言ったことは、あとでどう曲解されたり誤解されたりしても、そこにまで責任を持つべきなのか?」というのが二人の論争の中心になってたみたい。学問の世界だと、いっそうこの言葉って問題になるんだよなあと思いつつ、たしかに……以下、あんまり怖いので書こうと思ったことは書かないでおこう(笑)
2012年02月19日
寝る前のメモ。役に立たない。[2.20]
○戦後アメリカの理論社会学の系譜
「日本の左翼で、アメリカの理論社会学ちゃんとやってるやついんのかよ?」という話になったので。
→階級論と、アメリカ社会学はどう接合されるのかえ??
パーソンズ
マートン
シュッツ
ガーフィンケル
バーガー=ルックマン
グールドナー
ゴッフマン
エスノメソドロジー
しかし、「アメリカの理論社会学」っていうのがそもそもさあ…と言いたくなる私は、無知を顧みないバカなのか、ヨーロッパ中心主義かぶれなのか、なんなのか。ミクロなほうミクロなほうへと行ってる気がするし、それはパーソンズの社会秩序はいかにして可能か、というのを実証的に問おうとした答えのように思うし、バーガー=ルックマンは社会学っていうより宗教者としてのですね………
なにかしら読んでおかないとなあ。
もし、明日社会学の教科書的な本を読んで彼らの議論でおもしろいのがあったら、更新します。
あっダメだ、明日デモいくから、たぶん帰ってきてすぐ寝るわ。
今、就活をネタにしたバラエティをやってる。自分、確実に会社員としては使えないことが自覚されたw出てる人が、就活生にしろ人事部の人にしろ、私には気持ち悪くてしかたない。誰か、「そもそも資本主義ってのはさあ」と言ってくれる人がいたら、と思いながら、自分はやっぱり社会で役に立たないと気付かされる。でも彼らが将来エリートとして、私なんかを「社会に役に立たない奴らだ」と怒るんでしょうなあ。こわすこわす。
「丸紅を志望した理由はなんですか?」「うーん…そうですね、総合商社って、悪い印象しかないんで、会社に入ってそれが本当なのかを確かめます。」って、どうよ。
大企業が私を雇ってくれたら、ひたすらネットいじって、この会社のどこがダメなのかを、答えもつけて明らかにするから、戦略推進部の中心役員として雇ってほしい。そしてそのお金で風俗に………
[付記]
・デモ、だいたい4000人から5000人の間みたい。正確な人数はわからん。
・逮捕者がなかったから、これは成功。防衛がきっちりしてたし、権力もあんまり挑発してこなかった
→変に暴れる人がいたりしなくてもめごとっぽいのはなかったが、権力側が(もちろん人数はかなり多かったけど、意図的に)手を抜いたのか?
・町全体の雰囲気がすごい。さすが高円寺付近。デモの最中の沿道の人たちの空気もかなり歓迎的だったし、かなり早い終わり(17時にはもう終わってた。小学校らしきとこが集合場所だったから長居できないというのもあったみたいだけど。)、町の居酒屋がすごい熱気で、デモ割(デモに参加した人の割引)があって、文化的な空間としてすごいなあと思った。
・来月、311はもっと人来るんだろうなあ。
「日本の左翼で、アメリカの理論社会学ちゃんとやってるやついんのかよ?」という話になったので。
→階級論と、アメリカ社会学はどう接合されるのかえ??
パーソンズ
マートン
シュッツ
ガーフィンケル
バーガー=ルックマン
グールドナー
ゴッフマン
エスノメソドロジー
しかし、「アメリカの理論社会学」っていうのがそもそもさあ…と言いたくなる私は、無知を顧みないバカなのか、ヨーロッパ中心主義かぶれなのか、なんなのか。ミクロなほうミクロなほうへと行ってる気がするし、それはパーソンズの社会秩序はいかにして可能か、というのを実証的に問おうとした答えのように思うし、バーガー=ルックマンは社会学っていうより宗教者としてのですね………
なにかしら読んでおかないとなあ。
もし、明日社会学の教科書的な本を読んで彼らの議論でおもしろいのがあったら、更新します。
あっダメだ、明日デモいくから、たぶん帰ってきてすぐ寝るわ。
今、就活をネタにしたバラエティをやってる。自分、確実に会社員としては使えないことが自覚されたw出てる人が、就活生にしろ人事部の人にしろ、私には気持ち悪くてしかたない。誰か、「そもそも資本主義ってのはさあ」と言ってくれる人がいたら、と思いながら、自分はやっぱり社会で役に立たないと気付かされる。でも彼らが将来エリートとして、私なんかを「社会に役に立たない奴らだ」と怒るんでしょうなあ。こわすこわす。
「丸紅を志望した理由はなんですか?」「うーん…そうですね、総合商社って、悪い印象しかないんで、会社に入ってそれが本当なのかを確かめます。」って、どうよ。
大企業が私を雇ってくれたら、ひたすらネットいじって、この会社のどこがダメなのかを、答えもつけて明らかにするから、戦略推進部の中心役員として雇ってほしい。そしてそのお金で風俗に………
[付記]
・デモ、だいたい4000人から5000人の間みたい。正確な人数はわからん。
・逮捕者がなかったから、これは成功。防衛がきっちりしてたし、権力もあんまり挑発してこなかった
→変に暴れる人がいたりしなくてもめごとっぽいのはなかったが、権力側が(もちろん人数はかなり多かったけど、意図的に)手を抜いたのか?
・町全体の雰囲気がすごい。さすが高円寺付近。デモの最中の沿道の人たちの空気もかなり歓迎的だったし、かなり早い終わり(17時にはもう終わってた。小学校らしきとこが集合場所だったから長居できないというのもあったみたいだけど。)、町の居酒屋がすごい熱気で、デモ割(デモに参加した人の割引)があって、文化的な空間としてすごいなあと思った。
・来月、311はもっと人来るんだろうなあ。
ささやななえ『凍りついた瞳』.
ささやななえ,1996,『凍りついた瞳』集英社.
児童虐待についての本。絵はささやななえさんという方なのだが、原作は椎名篤子さん。(私はこの人たちについてよくわからないので、解説できません。すいません。)
どこかで聞いたので、読んでみた。ちなみに、かなりの反響があったとのことで、続・新と3つのシリーズになっている。(話が続いているのではないと思う。また、本書を読んで思うところがあれば、続きを読みたい。)
そういうわけで、読んでみた。
なんということだ。なんということだ。これは続きを読まなくてはいけない。
川崎二三彦さんの本は、児童虐待という惨状を描くものでありながら、それすらどこか「まとまっていた」ものだという印象すら受ける。もちろんそれは、児童虐待の解決を望む現場の人々からの率直で誠実な告発と提言であり、私としても子どもたちの権利について知っておかなくてはと思い知らされた。そして、ようやくこの本を読めたわけだが、しかしこの虚無感はなんであろうか。知的興奮ではなしに、自分へとつきつけられる切実な思いのために体が震えるという感覚は、久しぶりだった。
文字どおりの意味で死ぬかもしれないという状態で病院に運び込まれてくる子どもたち、子連れの姉さん女房が自分にかまってくれないからという理由で虐待してしまう父親、父親に犯されていながらもそれを話せず、話した後も母親がそれを信じられず、父も母も信用できず心を閉ざしてしまう中学生の女の子、夫の父親から犯されることが代々の「しきたり」――しきたり、と書いたものの、いったいこれを何と呼べばいいのだろうか。望まない強制された性行為が世代をまたいで継続されている事態を、○○家の文化とか伝統などと呼んでいいのだろうか――になっていて、祖父からも父からも犯される女の子、赤ちゃんの女の子を夫がかわいがるがために「私への夫からの愛情を奪ってしまう」という理由で屋根裏部屋に子どもを放置し、わずかの食事をあたえるばかりで世話を全くしなくなってしまった母親、そして「凍りついた凝視」をする沈黙した子ども。
なにをしたらいいのか、そう絶望的な気分になった。母親が悪い、父親が悪い、介入しない施設や職員が悪い、そういった「犯人探し」をすることだろうか?いつもは施設なんか全然興味を持たないくせして、その職員が虐待を知っておきながら児童を死なせてしまったことに憤慨して、職員が足りず労働条件もけっして安定したものでない施設に、怒りの電話をかけ続けることだろうか?あるいは、事実から徹底して目をそらして、新聞やニュースなどでそういった現象を目撃したときに、「そういうことがあったんだ。ふーん。」で終わらせてしまうことだろうか。
以下、かなり私の個人的な感想を書くことになるかと思う。
児童虐待が社会問題として着目されるのは、色々なズレがあるからではないだろうか。労働問題や国際問題に比して、特定の政治的立場とか誰が得をしたという話からは相対的に離れて「これは、悪い問題だ」と認識するにもかかわらず、「じゃあ何をしたらいいか?」が分かりにくい。例えば、労働者の労働条件が悪いことが問題なら、職場内での労働者の主張を通りやすくする慣習をつくっっていったり、マクロな視点としてコーポラティズムを制度化したり…などと、比較的問いと答えはつながりやすいかと思う。(例で労働問題を出して思ったけど、これが実際にはちゃんとできてないという…しかしいいたとえ話が思い浮かばない自分。)
しかし、児童虐待が問題だと聞いて、「親が悪い。自己責任だ。」と切り捨てるのは、なにか言っているようで何も言ってないし(子どもを死なせろという意味以上の機能を果たさない)、とにかく親権を停止して諸々の施設や職員に権限を強くしろ、とだけ言っても、必ずしも状況は改善しないこともあるようだ。
およそ、方向性としては以下のようなことが望ましいかと。
・全く関与する気がないなら、経済的負担を受け入れるくらいの気持ちをもつこと。それについて、説明責任を果たせる人(狭義には政治家)を増やして、公的責任の下で児童虐待の改善に関する環境をつくらせること。
・専門知をネットワーク化すること。
まずは、プロの労働条件。これをイデオロギーにすぎないと思う人は思えばいいが、強調してもしすぎることはない。保健婦、ケースワーカー、医者、精神科医、児童相談所…などなど。個人的には、当該の件に詳しい弁護士が必須だと思われる。とにかく彼らの仕事は、肉体的のみならず精神的にもけっして楽なものではない。彼らの労働条件を整えて、仕事の負担もなるべく分散することは、親のためにも子どものためにもなる。点と点をつなぐネットワークももちろん重要なのだが、それ以前に点が薄かったりすぐ消えてしまったりするようでは、児童虐待があっても、受け入れる側が受け入れられない。
そして、相談できる人、相談できる場を少しでも増やすこと。つまり、これが問題であることを騒ぐというのみならず、実際にどうしたらいいのか・なにをやってはいけないか、などのことを「知っている人を知っている人」も必要だろう。運動でもボランティアでもいいのだが、当人とプロの間のクレパスは思いのほか大きいように思われる。
・社会関係資本の、改めての確認。
ここ数十年でソーシャルキャピタルの議論は盛り上がってきたが、日本では人間関係という言葉がかなり二極化した文脈で用いられるような気がする。封建的な家族やら地元のつながりやらが、むしろ(近代的な)個人の創造をさまたげているという議論が、日本の市民社会論ではよく聞かれている時期もあった、かも。しかし、そういった議論が総括をなされないまま、「やっぱり人間関係っていいよね」というのが、ソーシャルキャピタルの議論かと思われる。それは、理論的あるいは系譜学的にきちんと総括をしないといけないとは思うのだが、ここで必要なのはその議論ではない。
世間体やら見てくれのために、親が虐待を隠したり、近所の人もなかなか当該の子や親に接することができなくなったり、もちろんそういった環境の中で子どもが「自分の権利は守られているのだろうか」と疑問に思い誰かに話してみるということも、あるようだ。
なんかやるか。そろそろ、なにかを。
全然関係ないけど、岡村さん、健康に帰ってきてくれてよかった。中島さん、頼むから、芸能界に帰ってくるかどうかなんてどうでもいいから、生きて帰ってきてくれ。
児童虐待についての本。絵はささやななえさんという方なのだが、原作は椎名篤子さん。(私はこの人たちについてよくわからないので、解説できません。すいません。)
どこかで聞いたので、読んでみた。ちなみに、かなりの反響があったとのことで、続・新と3つのシリーズになっている。(話が続いているのではないと思う。また、本書を読んで思うところがあれば、続きを読みたい。)
そういうわけで、読んでみた。
なんということだ。なんということだ。これは続きを読まなくてはいけない。
川崎二三彦さんの本は、児童虐待という惨状を描くものでありながら、それすらどこか「まとまっていた」ものだという印象すら受ける。もちろんそれは、児童虐待の解決を望む現場の人々からの率直で誠実な告発と提言であり、私としても子どもたちの権利について知っておかなくてはと思い知らされた。そして、ようやくこの本を読めたわけだが、しかしこの虚無感はなんであろうか。知的興奮ではなしに、自分へとつきつけられる切実な思いのために体が震えるという感覚は、久しぶりだった。
文字どおりの意味で死ぬかもしれないという状態で病院に運び込まれてくる子どもたち、子連れの姉さん女房が自分にかまってくれないからという理由で虐待してしまう父親、父親に犯されていながらもそれを話せず、話した後も母親がそれを信じられず、父も母も信用できず心を閉ざしてしまう中学生の女の子、夫の父親から犯されることが代々の「しきたり」――しきたり、と書いたものの、いったいこれを何と呼べばいいのだろうか。望まない強制された性行為が世代をまたいで継続されている事態を、○○家の文化とか伝統などと呼んでいいのだろうか――になっていて、祖父からも父からも犯される女の子、赤ちゃんの女の子を夫がかわいがるがために「私への夫からの愛情を奪ってしまう」という理由で屋根裏部屋に子どもを放置し、わずかの食事をあたえるばかりで世話を全くしなくなってしまった母親、そして「凍りついた凝視」をする沈黙した子ども。
なにをしたらいいのか、そう絶望的な気分になった。母親が悪い、父親が悪い、介入しない施設や職員が悪い、そういった「犯人探し」をすることだろうか?いつもは施設なんか全然興味を持たないくせして、その職員が虐待を知っておきながら児童を死なせてしまったことに憤慨して、職員が足りず労働条件もけっして安定したものでない施設に、怒りの電話をかけ続けることだろうか?あるいは、事実から徹底して目をそらして、新聞やニュースなどでそういった現象を目撃したときに、「そういうことがあったんだ。ふーん。」で終わらせてしまうことだろうか。
以下、かなり私の個人的な感想を書くことになるかと思う。
児童虐待が社会問題として着目されるのは、色々なズレがあるからではないだろうか。労働問題や国際問題に比して、特定の政治的立場とか誰が得をしたという話からは相対的に離れて「これは、悪い問題だ」と認識するにもかかわらず、「じゃあ何をしたらいいか?」が分かりにくい。例えば、労働者の労働条件が悪いことが問題なら、職場内での労働者の主張を通りやすくする慣習をつくっっていったり、マクロな視点としてコーポラティズムを制度化したり…などと、比較的問いと答えはつながりやすいかと思う。(例で労働問題を出して思ったけど、これが実際にはちゃんとできてないという…しかしいいたとえ話が思い浮かばない自分。)
しかし、児童虐待が問題だと聞いて、「親が悪い。自己責任だ。」と切り捨てるのは、なにか言っているようで何も言ってないし(子どもを死なせろという意味以上の機能を果たさない)、とにかく親権を停止して諸々の施設や職員に権限を強くしろ、とだけ言っても、必ずしも状況は改善しないこともあるようだ。
およそ、方向性としては以下のようなことが望ましいかと。
・全く関与する気がないなら、経済的負担を受け入れるくらいの気持ちをもつこと。それについて、説明責任を果たせる人(狭義には政治家)を増やして、公的責任の下で児童虐待の改善に関する環境をつくらせること。
・専門知をネットワーク化すること。
まずは、プロの労働条件。これをイデオロギーにすぎないと思う人は思えばいいが、強調してもしすぎることはない。保健婦、ケースワーカー、医者、精神科医、児童相談所…などなど。個人的には、当該の件に詳しい弁護士が必須だと思われる。とにかく彼らの仕事は、肉体的のみならず精神的にもけっして楽なものではない。彼らの労働条件を整えて、仕事の負担もなるべく分散することは、親のためにも子どものためにもなる。点と点をつなぐネットワークももちろん重要なのだが、それ以前に点が薄かったりすぐ消えてしまったりするようでは、児童虐待があっても、受け入れる側が受け入れられない。
そして、相談できる人、相談できる場を少しでも増やすこと。つまり、これが問題であることを騒ぐというのみならず、実際にどうしたらいいのか・なにをやってはいけないか、などのことを「知っている人を知っている人」も必要だろう。運動でもボランティアでもいいのだが、当人とプロの間のクレパスは思いのほか大きいように思われる。
・社会関係資本の、改めての確認。
ここ数十年でソーシャルキャピタルの議論は盛り上がってきたが、日本では人間関係という言葉がかなり二極化した文脈で用いられるような気がする。封建的な家族やら地元のつながりやらが、むしろ(近代的な)個人の創造をさまたげているという議論が、日本の市民社会論ではよく聞かれている時期もあった、かも。しかし、そういった議論が総括をなされないまま、「やっぱり人間関係っていいよね」というのが、ソーシャルキャピタルの議論かと思われる。それは、理論的あるいは系譜学的にきちんと総括をしないといけないとは思うのだが、ここで必要なのはその議論ではない。
世間体やら見てくれのために、親が虐待を隠したり、近所の人もなかなか当該の子や親に接することができなくなったり、もちろんそういった環境の中で子どもが「自分の権利は守られているのだろうか」と疑問に思い誰かに話してみるということも、あるようだ。
なんかやるか。そろそろ、なにかを。
全然関係ないけど、岡村さん、健康に帰ってきてくれてよかった。中島さん、頼むから、芸能界に帰ってくるかどうかなんてどうでもいいから、生きて帰ってきてくれ。
ジョージ・ポットマン「少女の「おませさん」史」0219
ジョージ・ポットマン平成史「少女の「おませさん」史」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%B9%B3%E6%88%90%E5%8F%B2
女の子が化粧やらネイルやらをするっていうスタート。オナニーの話やら彼氏・彼女がいるやら、とにかく「マセガキ」が増えているとのこと。
元おはガールのなんとかさんて人がインタビュー。(名前メモれなかった。)3歳から子役で出て、いま浪人してる人らしい。スピードの歌詞、少女マンガのエロ化などなど。
マセガキは、日本には存在しなかった。というのも、少女―大人という線を引いてみると、妊娠できることをもって大人になるとするならば、奈良時代より10代前半で結婚するということが普通だった。おね(秀吉)、お江(秀吉)、まつ(利家)、なども10歳ちょいで結婚している。
で、近代化につれて、(憲法はドイツ、)民法はフランスを参考にしたので、女性は15歳以上から結婚できることになった。(ただ、それはそれとして、フランス民法のせいで家族はめちゃくちゃになるみたいな論争があった。)で明治時代には、少女の雑誌もあったとのこと。(今でいう、『小学○年生』らしい。)戦前の知識人はロリコンが多かった。田山花袋『布団』『少女病』とか、太宰治、川端康成など。ただこれには、個人的趣向のみならず、処女信仰が存在した。性交渉をした女性は(よく分からない)物質がでてよくないとか、キスすると体液のせいで体質が変わるとか、とても「科学的」と思われない主張が平然となされていた。毎日新聞が、男女がキスしているように見える絵を載せただけで、訴えられるなんてこともあったらしい。
赤枝恒雄(『子どものセックスがあぶない』の著者)によれば、学習塾通いが早熟化の原因とのこと。塾通いをすると、夜型の生活で朝食を抜くことになり、朝食は性欲を抑える機能があるので、これが性欲を抑える機能を果たさなくなるという。加えて、通うに当たって電車や様々なツールにて化粧やファッションについての記事など情報総体を認識しやすくなるためである。(睡眠時間と初潮年齢には関連があるらしい。睡眠時間が短いと、初潮も早くなる、らしい。ただ、これをもって説明といってよいかどうかは…)
「怒っている人すべっている文明」も原因として挙げられている。寛容さをうたう書がブームになり、雑誌「プレジデント」でも職場で怒る人が減ったという。親に怒られることも減ったという。このようなことから、怒りは前面に出さない人が増えたのではないか、という。これは家族関係においては、友達親子という現象になっている。
「怒りは、しばしば勇気と道徳の武器なり。」byアリストテレス
赤枝恒雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9E%9D%E6%81%92%E9%9B%84
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%B9%B3%E6%88%90%E5%8F%B2
女の子が化粧やらネイルやらをするっていうスタート。オナニーの話やら彼氏・彼女がいるやら、とにかく「マセガキ」が増えているとのこと。
元おはガールのなんとかさんて人がインタビュー。(名前メモれなかった。)3歳から子役で出て、いま浪人してる人らしい。スピードの歌詞、少女マンガのエロ化などなど。
マセガキは、日本には存在しなかった。というのも、少女―大人という線を引いてみると、妊娠できることをもって大人になるとするならば、奈良時代より10代前半で結婚するということが普通だった。おね(秀吉)、お江(秀吉)、まつ(利家)、なども10歳ちょいで結婚している。
で、近代化につれて、(憲法はドイツ、)民法はフランスを参考にしたので、女性は15歳以上から結婚できることになった。(ただ、それはそれとして、フランス民法のせいで家族はめちゃくちゃになるみたいな論争があった。)で明治時代には、少女の雑誌もあったとのこと。(今でいう、『小学○年生』らしい。)戦前の知識人はロリコンが多かった。田山花袋『布団』『少女病』とか、太宰治、川端康成など。ただこれには、個人的趣向のみならず、処女信仰が存在した。性交渉をした女性は(よく分からない)物質がでてよくないとか、キスすると体液のせいで体質が変わるとか、とても「科学的」と思われない主張が平然となされていた。毎日新聞が、男女がキスしているように見える絵を載せただけで、訴えられるなんてこともあったらしい。
赤枝恒雄(『子どものセックスがあぶない』の著者)によれば、学習塾通いが早熟化の原因とのこと。塾通いをすると、夜型の生活で朝食を抜くことになり、朝食は性欲を抑える機能があるので、これが性欲を抑える機能を果たさなくなるという。加えて、通うに当たって電車や様々なツールにて化粧やファッションについての記事など情報総体を認識しやすくなるためである。(睡眠時間と初潮年齢には関連があるらしい。睡眠時間が短いと、初潮も早くなる、らしい。ただ、これをもって説明といってよいかどうかは…)
「怒っている人すべっている文明」も原因として挙げられている。寛容さをうたう書がブームになり、雑誌「プレジデント」でも職場で怒る人が減ったという。親に怒られることも減ったという。このようなことから、怒りは前面に出さない人が増えたのではないか、という。これは家族関係においては、友達親子という現象になっている。
「怒りは、しばしば勇気と道徳の武器なり。」byアリストテレス
赤枝恒雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9E%9D%E6%81%92%E9%9B%84
2012年02月18日
オニサン、ハジメテ?
ネットが使える環境に帰ってきた。
風俗に行った。風俗の定義は分からないが、風俗に違いないと思われるものに行った。そんな自分に、最大限の侮蔑と憎悪をこめて。
デュルケムを読むべき時間はお風呂に入る時間に変わり、その読書をブログにあげる時間は総括に充てられた。
このブログを始めるにあたり、私は自分自身の情報を明らかにしていない。もちろん、ブログにて書いている内容は私の考えたことやら感じたことを書いているから、オードリー若林風にいえば、「そんなのちんこ見せるのと同じ」くらい、あけすけで、率直で、恥ずかしいことだと思う。しかし、当初は書評を書く程度にしようと思ったし、これまでの私の諸々の事情から、別に誰もこのブログを書いている私のことを知っていなくても、自分の(私が誰だか具体的に分かる)ことは書くまいと思っていた。
他方で、名前を出さないがゆえに、常に自分の本音を書いてきた、ということもある。死にたいときは死にたいと書いたし、眠れないときは眠れないと書いた。おそらく私が人を殺したら人を殺したと――まさにそれが事実であるならば――書くし、このブログで書くことは、そのときどきの自分の思いをストレートに書いている。
というどうでもいい前置きをおいたうえで。
プロセスやら理由やらは今の私にはどうでもいいが、風俗に行った。311が起こって、津波は人間のせいじゃないにしろ、原発(の損壊およびその影響)は完全に人間のせいだし、あの支配層の愚劣極まりない対応は、人間のせいだ。いやそれは、制度によってしかたない部分もあろうし、人間の全能感を前提にした議論であるかもしれないが、にしても311が起こった直後の私は、生きている価値がないと思った。原発に反対する・体制的な政治や社会に反対する・少しでもよりよい社会の創造を望むひとりの人間として、あのような愚劣な状況をとめられなかった、少しでも被害を少なくすることができなかったのだから、自分など生きている意味がないと思った。そしてそのときふと、「本当に死ぬ気なら、パチンコと風俗に行って死のう」と思った。しかしその瞬間、「いや、そんなところに行くくらいなら、むしろ死んだ方がいい」と思った。別に私は、パチンコ行ったり風俗行ったりするのがダメだといいたいんじゃなくて、それを利用する人を批判したいのでもなくて、私がそういうのを利用することが解せなかった。結果として、そのときは行かなかった。
ことを単純にすれば、ゼロかイチかそれ以上、だ。風俗に行ったことないほんの数時間前までは、行かないと思ってたし、まあもし機会があれば1回くらいは行ってもいいんじゃないのと思いつつ、いた。一回行ってみれば、思うところがあるはずで、そっから決めればいいんじゃないの、と思ってた。果たして今である。んで実際、思うところはあった。そして、それ以上は、もうない。絶対ない。
お金がもったいないとか、あんなところで働く人の気がしれないとか、まあ人によって思うところは様々だろうが、私は風俗というものがよくわからない。
賃労働―資本の関係が成立している以上、あれは労働だろう。しかし、じゃあ私に仮にパートナーがいたとして、性交渉をするのは労働だろうか。私はパートナーに贈り物をしたことがあるが、それはけっして性交渉の対価としての意味「しか」ないなんて全く思ったことはないし、お金を払って性交渉をするというパートナーシップもあんまり聞かない。じゃあそれって、労働だろうか。アイドルと握手会で数秒話すことが1600円で、そのアイドルが男性たちとみんなで何時間も楽しくしゃべって笑ってお金は発生しない。貨幣の発生と労働の本質にはあまり関係がないように思われることもある。よくわからない。
風俗が風俗たるための本質的であろうと思われるサービスの前後には、マッサージが行われ、マッサージをする人はされる人に話しかける。私は、適当にウソをおりまぜながら話に応答していた。私は、23歳の大学3年生という設定に、会話上なった。その韓国人の中年女性は、こんなときに正論をいった。
「大学生?じゃあお金ないんでしょ?ダメじゃんこんなとこ来ちゃ。バイトしているの?でも高いでしょ。遊ぶときなんか、親のお金もらうんでしょ。そんなのよくないよ。大学でいっぱい勉強して、いい大学いって、親に孝行してあげてね」
まるで劇団員に片言の芝居をさせたような片言が、ときとして聞きとれないながらも、私の耳に響き続けた。なぜこのタイミングで、この人は全くの正論を言ったのだろう。そして私は、その正論に、「はい、その通りです。もうこんなところにはきませんし、大学でいっぱい勉強して、親を楽させてあげたいです」と答えるべきだったのだろうか。よくわからない。
「大学生はじめて。おじさんいつも多い。夜中、仕事が終わって寝たんだけど、なんだかさみしくなってくる人もいる。」私も、おそらく数年経ち、あいかわらずの人嫌いで、あいかわらず人の悪口言って、あいかわらずの無趣味だと、ここに足しげく通う人になるんだろうなあ。風俗がいいとか悪いとか以前に、「ここにくるしかない人」がいる、みたい。よくわからない。
よく、一時期ニュースになんかなっていた、女子高生が援助交際をしている時の感想として、「うーん、なんも考えないで、天井のシミを数えてれば終わる」みたいなものがあげられることがあるが、サービスの提供者から見る天井と、サービスの消費者から見る天井は、違うものなのだろうか。私は、ひたすらに繰り返される私への質問と、全身にくまなくほどこされる心地よいマッサージに、そしてその前後にあった、まさか自分がカネを払ってその対価として射精をされるなんていう極めて愚劣な状況に自分をおくことになるとは思わなんだというそのことへの様々な思いから、天井を見上げるばかりだった。私はいったい、なにをしているんだろう。よくわからない。
私以外の一緒に行った人らは、複数回行っていたし、彼らが教師だったこともあって、「校長先生がよくホウレンソウ(報告・連絡・相談)を大切にって言ってるから、ホウレンソウしよう」とふざけて言ってたので、私たちの風俗体験に関する総括の場が設定された。私は、311のことを話した。意味が分からないと言われた。私もよく分からない。彼らは今後とも風俗を利用するし、私はもうおそらく、例えば私が風俗に行かないと家族が殺されるなどという状況にでもならない限り、風俗を利用することはないだろう。
じゃあ行かなきゃよかったじゃん、という数時間前の自分がもし今の自分に言っていたら、そいつはひっぱたくしかない。行ったんだから、そこを問題にするのはおかしい。サービスの内容やら、労働者の属性(とにかくひたすら話しかける、気を使う、などなど)やらが問題だと言いたいのでもない。とにかくこの文章を書いている意味が、私にはよくわからない。本当によくわからないのだ。
一言で言うと、自分をクズみたいな人間だと思った。いつも思ってるけど、これまでで指折りのクズだと思った。
風俗に行った。風俗の定義は分からないが、風俗に違いないと思われるものに行った。そんな自分に、最大限の侮蔑と憎悪をこめて。
デュルケムを読むべき時間はお風呂に入る時間に変わり、その読書をブログにあげる時間は総括に充てられた。
このブログを始めるにあたり、私は自分自身の情報を明らかにしていない。もちろん、ブログにて書いている内容は私の考えたことやら感じたことを書いているから、オードリー若林風にいえば、「そんなのちんこ見せるのと同じ」くらい、あけすけで、率直で、恥ずかしいことだと思う。しかし、当初は書評を書く程度にしようと思ったし、これまでの私の諸々の事情から、別に誰もこのブログを書いている私のことを知っていなくても、自分の(私が誰だか具体的に分かる)ことは書くまいと思っていた。
他方で、名前を出さないがゆえに、常に自分の本音を書いてきた、ということもある。死にたいときは死にたいと書いたし、眠れないときは眠れないと書いた。おそらく私が人を殺したら人を殺したと――まさにそれが事実であるならば――書くし、このブログで書くことは、そのときどきの自分の思いをストレートに書いている。
というどうでもいい前置きをおいたうえで。
プロセスやら理由やらは今の私にはどうでもいいが、風俗に行った。311が起こって、津波は人間のせいじゃないにしろ、原発(の損壊およびその影響)は完全に人間のせいだし、あの支配層の愚劣極まりない対応は、人間のせいだ。いやそれは、制度によってしかたない部分もあろうし、人間の全能感を前提にした議論であるかもしれないが、にしても311が起こった直後の私は、生きている価値がないと思った。原発に反対する・体制的な政治や社会に反対する・少しでもよりよい社会の創造を望むひとりの人間として、あのような愚劣な状況をとめられなかった、少しでも被害を少なくすることができなかったのだから、自分など生きている意味がないと思った。そしてそのときふと、「本当に死ぬ気なら、パチンコと風俗に行って死のう」と思った。しかしその瞬間、「いや、そんなところに行くくらいなら、むしろ死んだ方がいい」と思った。別に私は、パチンコ行ったり風俗行ったりするのがダメだといいたいんじゃなくて、それを利用する人を批判したいのでもなくて、私がそういうのを利用することが解せなかった。結果として、そのときは行かなかった。
ことを単純にすれば、ゼロかイチかそれ以上、だ。風俗に行ったことないほんの数時間前までは、行かないと思ってたし、まあもし機会があれば1回くらいは行ってもいいんじゃないのと思いつつ、いた。一回行ってみれば、思うところがあるはずで、そっから決めればいいんじゃないの、と思ってた。果たして今である。んで実際、思うところはあった。そして、それ以上は、もうない。絶対ない。
お金がもったいないとか、あんなところで働く人の気がしれないとか、まあ人によって思うところは様々だろうが、私は風俗というものがよくわからない。
賃労働―資本の関係が成立している以上、あれは労働だろう。しかし、じゃあ私に仮にパートナーがいたとして、性交渉をするのは労働だろうか。私はパートナーに贈り物をしたことがあるが、それはけっして性交渉の対価としての意味「しか」ないなんて全く思ったことはないし、お金を払って性交渉をするというパートナーシップもあんまり聞かない。じゃあそれって、労働だろうか。アイドルと握手会で数秒話すことが1600円で、そのアイドルが男性たちとみんなで何時間も楽しくしゃべって笑ってお金は発生しない。貨幣の発生と労働の本質にはあまり関係がないように思われることもある。よくわからない。
風俗が風俗たるための本質的であろうと思われるサービスの前後には、マッサージが行われ、マッサージをする人はされる人に話しかける。私は、適当にウソをおりまぜながら話に応答していた。私は、23歳の大学3年生という設定に、会話上なった。その韓国人の中年女性は、こんなときに正論をいった。
「大学生?じゃあお金ないんでしょ?ダメじゃんこんなとこ来ちゃ。バイトしているの?でも高いでしょ。遊ぶときなんか、親のお金もらうんでしょ。そんなのよくないよ。大学でいっぱい勉強して、いい大学いって、親に孝行してあげてね」
まるで劇団員に片言の芝居をさせたような片言が、ときとして聞きとれないながらも、私の耳に響き続けた。なぜこのタイミングで、この人は全くの正論を言ったのだろう。そして私は、その正論に、「はい、その通りです。もうこんなところにはきませんし、大学でいっぱい勉強して、親を楽させてあげたいです」と答えるべきだったのだろうか。よくわからない。
「大学生はじめて。おじさんいつも多い。夜中、仕事が終わって寝たんだけど、なんだかさみしくなってくる人もいる。」私も、おそらく数年経ち、あいかわらずの人嫌いで、あいかわらず人の悪口言って、あいかわらずの無趣味だと、ここに足しげく通う人になるんだろうなあ。風俗がいいとか悪いとか以前に、「ここにくるしかない人」がいる、みたい。よくわからない。
よく、一時期ニュースになんかなっていた、女子高生が援助交際をしている時の感想として、「うーん、なんも考えないで、天井のシミを数えてれば終わる」みたいなものがあげられることがあるが、サービスの提供者から見る天井と、サービスの消費者から見る天井は、違うものなのだろうか。私は、ひたすらに繰り返される私への質問と、全身にくまなくほどこされる心地よいマッサージに、そしてその前後にあった、まさか自分がカネを払ってその対価として射精をされるなんていう極めて愚劣な状況に自分をおくことになるとは思わなんだというそのことへの様々な思いから、天井を見上げるばかりだった。私はいったい、なにをしているんだろう。よくわからない。
私以外の一緒に行った人らは、複数回行っていたし、彼らが教師だったこともあって、「校長先生がよくホウレンソウ(報告・連絡・相談)を大切にって言ってるから、ホウレンソウしよう」とふざけて言ってたので、私たちの風俗体験に関する総括の場が設定された。私は、311のことを話した。意味が分からないと言われた。私もよく分からない。彼らは今後とも風俗を利用するし、私はもうおそらく、例えば私が風俗に行かないと家族が殺されるなどという状況にでもならない限り、風俗を利用することはないだろう。
じゃあ行かなきゃよかったじゃん、という数時間前の自分がもし今の自分に言っていたら、そいつはひっぱたくしかない。行ったんだから、そこを問題にするのはおかしい。サービスの内容やら、労働者の属性(とにかくひたすら話しかける、気を使う、などなど)やらが問題だと言いたいのでもない。とにかくこの文章を書いている意味が、私にはよくわからない。本当によくわからないのだ。
一言で言うと、自分をクズみたいな人間だと思った。いつも思ってるけど、これまでで指折りのクズだと思った。
デュルケム『社会学的方法の規準』.@
デュルケム『社会学的方法の規準』.(岩波書店版)
社会科学の古典3冊目。@序文〜2章
『社会学的方法の規準』A3章〜結論
http://liberation.paslog.jp/article/2391799.html
○内容
解説
岩波だと78年以来、版を重ねているのだが、ここ20年ほどでデュルケム解釈は変わっているらしい。この解説を見る限りではおそらくその潮流を踏まえたものではない(みたい)なのだが、それはどういうことかというと、新カント学派のデュルケムへの影響である。よくなされる指摘だが、社会的事実は諸個人にとって外在的で拘束的である。この点を強調し、ときに強調し過ぎるあまり、デュルケムを保守的だと批判する人がいるが、これが没理論的であるばかりでなく、実際には誤りではないかと言われている。デュルケムは留学している最中に新カント学派を学び、個人と社会は調和するものであって、かならずしも社会が個人を束縛するほかはない、とまでは考えていないようで、むしろ社会的事実の変容も視野にいれていた、とどこかで聞いた。
本文についてメモをとりながら読まなかったから、もうなにが書いてあるか覚えてないし、本文を読んでくから、もう読み直さなくていいや。どうせこれも、今後何回も読むことになるだろうし。
第一版の序文
社会的事実を扱うこと、犯罪やら宗教は実証的にやんなきゃいけなくて、その方法を立てる必要がある。
「もののように扱う」は既にここで登場。
第二版の序文
一版が出た際に、私はちゃんと説明したにもかかわらず、賛成者にしろ反対者にしろ私を誤読していたから、改めて「社会的事実はもののように扱わなければならない」ということの意味を確認。んで、後にもすごい出てくるんだけど、心理学でもないし単なる空論でもなく、自然科学のように社会学を学としなければならないという主張。
第一章
タイトル通り。社会的事実を扱うのが社会学。社会学が固有の学問じゃなきゃいけないっていう。
第二章
話のしかたは変わるけど、話は変わってない気がする。
○引用
「逆説を好んで探求するのがソフィストであるならば、事実によっていやおうなしに課されてくる逆説を避けようとするのは、勇気なき精神、あるいは科学に確信を欠く精神である。」pp15
「常識から自由になっていると思っているときでも、我々の無防備を衝いて、常識はその判断をおしつけてくる。」pp16
「常識は、そのいつもながらの単純化癖のために、嫌悪されるものでもなんらかの有益な存在理由をもちうること、それでいてそこにはいかなる矛盾もないこと、を認識しない。」pp17
「したがって、筆者の方法になんら革命的なものはない。それはある意味で、本質的に保守的なものでさえある。というのは、社会的事実を、たとえいかに自在に変わりやすい属性にとんだものであっても、意のままには変形しえない性質のものchosesのように考察するからである。」pp17
「だが実を言えば、唯物論者、唯心論者のいずれの名称も、正確には筆者にはあたらない。受け入れる唯一の名称は、合理主義者rationalsteのそれである。」pp19
「およそ物とは、知性にとってごく自然には洞察しえないような一切の認識の対象であり、単なる精神的な分析方法によっては適切にその概念を構成しえないような一切のもの、さらには、精神が自らの内から脱して、観察と実験を通じて、もっとも外面的で接近しやすい特質からもっとも感知しがたい根底にある特質へと徐々に進んでいくという条件においてしか理解されるに至らない一切のものである。」pp24
「社会学者は、社会的世界の探求に入っていくにあたって、未知の世界に分け入るのだという意識をもたなければならい。」pp27
「筆者が目指したこと、それは科学からもたらされる帰結に哲学的見地から予断を加えるのではなく、単に、科学者が事実をあるがままにとらえ、他の事実と混同しないですむためには科学の扱うべき事実をどのような外的標識によって認識することができるか、を指摘することにあったのだ。」pp38
「だが、この方向に巨歩の進歩がとげられたにも関わらず、本書の以下の叙述に接するならば、そこここで科学への道をふさいでいる人間中心的公準がいまだ数多く名残りをとどめていることが知られよう。」pp45
「したがってここに、きわめて特殊な性格をおびた一群の事実が存在することになる。すなわち、それらは、行動、思考および感覚の諸様式からなっていて、個人に対しては外在し、かつ個人の上に否応なく影響を課することのできる一瞬の強制力をもっている」pp54
「社会的事実を構成するものは、集合的なものとして把握された集団の諸信念、諸傾向、諸慣行に他ならず、他方、集合的諸状態が個人の中で屈折することによってとる種々の形式はといえば、それらは別種のものをなしている。」pp59
「社会的事実とは、個人のうえに外部的な拘束を及ぼすことができ、さらにいえば、固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般的に広がり、その個人的な表現物からは独立している固定的・非固定的な一切の行為様式のことである。」pp69
「第一の、そして最も基本的な規準、それは社会的事実を物のように観察すること。」pp71
「あらゆる問題は複雑であり、一刀両断には解決しがたいものをもっている。したがって、富への欲望が実際にそのような支配的役割を演じる社会的活動の一領域が存在することを、前もって確信させてくれるようなものは何もない。」pp86
「いいかえれば、経済学者によって彼の考えている目的にうまく合致すると解されている事実、彼がそのように解しているがままの事実から構成されているのだ。」pp86
「一慣行あるいは一制度について、その契約的な性格といったものは、けっして前もって想定されてしまってはならない。そのうえ……このような方法手続きをとれば、見かけではこの上なく気まぐれに見える諸事実でも、より注意深い観察に対しては、やがてそれらの客観性の徴候である恒常性と規則性という特徴を示すようになるのが認められ、人はしばしば満足をえることであろう。」93「社会学は、いまだほとんど主観的な段階をこえていないが、ここから客観的な段階へと移行しなければならない。」pp95
「社会学的方法のこの原理が万人によって承認され、実戦に移されるあかつきには、社会学は、現状におけるその発達の遅々たる歩みからはほとんど想像しえないくらい急速に進歩をとげ、もっぱら歴史的な先行に基づいていた心理学の先進性に対してさえ、その遅れを取り戻すにちがいない。」pp96
「社会学者は、一般世人の精神を支配しているあの見かけだけの名証性から解放され、永年の習い性に基づいてしばしば抗しがたい力をふるうに至っているそれら経験中心の諸範疇の桎梏を、きっぱりと振り切らなければならない。」pp98
「社会学では、この解放には特に容易ならざるものがあるが、というのも、そこにしばしば感情が加担してくるからである。」pp98
「したがって、科学から科学へと駆逐されてきたこの偏見は、その最後の隠れ家である社会学自身からもいずれは姿を消し、やがて学者に自由な活動の場をゆだねるだろうと考えることができる。」pp100
「ある種の観察者たちが未開人にはあらゆる種類の道徳性が欠如していると見たのも、これと同じ方法上の誤りに基づいている。」pp111
「科学は、客観的でありうるためには、感覚を経ないで作られた概念からではなく、感覚によってつくられた概念から出発しなければならない。科学は、その出発点における定義を構成する諸要素を、可感的な与件から直接に借りなければならないのである。」pp114
ちっとも読み進められていないので、ここらで一回きります。
社会科学の古典3冊目。@序文〜2章
『社会学的方法の規準』A3章〜結論
http://liberation.paslog.jp/article/2391799.html
○内容
解説
岩波だと78年以来、版を重ねているのだが、ここ20年ほどでデュルケム解釈は変わっているらしい。この解説を見る限りではおそらくその潮流を踏まえたものではない(みたい)なのだが、それはどういうことかというと、新カント学派のデュルケムへの影響である。よくなされる指摘だが、社会的事実は諸個人にとって外在的で拘束的である。この点を強調し、ときに強調し過ぎるあまり、デュルケムを保守的だと批判する人がいるが、これが没理論的であるばかりでなく、実際には誤りではないかと言われている。デュルケムは留学している最中に新カント学派を学び、個人と社会は調和するものであって、かならずしも社会が個人を束縛するほかはない、とまでは考えていないようで、むしろ社会的事実の変容も視野にいれていた、とどこかで聞いた。
本文についてメモをとりながら読まなかったから、もうなにが書いてあるか覚えてないし、本文を読んでくから、もう読み直さなくていいや。どうせこれも、今後何回も読むことになるだろうし。
第一版の序文
社会的事実を扱うこと、犯罪やら宗教は実証的にやんなきゃいけなくて、その方法を立てる必要がある。
「もののように扱う」は既にここで登場。
第二版の序文
一版が出た際に、私はちゃんと説明したにもかかわらず、賛成者にしろ反対者にしろ私を誤読していたから、改めて「社会的事実はもののように扱わなければならない」ということの意味を確認。んで、後にもすごい出てくるんだけど、心理学でもないし単なる空論でもなく、自然科学のように社会学を学としなければならないという主張。
第一章
タイトル通り。社会的事実を扱うのが社会学。社会学が固有の学問じゃなきゃいけないっていう。
第二章
話のしかたは変わるけど、話は変わってない気がする。
○引用
「逆説を好んで探求するのがソフィストであるならば、事実によっていやおうなしに課されてくる逆説を避けようとするのは、勇気なき精神、あるいは科学に確信を欠く精神である。」pp15
「常識から自由になっていると思っているときでも、我々の無防備を衝いて、常識はその判断をおしつけてくる。」pp16
「常識は、そのいつもながらの単純化癖のために、嫌悪されるものでもなんらかの有益な存在理由をもちうること、それでいてそこにはいかなる矛盾もないこと、を認識しない。」pp17
「したがって、筆者の方法になんら革命的なものはない。それはある意味で、本質的に保守的なものでさえある。というのは、社会的事実を、たとえいかに自在に変わりやすい属性にとんだものであっても、意のままには変形しえない性質のものchosesのように考察するからである。」pp17
「だが実を言えば、唯物論者、唯心論者のいずれの名称も、正確には筆者にはあたらない。受け入れる唯一の名称は、合理主義者rationalsteのそれである。」pp19
「およそ物とは、知性にとってごく自然には洞察しえないような一切の認識の対象であり、単なる精神的な分析方法によっては適切にその概念を構成しえないような一切のもの、さらには、精神が自らの内から脱して、観察と実験を通じて、もっとも外面的で接近しやすい特質からもっとも感知しがたい根底にある特質へと徐々に進んでいくという条件においてしか理解されるに至らない一切のものである。」pp24
「社会学者は、社会的世界の探求に入っていくにあたって、未知の世界に分け入るのだという意識をもたなければならい。」pp27
「筆者が目指したこと、それは科学からもたらされる帰結に哲学的見地から予断を加えるのではなく、単に、科学者が事実をあるがままにとらえ、他の事実と混同しないですむためには科学の扱うべき事実をどのような外的標識によって認識することができるか、を指摘することにあったのだ。」pp38
「だが、この方向に巨歩の進歩がとげられたにも関わらず、本書の以下の叙述に接するならば、そこここで科学への道をふさいでいる人間中心的公準がいまだ数多く名残りをとどめていることが知られよう。」pp45
「したがってここに、きわめて特殊な性格をおびた一群の事実が存在することになる。すなわち、それらは、行動、思考および感覚の諸様式からなっていて、個人に対しては外在し、かつ個人の上に否応なく影響を課することのできる一瞬の強制力をもっている」pp54
「社会的事実を構成するものは、集合的なものとして把握された集団の諸信念、諸傾向、諸慣行に他ならず、他方、集合的諸状態が個人の中で屈折することによってとる種々の形式はといえば、それらは別種のものをなしている。」pp59
「社会的事実とは、個人のうえに外部的な拘束を及ぼすことができ、さらにいえば、固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般的に広がり、その個人的な表現物からは独立している固定的・非固定的な一切の行為様式のことである。」pp69
「第一の、そして最も基本的な規準、それは社会的事実を物のように観察すること。」pp71
「あらゆる問題は複雑であり、一刀両断には解決しがたいものをもっている。したがって、富への欲望が実際にそのような支配的役割を演じる社会的活動の一領域が存在することを、前もって確信させてくれるようなものは何もない。」pp86
「いいかえれば、経済学者によって彼の考えている目的にうまく合致すると解されている事実、彼がそのように解しているがままの事実から構成されているのだ。」pp86
「一慣行あるいは一制度について、その契約的な性格といったものは、けっして前もって想定されてしまってはならない。そのうえ……このような方法手続きをとれば、見かけではこの上なく気まぐれに見える諸事実でも、より注意深い観察に対しては、やがてそれらの客観性の徴候である恒常性と規則性という特徴を示すようになるのが認められ、人はしばしば満足をえることであろう。」93「社会学は、いまだほとんど主観的な段階をこえていないが、ここから客観的な段階へと移行しなければならない。」pp95
「社会学的方法のこの原理が万人によって承認され、実戦に移されるあかつきには、社会学は、現状におけるその発達の遅々たる歩みからはほとんど想像しえないくらい急速に進歩をとげ、もっぱら歴史的な先行に基づいていた心理学の先進性に対してさえ、その遅れを取り戻すにちがいない。」pp96
「社会学者は、一般世人の精神を支配しているあの見かけだけの名証性から解放され、永年の習い性に基づいてしばしば抗しがたい力をふるうに至っているそれら経験中心の諸範疇の桎梏を、きっぱりと振り切らなければならない。」pp98
「社会学では、この解放には特に容易ならざるものがあるが、というのも、そこにしばしば感情が加担してくるからである。」pp98
「したがって、科学から科学へと駆逐されてきたこの偏見は、その最後の隠れ家である社会学自身からもいずれは姿を消し、やがて学者に自由な活動の場をゆだねるだろうと考えることができる。」pp100
「ある種の観察者たちが未開人にはあらゆる種類の道徳性が欠如していると見たのも、これと同じ方法上の誤りに基づいている。」pp111
「科学は、客観的でありうるためには、感覚を経ないで作られた概念からではなく、感覚によってつくられた概念から出発しなければならない。科学は、その出発点における定義を構成する諸要素を、可感的な与件から直接に借りなければならないのである。」pp114
ちっとも読み進められていないので、ここらで一回きります。
2012年02月17日
ホント言うよね〜
色々メモ
色々いうよね〜
なんか、山ちゃんがはるな愛のマネしてて、今日一日ずっと「言うよね〜」って言ってた。ホント言うよね〜
・今日は忙しかった
とにかく今日は忙しかった。ひたすらメール、電話、メール、電話。で一日が終わった。あんまり忙しいのは好きでねえんだども、今日ばかりはよかったということで。
そしてもうこんな時間になってしまった…
・カップルが電車にいて
私は昼に電車に乗りまして、緊張していました。とても緊張していました。向かいのカップルは、なかむつまじく語り合っています。
「昨日ね、髪の毛染めようとしたじゃあん」「おん、してたっけ?」「いやさあ、染めようとしたんだけど、寝ちゃったじゃん?……一緒に寝たあとで。」「おっ、おう。寝ちゃったよね……確かに。」『…んふふ。』
→電車内で、昨日の夜「なかよし」した話をするんじゃあないよ。
・天皇制はどう打倒したらいいか?
これについて書こうと思ったのに、もう3時です。よい子は寝る時間です。正確に言うと、よい子は寝ていますし、悪い子も寝てるでしょうし、こんな時間に起きている私は、ネットで見つけた、「女の子が写ってる2枚の写真から好みの方を選ぶという作業を5回するだけで分かる、あなたの好みの女の子」というゲームで分かった、ロリコンです。
(私は意外と若いので、同じくらいの年くらいの子と付き合っててても)ロリコンじゃないし、確かに肌が白くて目がクリクリしてる子が好きだが、自分をロリコンじゃないとどうしても確信したかった私は、そのゲームを複数回やった。
その結果、「あなたは、ロリコンです。潜在的に、熟女が好きです。」という判断が下された。結局、私にとって全ての女性は機能的等価であることが示され、私はその運命を受け入れようと決めた。彼女が欲しい、冬。
で、……あーっ!!
付記。
・被差別部落の人すら国のために尽くすのだから、いわんや「普通の日本人」をや。
→賃労働にしろ、兵士にしろ、抑圧が別の抑圧のロジックへと転化され、それが天皇制という言葉の下に(別の内実を含み込むものなのに)並列されてしまう
・全国水平社は、ことに30年代以降翼賛体制を積極的に支持していく
・共産党と差別運動。被差別部落の人々を、労働運動の最前線で動員しておきながら、彼ら被差別部落の闘争者が共産党系の主流ではなかったために、差別反対闘争の利権をめぐって、共産党と解放運動とが窓口一本化で対立。60年代を主軸としておよそ20年ほどその対立は激しく展開し、共産党は――自身の運動を正当化するために――「部落差別はもうない」という議論を展開した。部落差別がないから運動がなくていい、もしあるとしてもそれは私たちの運動の下で展開されるほかない。
→運動の停滞により、対立が総括されることがないままになる。総括はあるか?
・日本の身分差別は、江戸時代以降(とくに綱吉以降だと思われるが)に構造化される。士農工商+えた/非人(この表記に問題があることは分かっていますが、かといって他に表記することもどこか違和感を感じるので…)という身分構造→近代化に伴う戸籍作成に伴う新平民。
→したがって、いわゆる権力論として展開できるのは近世以降であろう。しかし、一時期の政党のように天皇を合理的な存在として「のみ」認識してしまうと、いわゆる「下からの」権力を説明できない。もちろん、近代という枠組みにあっては、権力の安定のために差別が構造化されることは、日本固有の状況でない(フーコ)。またそれを「差別は江戸時代からだ」と起源を時間的に遡っても、上記のように構造化されているという点では妥当性を有しているのだが、それ以前の「ごちゃごちゃしている感じ」(網野史学が示した中世の天皇―被差別部落民の関係など)を、システマチックに説明することは難しいみたい。
→作為とそうでない部分を、まず分けてみる。しかしそれが実はうまく分けられないものだということに気づく。それでも分けてみる必要。
・コミンテルンの日本分析がどこまで正しかったかをまず確認すること、日本共産党のその受容および運動の方針の確認。マルクス主義の――ある意味で自身の正当化に使われてしまった――たとえ運動が敗北しても「私たちが失うものは鉄の鎖であ」って、その度に前衛および階級の連帯が強まるのだという議論は、「戦略を尽くしてそれでもえられなかった成果」と「失敗したがゆえにえられなかった成果」をきっちり分けない、やってはいけない行動であった。
日本でも、比較的プロレタリアの比率で言うと農民が多いから国際比較ができるかは分からないが、28・29年の労働運動(および小作運動)が大規模に展開されたが、これは前衛によるヘゲモニーが貫徹できておらず、大衆の能動性はあったものの、その後に継続できず。それに対して、運動の自発性を部門やら地域やらに任せるのではなく、どの運動であっても前衛がどこでも介入しなくてはいけないという方針のために、むしろ運動の混乱をもたらした。その後は、帝国主義の海外展開・国内における抑圧によって、左翼の敗北は決定的なものとなる。(さすがにこれは、権力の強大さが圧倒的に不均等であるから、負けない可能性があったうんぬんという議論は生産的じゃない。)
・ポットマン平成史で、被差別部落史とかやってくんないかな。(やってもたたかれるし、やれないだろうけども。でもそれが。)ちゃんと知っとかないと、差別ってホント難しい。これを見ておかないと、差別をなくそうとすればするほど強化してしまうような奇妙なねじれが生まれてしまう。あるいは売春婦史。
・宮台って、私個人がこれまで読む気がしな(読んでないくせいに読む気がしないというのは私の先入観以上の理由はないといえばないのだが…)かったのだが、「こいつのは読んでおいたほうがいい」と言われ、天皇制の議論を確認する。
→今の私の知識では、宮台の議論を理解できず。特定の価値判断を導く議論というよりは、そもそもどういうロジックを設定するかという点に重点があるように思われるが、これはちゃんと読んでおくべきだなあ、と思う。またいずれ読む。
・震災巡幸は、失敗だった。私がこのように言うのは奇妙といえば奇妙なのだろうが、自民党だったら、官僚とのパイプをつなげ、しっかりプロモーションもして、諸々のおぜん立てもして、震災巡幸を成功させていたと思う。しかし、震災の後から民主党の無能は――明白な形で――明らかになり、天皇制の安定化と天皇制による社会の安定化という、左翼の恐れていたデザインは、失敗「してくれた」というところであろう。
確認しておくべきは、天皇は装置である。国家が(たとえば資本など、別の物の)道具であるかどうかは、議論が分かれるし、とくに資本との関係で国家には自律性があるのかという議論は非常に難しい問題であるが、天皇は支配のための道具であり、天皇制は支配のための諸制度である。したがって、問題は天皇の心性ではなく(昭和天皇のせいで、「人間的に問題だから問題だ」、というのが受容されがちだが、そのようなロジックはやってはいけない。制度があるがゆえに天皇が問題とされなくてはならない)、天皇を用いて統治の正当化に使う、支配層にこそあるのである。
橋下が、参院解体など現行憲法では到底実行できない政策を掲げておきながら、天皇は一切「政治利用」をしていない。そこはおそらく、用意周到に「政治利用をしない、という利用」のしかたを徹底するのだと思われる。
→保守同士の「おもちゃのとりあい」に、どのように介入するか?既存の道具立てを用いて、どのように天皇制に「混乱」をもたらすか?
→しかし、当然すぎることながら、制度である以上、制度を廃絶しなくてはいけない。私がいつか書いたように、「全く無視するか、徹底的にプロレスするか、」という問いは、天皇制に関しては、制度がある以上、天皇について無視することは、適切な戦略ではない。
・天皇を勝手に一個人がなのったり、三島由紀夫を被差別部落民だと言ってみたり、そう語る当人の意図はどうあれ、そうした「撹乱」は戦略となるか?
→しかし、この土台はどのように設定するか?
色々いうよね〜
なんか、山ちゃんがはるな愛のマネしてて、今日一日ずっと「言うよね〜」って言ってた。ホント言うよね〜
・今日は忙しかった
とにかく今日は忙しかった。ひたすらメール、電話、メール、電話。で一日が終わった。あんまり忙しいのは好きでねえんだども、今日ばかりはよかったということで。
そしてもうこんな時間になってしまった…
・カップルが電車にいて
私は昼に電車に乗りまして、緊張していました。とても緊張していました。向かいのカップルは、なかむつまじく語り合っています。
「昨日ね、髪の毛染めようとしたじゃあん」「おん、してたっけ?」「いやさあ、染めようとしたんだけど、寝ちゃったじゃん?……一緒に寝たあとで。」「おっ、おう。寝ちゃったよね……確かに。」『…んふふ。』
→電車内で、昨日の夜「なかよし」した話をするんじゃあないよ。
・天皇制はどう打倒したらいいか?
これについて書こうと思ったのに、もう3時です。よい子は寝る時間です。正確に言うと、よい子は寝ていますし、悪い子も寝てるでしょうし、こんな時間に起きている私は、ネットで見つけた、「女の子が写ってる2枚の写真から好みの方を選ぶという作業を5回するだけで分かる、あなたの好みの女の子」というゲームで分かった、ロリコンです。
(私は意外と若いので、同じくらいの年くらいの子と付き合っててても)ロリコンじゃないし、確かに肌が白くて目がクリクリしてる子が好きだが、自分をロリコンじゃないとどうしても確信したかった私は、そのゲームを複数回やった。
その結果、「あなたは、ロリコンです。潜在的に、熟女が好きです。」という判断が下された。結局、私にとって全ての女性は機能的等価であることが示され、私はその運命を受け入れようと決めた。彼女が欲しい、冬。
で、……あーっ!!
付記。
・被差別部落の人すら国のために尽くすのだから、いわんや「普通の日本人」をや。
→賃労働にしろ、兵士にしろ、抑圧が別の抑圧のロジックへと転化され、それが天皇制という言葉の下に(別の内実を含み込むものなのに)並列されてしまう
・全国水平社は、ことに30年代以降翼賛体制を積極的に支持していく
・共産党と差別運動。被差別部落の人々を、労働運動の最前線で動員しておきながら、彼ら被差別部落の闘争者が共産党系の主流ではなかったために、差別反対闘争の利権をめぐって、共産党と解放運動とが窓口一本化で対立。60年代を主軸としておよそ20年ほどその対立は激しく展開し、共産党は――自身の運動を正当化するために――「部落差別はもうない」という議論を展開した。部落差別がないから運動がなくていい、もしあるとしてもそれは私たちの運動の下で展開されるほかない。
→運動の停滞により、対立が総括されることがないままになる。総括はあるか?
・日本の身分差別は、江戸時代以降(とくに綱吉以降だと思われるが)に構造化される。士農工商+えた/非人(この表記に問題があることは分かっていますが、かといって他に表記することもどこか違和感を感じるので…)という身分構造→近代化に伴う戸籍作成に伴う新平民。
→したがって、いわゆる権力論として展開できるのは近世以降であろう。しかし、一時期の政党のように天皇を合理的な存在として「のみ」認識してしまうと、いわゆる「下からの」権力を説明できない。もちろん、近代という枠組みにあっては、権力の安定のために差別が構造化されることは、日本固有の状況でない(フーコ)。またそれを「差別は江戸時代からだ」と起源を時間的に遡っても、上記のように構造化されているという点では妥当性を有しているのだが、それ以前の「ごちゃごちゃしている感じ」(網野史学が示した中世の天皇―被差別部落民の関係など)を、システマチックに説明することは難しいみたい。
→作為とそうでない部分を、まず分けてみる。しかしそれが実はうまく分けられないものだということに気づく。それでも分けてみる必要。
・コミンテルンの日本分析がどこまで正しかったかをまず確認すること、日本共産党のその受容および運動の方針の確認。マルクス主義の――ある意味で自身の正当化に使われてしまった――たとえ運動が敗北しても「私たちが失うものは鉄の鎖であ」って、その度に前衛および階級の連帯が強まるのだという議論は、「戦略を尽くしてそれでもえられなかった成果」と「失敗したがゆえにえられなかった成果」をきっちり分けない、やってはいけない行動であった。
日本でも、比較的プロレタリアの比率で言うと農民が多いから国際比較ができるかは分からないが、28・29年の労働運動(および小作運動)が大規模に展開されたが、これは前衛によるヘゲモニーが貫徹できておらず、大衆の能動性はあったものの、その後に継続できず。それに対して、運動の自発性を部門やら地域やらに任せるのではなく、どの運動であっても前衛がどこでも介入しなくてはいけないという方針のために、むしろ運動の混乱をもたらした。その後は、帝国主義の海外展開・国内における抑圧によって、左翼の敗北は決定的なものとなる。(さすがにこれは、権力の強大さが圧倒的に不均等であるから、負けない可能性があったうんぬんという議論は生産的じゃない。)
・ポットマン平成史で、被差別部落史とかやってくんないかな。(やってもたたかれるし、やれないだろうけども。でもそれが。)ちゃんと知っとかないと、差別ってホント難しい。これを見ておかないと、差別をなくそうとすればするほど強化してしまうような奇妙なねじれが生まれてしまう。あるいは売春婦史。
・宮台って、私個人がこれまで読む気がしな(読んでないくせいに読む気がしないというのは私の先入観以上の理由はないといえばないのだが…)かったのだが、「こいつのは読んでおいたほうがいい」と言われ、天皇制の議論を確認する。
→今の私の知識では、宮台の議論を理解できず。特定の価値判断を導く議論というよりは、そもそもどういうロジックを設定するかという点に重点があるように思われるが、これはちゃんと読んでおくべきだなあ、と思う。またいずれ読む。
・震災巡幸は、失敗だった。私がこのように言うのは奇妙といえば奇妙なのだろうが、自民党だったら、官僚とのパイプをつなげ、しっかりプロモーションもして、諸々のおぜん立てもして、震災巡幸を成功させていたと思う。しかし、震災の後から民主党の無能は――明白な形で――明らかになり、天皇制の安定化と天皇制による社会の安定化という、左翼の恐れていたデザインは、失敗「してくれた」というところであろう。
確認しておくべきは、天皇は装置である。国家が(たとえば資本など、別の物の)道具であるかどうかは、議論が分かれるし、とくに資本との関係で国家には自律性があるのかという議論は非常に難しい問題であるが、天皇は支配のための道具であり、天皇制は支配のための諸制度である。したがって、問題は天皇の心性ではなく(昭和天皇のせいで、「人間的に問題だから問題だ」、というのが受容されがちだが、そのようなロジックはやってはいけない。制度があるがゆえに天皇が問題とされなくてはならない)、天皇を用いて統治の正当化に使う、支配層にこそあるのである。
橋下が、参院解体など現行憲法では到底実行できない政策を掲げておきながら、天皇は一切「政治利用」をしていない。そこはおそらく、用意周到に「政治利用をしない、という利用」のしかたを徹底するのだと思われる。
→保守同士の「おもちゃのとりあい」に、どのように介入するか?既存の道具立てを用いて、どのように天皇制に「混乱」をもたらすか?
→しかし、当然すぎることながら、制度である以上、制度を廃絶しなくてはいけない。私がいつか書いたように、「全く無視するか、徹底的にプロレスするか、」という問いは、天皇制に関しては、制度がある以上、天皇について無視することは、適切な戦略ではない。
・天皇を勝手に一個人がなのったり、三島由紀夫を被差別部落民だと言ってみたり、そう語る当人の意図はどうあれ、そうした「撹乱」は戦略となるか?
→しかし、この土台はどのように設定するか?
2012年02月15日
上野英信,1989,『天皇陛下萬歳』.
上野英信,1989,『天皇陛下萬歳――爆弾三勇士序説』筑摩書房.
1971年に筑摩書房よりだされたものを、文庫版にて再録したもの。
うーむ。なんとも言えない。内容を要約することや、上野の主張に対する批判が、おそらくは本書を読んだうえで書くことであろうが、それが果たして適切だろうか、と思う。わけあって読んだため、私の知りたいことに対する目的意識があってのことでないことも手伝って、なんと書いたらいいか…という思いばかりが脳裏をよぎる。
おおよそ、感じるところは以下のようなものである。
・少なくとも現在から見た、絶対的な貧困という背景
・語る人間によって、語られる人間は表象されざるを得ないのだ、という事実。
・被差別部落――この点を、史実の観点から明らかに「しきっていない」ことに批判がむけられたことが筆者解題からもわかるのだが――と天皇制および天皇との、複雑な結び付き
といったところだろうか。
子どもの権利という点から見れば、おそらく戦前を肯定する人はいまい。
小さいころから息子を奉公にやり、とくに九州などでは産業の近代化を進めるために炭鉱――労働条件・衛生環境の悪辣さは本書でもあげられており、そのうえ賃金も生活するに十分とは言えない――にやって、ときとして娘は、むこう数年の年貢(税制が近代的に整備されても、小作は地主に現物で納めていた)と引き換えに身売りをさせられ、なんとかして家族が生きていかれるようにするという状況。どこかで広田照幸が書いていたように、「昔の日本人は家族を大切にして…」などという人がいるが、少なくとも戦前(を当該の指す「昔」だと思っているのなら)は、家族のために子どもを身売りにするのだから、そしてその意味を子ども本人が知るところではない以上、「日本人」が家族を大切にしていたというのは、正しくない。
そして本書でも、夫婦で炭鉱の激務をこなそうとも生活していかれず、尋常小学校を退学して、若くして働きに出るという描写がなされる。もちろん、子どもが働くのがいいか悪いか、身売りするのがいいか悪いかという議論は、一般論として語ることも重要だが、その背景にあった絶対的な条件すなわち貧困を見落としてはなるまい。
この点以上に気になるのが、被差別部落への、なんとも言い現わし難い感情である。
私は、爆弾三勇士は被差別部落出身だと思っていたが、上野によると、3人の中の一人がそう「らしい」というにとどめており、実際は(上野の調査の範囲で)史実を確認しても分からなかった、というのが実情らしい。そして私も、歴史学の知見や資料の検索について明るくないがために、この認識を受け入れざるを得ない。ただそれ以上に言及しておかねばならないのは、上野も強調するように、被差別部落への――ある意味でのいわれなき――差別であろう。
マイノリティを語る上でよくなされる語り口は、以下のようなものである。「彼らはマイノリティであるがゆえに、マジョリティに受け入れられようとして、マジョリティ以上に「マジョリティらしく」振舞うのであろう」と。そして私も、爆弾三勇士についてはそうなのだろうと思っていた。そうなのだろう、というのはつまり、被差別部落出身で、差別を受けているからこそ、天皇を奉じる日本および日本軍のために死ぬことで、英霊として自己を誇ろうとしたのではないか、ということだ。
実際は、話が入り組んでいるのでやや分かりにくいが、この認識は正しくないようだ。第一に、爆弾三勇士が、確か靖国でも彼らの銅像があったと思うんだけどそれに示されているように、今に至るまで武勇伝として語られるのは、戦って「死んだ」ということが重要だとされているのだが、それは防げたミスなのではないか、ということ。つまり、彼らは死なずに済んだのではないか。飛行機で特攻したというのなら、死ぬことは分かる。しかし彼らの場合は、技術的な問題で、爆弾を抱えて敵陣に突っ込んだ後の対応や、爆弾のそもそもの作り方から言って、彼らは無事生きて帰ってこれたのではないか、という指摘がなされている。(実際、一人が亡くなったのだが、後の二人はそれが死因ではないとのこと。)これはまず、天皇のために「死んだ」から英雄視されるというロジックを覆す。
第二に、アイデンティティが表裏一体であること。上野によると、おそらく被差別部落の住民が、「実はあいつはどこそこの部落の出身らしく…」と語ったことが、世間にも広まったらしい。(その点が明確に検証されていない点が、惜しいと言えば惜しいし、問題と言えば問題なのかもしれないが、繰り返すようにここではそれに言及できない。)それはどこかで、「ほら、俺たちだって、いつもは差別を受けてるけど、天皇のために死んだ偉い人たちだろう」という、部落の住民というアイデンティティを構築しようと思った、のかもしれない。しかし他方で、そのアイデンティティは容易く反転してしまう。
葬式の場にて、爆弾三勇士の話で持ちきりになったその場――そこには、彼らの写真と天皇の写真がかかがられていたらしい――は、被差別部落出身でない人から、「部落のくせに、軍神という呼称や、天皇と並べて(写真を)かかがるなど、ふざけるな」という、まごうことなき差別を目撃する。これは、ある集団におけるアイデンティティが、それがためにマイノリティから差別を受けてしまうという意味において、権力構造を強化する機能を果たしてしまっている。そして厳然として、死んでしまった以上、彼らはそのような「語り」から免れることができない。
(おそらく、『ハマータウンの野郎ども』に近しい感じだろうか。労働者階級の若者たちは、「われわれ」として集まり、女子供やら、エリートやらを「彼ら」として批判し、彼ら独自のアイデンティティを構築する。それは一方で、人間が生きていくよすがになる共同体を構成するのだが、他方で彼らの行動様式が、権力に必ずしも対峙するものではなく、むしろ権力を結果として強化させる機能を果たしてしまう。)
私は戦前の歴史に疎く、こういったことについては靖国神社関連の文献を数冊読んだ程度の知識しかない。その中で覚えているのは、西谷修だっただろうか、「死は横領される」という論考である。死んだ人は語れない以上、生きている人は語る。実際にそう言ったかを、おそらく本当にそうなのかは確かめることができないまま、「最後には、天皇万歳、日本国万歳と言って死んでいった」と語られる。当人がどう思って死んでいったかは分からない。死が横領される。そしてそれは、ある意味で右翼にしろ左翼にしろ、もっと言えば日常的な様々な場面で、私たちを拘束している。
おそらく、スピヴァクが「サバルタンは語ることができない」と言ったときに彼女が言わねばならなかったのは、知識人が他者を語ることそれ自体の批判ではなく、他者を語ることを批判することもまた他者を語ることにならざるを得ないのだ、ということであったように思われる。スピヴァクは、知識人が他者を語ることを批判して、サバルタンは語ることができないと言った。しかし、ではサバルタンは語ることができない、と語ったのは、スピヴァクではないのか。彼女は、自分自身を言説から排除することによって、その言説に正当性を付与していないか。そしてその特権的な構造にこそ、表象の問題があるのではないか。
私たちが何かを語るとき、おそらく物事は私たちが思う以上に入り組んでいる。私たちは、それらを顧みずに語ることを続けるだろうか。他者を語らないように部屋にこもり切ってしまうだろうか。他者を語らないと言いきってやまず、他者を語ることを隠蔽するだろうか。
にしても、歴史をきちんと勉強しないとなあ。
1971年に筑摩書房よりだされたものを、文庫版にて再録したもの。
うーむ。なんとも言えない。内容を要約することや、上野の主張に対する批判が、おそらくは本書を読んだうえで書くことであろうが、それが果たして適切だろうか、と思う。わけあって読んだため、私の知りたいことに対する目的意識があってのことでないことも手伝って、なんと書いたらいいか…という思いばかりが脳裏をよぎる。
おおよそ、感じるところは以下のようなものである。
・少なくとも現在から見た、絶対的な貧困という背景
・語る人間によって、語られる人間は表象されざるを得ないのだ、という事実。
・被差別部落――この点を、史実の観点から明らかに「しきっていない」ことに批判がむけられたことが筆者解題からもわかるのだが――と天皇制および天皇との、複雑な結び付き
といったところだろうか。
子どもの権利という点から見れば、おそらく戦前を肯定する人はいまい。
小さいころから息子を奉公にやり、とくに九州などでは産業の近代化を進めるために炭鉱――労働条件・衛生環境の悪辣さは本書でもあげられており、そのうえ賃金も生活するに十分とは言えない――にやって、ときとして娘は、むこう数年の年貢(税制が近代的に整備されても、小作は地主に現物で納めていた)と引き換えに身売りをさせられ、なんとかして家族が生きていかれるようにするという状況。どこかで広田照幸が書いていたように、「昔の日本人は家族を大切にして…」などという人がいるが、少なくとも戦前(を当該の指す「昔」だと思っているのなら)は、家族のために子どもを身売りにするのだから、そしてその意味を子ども本人が知るところではない以上、「日本人」が家族を大切にしていたというのは、正しくない。
そして本書でも、夫婦で炭鉱の激務をこなそうとも生活していかれず、尋常小学校を退学して、若くして働きに出るという描写がなされる。もちろん、子どもが働くのがいいか悪いか、身売りするのがいいか悪いかという議論は、一般論として語ることも重要だが、その背景にあった絶対的な条件すなわち貧困を見落としてはなるまい。
この点以上に気になるのが、被差別部落への、なんとも言い現わし難い感情である。
私は、爆弾三勇士は被差別部落出身だと思っていたが、上野によると、3人の中の一人がそう「らしい」というにとどめており、実際は(上野の調査の範囲で)史実を確認しても分からなかった、というのが実情らしい。そして私も、歴史学の知見や資料の検索について明るくないがために、この認識を受け入れざるを得ない。ただそれ以上に言及しておかねばならないのは、上野も強調するように、被差別部落への――ある意味でのいわれなき――差別であろう。
マイノリティを語る上でよくなされる語り口は、以下のようなものである。「彼らはマイノリティであるがゆえに、マジョリティに受け入れられようとして、マジョリティ以上に「マジョリティらしく」振舞うのであろう」と。そして私も、爆弾三勇士についてはそうなのだろうと思っていた。そうなのだろう、というのはつまり、被差別部落出身で、差別を受けているからこそ、天皇を奉じる日本および日本軍のために死ぬことで、英霊として自己を誇ろうとしたのではないか、ということだ。
実際は、話が入り組んでいるのでやや分かりにくいが、この認識は正しくないようだ。第一に、爆弾三勇士が、確か靖国でも彼らの銅像があったと思うんだけどそれに示されているように、今に至るまで武勇伝として語られるのは、戦って「死んだ」ということが重要だとされているのだが、それは防げたミスなのではないか、ということ。つまり、彼らは死なずに済んだのではないか。飛行機で特攻したというのなら、死ぬことは分かる。しかし彼らの場合は、技術的な問題で、爆弾を抱えて敵陣に突っ込んだ後の対応や、爆弾のそもそもの作り方から言って、彼らは無事生きて帰ってこれたのではないか、という指摘がなされている。(実際、一人が亡くなったのだが、後の二人はそれが死因ではないとのこと。)これはまず、天皇のために「死んだ」から英雄視されるというロジックを覆す。
第二に、アイデンティティが表裏一体であること。上野によると、おそらく被差別部落の住民が、「実はあいつはどこそこの部落の出身らしく…」と語ったことが、世間にも広まったらしい。(その点が明確に検証されていない点が、惜しいと言えば惜しいし、問題と言えば問題なのかもしれないが、繰り返すようにここではそれに言及できない。)それはどこかで、「ほら、俺たちだって、いつもは差別を受けてるけど、天皇のために死んだ偉い人たちだろう」という、部落の住民というアイデンティティを構築しようと思った、のかもしれない。しかし他方で、そのアイデンティティは容易く反転してしまう。
葬式の場にて、爆弾三勇士の話で持ちきりになったその場――そこには、彼らの写真と天皇の写真がかかがられていたらしい――は、被差別部落出身でない人から、「部落のくせに、軍神という呼称や、天皇と並べて(写真を)かかがるなど、ふざけるな」という、まごうことなき差別を目撃する。これは、ある集団におけるアイデンティティが、それがためにマイノリティから差別を受けてしまうという意味において、権力構造を強化する機能を果たしてしまっている。そして厳然として、死んでしまった以上、彼らはそのような「語り」から免れることができない。
(おそらく、『ハマータウンの野郎ども』に近しい感じだろうか。労働者階級の若者たちは、「われわれ」として集まり、女子供やら、エリートやらを「彼ら」として批判し、彼ら独自のアイデンティティを構築する。それは一方で、人間が生きていくよすがになる共同体を構成するのだが、他方で彼らの行動様式が、権力に必ずしも対峙するものではなく、むしろ権力を結果として強化させる機能を果たしてしまう。)
私は戦前の歴史に疎く、こういったことについては靖国神社関連の文献を数冊読んだ程度の知識しかない。その中で覚えているのは、西谷修だっただろうか、「死は横領される」という論考である。死んだ人は語れない以上、生きている人は語る。実際にそう言ったかを、おそらく本当にそうなのかは確かめることができないまま、「最後には、天皇万歳、日本国万歳と言って死んでいった」と語られる。当人がどう思って死んでいったかは分からない。死が横領される。そしてそれは、ある意味で右翼にしろ左翼にしろ、もっと言えば日常的な様々な場面で、私たちを拘束している。
おそらく、スピヴァクが「サバルタンは語ることができない」と言ったときに彼女が言わねばならなかったのは、知識人が他者を語ることそれ自体の批判ではなく、他者を語ることを批判することもまた他者を語ることにならざるを得ないのだ、ということであったように思われる。スピヴァクは、知識人が他者を語ることを批判して、サバルタンは語ることができないと言った。しかし、ではサバルタンは語ることができない、と語ったのは、スピヴァクではないのか。彼女は、自分自身を言説から排除することによって、その言説に正当性を付与していないか。そしてその特権的な構造にこそ、表象の問題があるのではないか。
私たちが何かを語るとき、おそらく物事は私たちが思う以上に入り組んでいる。私たちは、それらを顧みずに語ることを続けるだろうか。他者を語らないように部屋にこもり切ってしまうだろうか。他者を語らないと言いきってやまず、他者を語ることを隠蔽するだろうか。
にしても、歴史をきちんと勉強しないとなあ。
『週刊文春』3月31日号.
『週刊文春』3月31日号.
311関連1冊目。
・3月半ばから、何が起きたか分からない状況で、正直なにをしたらいいかも分かんなかった。怒りを通り越したときって悲しむことしかできず、悲しむこともできないときこそ本当のどん底だと思った。とりあえず、情報集めなきゃと思ったものの、今日にいたるまで週刊誌やら雑誌やらを積読であった。読めるときに、できれば1日1冊のペースで、読んでいきたい。
・同時に、介護の記事が載っている週刊誌も集めていたことに、先ほど本を整理しながら気づく。もしじいちゃんが生きていたら、少なからず介護のことを勉強しなくては、と思ったのだが、残念ながら私が勉強する前に、勉強するきっかけがなくなった。願わくは、この週刊誌が役に立たんことを。『寅さん』のおばちゃんも、亡くなってしまいましたね。
・雑誌を整理していると、(雑誌だから当たり前なんだけど)震災の記事だけでなく、おっぱい先生の記事とかもあるけど、それはスルー。
・時間軸が前後すると分かりにくくなるので、基本的には前から読んでいく。古本屋で、311に言及した新書がそろそろ大量に出回るころかなあ、と思うけど、手に入ったら手に入り次第、読みたいと思う。そのときはそのときで。
・とりあえず、もう一回でも被災地行かないと。
○大まかな内容…複数にわたっているので、だいたい記事ごとに2行あける
*事実関係として「ホントかい?」と思うようなところはありますが、一応書いときます
・清水社長は、原発から企業ごと撤退しようとしてた(これホントにやって、どうするつもりだったんだろう??)んだが、さすがに現場の所長やら国家から、対策をとるようになった。
・東電は「官僚以上に官僚的」で、ミスをしないことが昇進の条件になってた
・原子力ムラという言葉は既に使われていたということは、大マスコミを批判する週刊誌も、実は前から利権構造を知っていたということだろうか?佐藤前福島知事、小出裕章京大助教授、後藤政志、小林圭二、など登場。
・原発(の下請け)労働者の内部告発が、保安院によって握りつぶされていたので、福島県に寄せられるようになった。(これ、まったく意味が分からん。意味分からんといいはじめたら、311についてもそれ以降の対応についても意味がわからんことばっかりだが…)
・福島と東電のぶつかりあい。
・東電が国家を無視して直接米軍に支援要求。
・下請け労働者を放置して、東電社員が避難。
・電事連(電気事業連合会)という電力業界の業界団体が、政治的なパイプに。政党に政治献金をし、天下り(経産省→業界の顧問)や「天上がり」もある。
・有名な話だが、原発を推進する資源エネルギー庁と業界を規制する保安院が同じ経産省内部にある。(ちなみにどっかで聞いたけど、オフィスとしても隣同士にあるらしい。)
・中特防(陸上自衛隊・中央特殊武器防護隊)が原発事故の処理に当たる。
・3号機に上からヘリで放水するのは、実際あんまり意味がなかったみたい。(政治的パフォーマンス以上の意味はないらしい)
・緊急災害対策本部、原子力災害、電力供給など各対策本部があり、東電との統合連絡本部、震災ボランティア連携室などなど作ったものの、指揮系統が統一されていない。
・民主―自民の大連立の話は震災直後から出ていたが、(民主党の)岡田がつぶした。
・自衛隊が統合任務部隊を編成してから、現場と各省庁をつなぐ役割を果たした。
・(たぶん記事が書かれたのは20日前後だと思われるが)買いだめと、計画停電と燃料不足で、物流機能がマヒしていた。
・この時点で、色々な商品の放射線の影響が議論されている。(結局、これは決着が着いたんだろうか…)
・石原の(発言をまとめたものだと思われる)記事があるが、ここに書く気になれない。
・透析の患者は、被災地から移送せざるをえず、04年からできていた災害情報ネットワークが役に立った。
・この時点ではまだ、かなり夏の電力のことが話題になってたみたい。
・アメリカは原発から80キロ離れろと言ってたが、日本は30キロ。どちらが国際的な基準なのか(私は)知らないのだが、日本に関しては独自に設定したらしい。
・外資と共同通信は、東京にある会社やら社員を避難させたらしいが、今実際どのくらいの会社やら人やらが移動したんだろう??
・雑誌で挙げられてた、原発推進論者。(原発を、理論的に推進するというよりは、お金をもらってるから賛成することしかできないという意味で。原発が自然科学の諸理論からして安全かどうかは、実際に判断するのはけっこう難しいと思われる。)
住田裕子(「行列の出来る〜」に出てた人。この人、弁護士やめて魚食べるみたいなNPO行ったよね…?)
藤家洋一(東工大)
西山英彦(資源エネルギー庁→保安院)
石原慎太郎(この人は、カネうんぬんというより、自身の文明観が非常に強固に出ている形。)
怒りなしで読めない。
読めるとこまででやめようと思ったけど、今後も同じような記事を読むだろうから、終わりまで目を通そうと思う。このブログは、私個人の読書のメモとしてはじめたし、そんなに多くの方が読んでいるというわけではないし、私個人としてはあまり他の人に自分の価値観を押し付けることはしたくないので、あまりアオるようなことばかり書きたくない。(意図的にそうふるまうならまた別ですが…。)
しかし、311に関しては、疑うべくもなくこれが事実であろう。何も知らないで損をする人がいるのもどこか腹立たしいので、この記事を続けていこうと思う。
311関連1冊目。
・3月半ばから、何が起きたか分からない状況で、正直なにをしたらいいかも分かんなかった。怒りを通り越したときって悲しむことしかできず、悲しむこともできないときこそ本当のどん底だと思った。とりあえず、情報集めなきゃと思ったものの、今日にいたるまで週刊誌やら雑誌やらを積読であった。読めるときに、できれば1日1冊のペースで、読んでいきたい。
・同時に、介護の記事が載っている週刊誌も集めていたことに、先ほど本を整理しながら気づく。もしじいちゃんが生きていたら、少なからず介護のことを勉強しなくては、と思ったのだが、残念ながら私が勉強する前に、勉強するきっかけがなくなった。願わくは、この週刊誌が役に立たんことを。『寅さん』のおばちゃんも、亡くなってしまいましたね。
・雑誌を整理していると、(雑誌だから当たり前なんだけど)震災の記事だけでなく、おっぱい先生の記事とかもあるけど、それはスルー。
・時間軸が前後すると分かりにくくなるので、基本的には前から読んでいく。古本屋で、311に言及した新書がそろそろ大量に出回るころかなあ、と思うけど、手に入ったら手に入り次第、読みたいと思う。そのときはそのときで。
・とりあえず、もう一回でも被災地行かないと。
○大まかな内容…複数にわたっているので、だいたい記事ごとに2行あける
*事実関係として「ホントかい?」と思うようなところはありますが、一応書いときます
・清水社長は、原発から企業ごと撤退しようとしてた(これホントにやって、どうするつもりだったんだろう??)んだが、さすがに現場の所長やら国家から、対策をとるようになった。
・東電は「官僚以上に官僚的」で、ミスをしないことが昇進の条件になってた
・原子力ムラという言葉は既に使われていたということは、大マスコミを批判する週刊誌も、実は前から利権構造を知っていたということだろうか?佐藤前福島知事、小出裕章京大助教授、後藤政志、小林圭二、など登場。
・原発(の下請け)労働者の内部告発が、保安院によって握りつぶされていたので、福島県に寄せられるようになった。(これ、まったく意味が分からん。意味分からんといいはじめたら、311についてもそれ以降の対応についても意味がわからんことばっかりだが…)
・福島と東電のぶつかりあい。
・東電が国家を無視して直接米軍に支援要求。
・下請け労働者を放置して、東電社員が避難。
・電事連(電気事業連合会)という電力業界の業界団体が、政治的なパイプに。政党に政治献金をし、天下り(経産省→業界の顧問)や「天上がり」もある。
・有名な話だが、原発を推進する資源エネルギー庁と業界を規制する保安院が同じ経産省内部にある。(ちなみにどっかで聞いたけど、オフィスとしても隣同士にあるらしい。)
・中特防(陸上自衛隊・中央特殊武器防護隊)が原発事故の処理に当たる。
・3号機に上からヘリで放水するのは、実際あんまり意味がなかったみたい。(政治的パフォーマンス以上の意味はないらしい)
・緊急災害対策本部、原子力災害、電力供給など各対策本部があり、東電との統合連絡本部、震災ボランティア連携室などなど作ったものの、指揮系統が統一されていない。
・民主―自民の大連立の話は震災直後から出ていたが、(民主党の)岡田がつぶした。
・自衛隊が統合任務部隊を編成してから、現場と各省庁をつなぐ役割を果たした。
・(たぶん記事が書かれたのは20日前後だと思われるが)買いだめと、計画停電と燃料不足で、物流機能がマヒしていた。
・この時点で、色々な商品の放射線の影響が議論されている。(結局、これは決着が着いたんだろうか…)
・石原の(発言をまとめたものだと思われる)記事があるが、ここに書く気になれない。
・透析の患者は、被災地から移送せざるをえず、04年からできていた災害情報ネットワークが役に立った。
・この時点ではまだ、かなり夏の電力のことが話題になってたみたい。
・アメリカは原発から80キロ離れろと言ってたが、日本は30キロ。どちらが国際的な基準なのか(私は)知らないのだが、日本に関しては独自に設定したらしい。
・外資と共同通信は、東京にある会社やら社員を避難させたらしいが、今実際どのくらいの会社やら人やらが移動したんだろう??
・雑誌で挙げられてた、原発推進論者。(原発を、理論的に推進するというよりは、お金をもらってるから賛成することしかできないという意味で。原発が自然科学の諸理論からして安全かどうかは、実際に判断するのはけっこう難しいと思われる。)
住田裕子(「行列の出来る〜」に出てた人。この人、弁護士やめて魚食べるみたいなNPO行ったよね…?)
藤家洋一(東工大)
西山英彦(資源エネルギー庁→保安院)
石原慎太郎(この人は、カネうんぬんというより、自身の文明観が非常に強固に出ている形。)
怒りなしで読めない。
読めるとこまででやめようと思ったけど、今後も同じような記事を読むだろうから、終わりまで目を通そうと思う。このブログは、私個人の読書のメモとしてはじめたし、そんなに多くの方が読んでいるというわけではないし、私個人としてはあまり他の人に自分の価値観を押し付けることはしたくないので、あまりアオるようなことばかり書きたくない。(意図的にそうふるまうならまた別ですが…。)
しかし、311に関しては、疑うべくもなくこれが事実であろう。何も知らないで損をする人がいるのもどこか腹立たしいので、この記事を続けていこうと思う。
2012年02月14日
ヴェーバー『職業としての政治』.
ヴェーバー『職業としての政治』.岩波文庫版
社会科学の古典A
社会科学の古典をどのように領域画定するかで細かい議論は必要だろうが、まあこの数カ月のうちに読めたものに関しては古典のカテゴリーに入れておく。あと、『法哲学』は毎日ちょこちょこ読んでいく、つもり。
で一応、私の中でこの作業の意味付けを、自分が読み返したときのために、書いておきたい。ひとつには、新しいものを創造するなんておそらく私みたいな人間には難しくて、そうである以上は、徹底的に古典と言われるものを読んでおかなくてはならないだろう、ということ。ひとつには、読もうと思っている――実際読めるかどうかは読んでみないと分からない――ものの中に、既に読んでいるものがある、はず。なのにもかかわらず、人に背景やら目的意識やら内容やらを説明できないとしたら、その読書は読書と呼ぶべきでない。もちろん分からなかったということはあるにせよ、それを読書というのは適切じゃない。だいたいまあそんな感じで。
○内容に関するメモ
・支配の3類型。伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配
・国家の生成。プライベートな軍隊やら財産やらから分離される形で、国家が成立。
・官僚と政治家の話。この二つを対比的に語っている。
・↑中盤までは国家ごとの比較の話/↓後半から、倫理の話。
・責任倫理と心情倫理−政治家の態度として
前半は、ドイツを中心に、イギリス、アメリカ、インド(まだ国でないので、地方としてのインド)や東欧などの歴史的な政治体制をふりかえりつつ、国家の話をしている。このことに関しては、官僚制と職業政治家という役割・業務分担があるので、政治は倫理ではない。
対称的に後半は、責任倫理と心情倫理を対比させ、ときに重ね合わせながら、政治と倫理の交差について語っている。
なんていうか、ウェーバーのおかれた第一次世界大戦後の、本当に共産主義がドイツでも革命を起こしてしまうのではないかという危機感と、ビスマルク亡き後の政治―行政体制へのナショナリストとしての切望感みたいなものが、表れているという感じだろうか。おそらく、一時期までであれば誰しも、政治家や官僚を志す人は本書を読んだだろうし、政治に携わる人にとっては一般論としても学ぶところが多いように思う。
ただ、日本の現在の状況を見ていると、とりあえず行政を批判し、手続きの面で徹底して権力の強大化を図り、価値判断としても「民主主義」的――それは既存の民主主義からの比較という意味で――と思われない政治勢力が台頭する中、ナショナリストでない私は、どこか空虚な読後感も覚えてしまう。
○引用
「国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。」pp9
「だから、われわれにとって政治とは、……要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいだろう。」pp10
「同じく政治を職業とすると言っても、二つの道がある。政治の「ために」生きるか、それとも政治「によって」生きるか、そのどちらかである。」pp21
「今日の革命国家の構造も、この点ではなんら根本的な変革を意味しない。その革命国家ではズブの素人たちが、機関銃をおさえたおかげで行政権まで手に入れたが、その彼らにしても、どうせ内心では、専門的に訓練された官僚たちを命令執行の頭脳として利用しようというに過ぎないからである。」pp34
「官吏として倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。」pp42
「どんな人間であれば、歴史の歯車に手をかける資格があるのかという問題は、確かに倫理的問題の領域に属している。」pp77
「政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。」pp84
「しかし「革命」を口にすることだけは慎むがよい。まさか、内乱だけが唯一の正しい戦争だなどと、福音の倫理が説くはずはないからである。」pp88
「実際、この心情倫理には――論理的に突きつめれば――道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。」pp92
「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらには善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとってけっして真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。……これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。」pp94
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりぬいていく作業である。」pp105
「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への転職Berufを持つ。」pp106
社会科学の古典A
社会科学の古典をどのように領域画定するかで細かい議論は必要だろうが、まあこの数カ月のうちに読めたものに関しては古典のカテゴリーに入れておく。あと、『法哲学』は毎日ちょこちょこ読んでいく、つもり。
で一応、私の中でこの作業の意味付けを、自分が読み返したときのために、書いておきたい。ひとつには、新しいものを創造するなんておそらく私みたいな人間には難しくて、そうである以上は、徹底的に古典と言われるものを読んでおかなくてはならないだろう、ということ。ひとつには、読もうと思っている――実際読めるかどうかは読んでみないと分からない――ものの中に、既に読んでいるものがある、はず。なのにもかかわらず、人に背景やら目的意識やら内容やらを説明できないとしたら、その読書は読書と呼ぶべきでない。もちろん分からなかったということはあるにせよ、それを読書というのは適切じゃない。だいたいまあそんな感じで。
○内容に関するメモ
・支配の3類型。伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配
・国家の生成。プライベートな軍隊やら財産やらから分離される形で、国家が成立。
・官僚と政治家の話。この二つを対比的に語っている。
・↑中盤までは国家ごとの比較の話/↓後半から、倫理の話。
・責任倫理と心情倫理−政治家の態度として
前半は、ドイツを中心に、イギリス、アメリカ、インド(まだ国でないので、地方としてのインド)や東欧などの歴史的な政治体制をふりかえりつつ、国家の話をしている。このことに関しては、官僚制と職業政治家という役割・業務分担があるので、政治は倫理ではない。
対称的に後半は、責任倫理と心情倫理を対比させ、ときに重ね合わせながら、政治と倫理の交差について語っている。
なんていうか、ウェーバーのおかれた第一次世界大戦後の、本当に共産主義がドイツでも革命を起こしてしまうのではないかという危機感と、ビスマルク亡き後の政治―行政体制へのナショナリストとしての切望感みたいなものが、表れているという感じだろうか。おそらく、一時期までであれば誰しも、政治家や官僚を志す人は本書を読んだだろうし、政治に携わる人にとっては一般論としても学ぶところが多いように思う。
ただ、日本の現在の状況を見ていると、とりあえず行政を批判し、手続きの面で徹底して権力の強大化を図り、価値判断としても「民主主義」的――それは既存の民主主義からの比較という意味で――と思われない政治勢力が台頭する中、ナショナリストでない私は、どこか空虚な読後感も覚えてしまう。
○引用
「国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。」pp9
「だから、われわれにとって政治とは、……要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいだろう。」pp10
「同じく政治を職業とすると言っても、二つの道がある。政治の「ために」生きるか、それとも政治「によって」生きるか、そのどちらかである。」pp21
「今日の革命国家の構造も、この点ではなんら根本的な変革を意味しない。その革命国家ではズブの素人たちが、機関銃をおさえたおかげで行政権まで手に入れたが、その彼らにしても、どうせ内心では、専門的に訓練された官僚たちを命令執行の頭脳として利用しようというに過ぎないからである。」pp34
「官吏として倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。」pp42
「どんな人間であれば、歴史の歯車に手をかける資格があるのかという問題は、確かに倫理的問題の領域に属している。」pp77
「政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。」pp84
「しかし「革命」を口にすることだけは慎むがよい。まさか、内乱だけが唯一の正しい戦争だなどと、福音の倫理が説くはずはないからである。」pp88
「実際、この心情倫理には――論理的に突きつめれば――道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。」pp92
「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらには善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとってけっして真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。……これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。」pp94
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりぬいていく作業である。」pp105
「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への転職Berufを持つ。」pp106
びぼーろく〜0214
びぼーろく〜0214
マツコと伊集院のカラミの秀逸さw
○おもしろかった記事
なぞなぞ
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3269802.html
ためしに、消されるかアップしてみよう。ディズニーネタ。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4096968.html
あと1カ月で、まる一年ですか。どうしたらいいんだろうなあ。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4728.html
橋下。市が持っていた海外の事務所を全廃。別にこれを今既に(法的に)やれるんだったら、とりあえず市長権限を強化する必要はないかと。いいか悪いかはよくわからん。
http://news.harikonotora.net/r/21683/
くだらないw
http://blog.livedoor.jp/nicovip2ch/archives/1744507.html
タイトルにやられた。大便をして捕まった男。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-2151.html
東北の、311と現在の比較。行かなきゃ。
http://jin115.com/archives/51848310.html
文系による理系いじり。読んでて天丼がおもしろかった。
http://huyosoku.com/archives/5197770.html
ガールズバーで高3の子が亡くなったらしい。お酒がどうとか高校生がどうとか色々あるけど、とりあえず労働法の知識がないと、よくわかんない。
http://exawarosu.net/archives/6706614.html
橋下。BI。
http://suiseisekisuisui.blog107.fc2.com/blog-entry-2123.html
橋下。ついに来た。参院解体論。
→しかし2ちゃんの類の記事にならず。
ようやく、ひと段落ついた。結果がどうあれ、私がすべきことは終わった。
そういうわけで、改めて読書の計画。ただ、引っ越しもするし、たぶん職業も変わるだろうから、そんなに余裕ないかもしれないなあ。
A311関連の話
→開沼さん、その他それなりに積読してある週刊誌やら月刊誌やら
Bフェミニズム
→これも、かなりの冊数が積読されている。しかし、この2カ月ほどで読まないと、たぶんこの先も読まなそう…
・とりあえず、読みたくて読みたくてどうしようもない本
→濱口さんの本、ネグリのレーニン論(買ってはみたものの、厚くて読む気になれん)など
・リーダー論やら政治学やら
→レーニンとシュミット、そして福田さんの『政治学史』にならって政治学の古典
@社会科学の古典
を一番優先的に読みたい。
おととい、たまたま宮本さんの本を読んだが、『世界』3月号にて、宮本さんの怒りが爆発(w?)しているらしい。広井さんも書いているとのことで、読みますか。
あと、今日ばかりは贅沢しようと思って、『名探偵コナン』の最新刊(ついに追いついてしまった…)と、お菓子屋さんのケーキを買った。ボヤっとしたお兄ちゃんに、「あ、400円のこのマカロンストロベリーください」って言ったら、終始ニヤニヤしてた。なぜだろう。いいじゃない、やることが終わったんだから、男一人がちょっと高いケーキの一つや二つ買ったって。
今日は、2月14日だとさっき気付いた。
マツコと伊集院のカラミの秀逸さw
○おもしろかった記事
なぞなぞ
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3269802.html
ためしに、消されるかアップしてみよう。ディズニーネタ。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4096968.html
あと1カ月で、まる一年ですか。どうしたらいいんだろうなあ。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4728.html
橋下。市が持っていた海外の事務所を全廃。別にこれを今既に(法的に)やれるんだったら、とりあえず市長権限を強化する必要はないかと。いいか悪いかはよくわからん。
http://news.harikonotora.net/r/21683/
くだらないw
http://blog.livedoor.jp/nicovip2ch/archives/1744507.html
タイトルにやられた。大便をして捕まった男。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-2151.html
東北の、311と現在の比較。行かなきゃ。
http://jin115.com/archives/51848310.html
文系による理系いじり。読んでて天丼がおもしろかった。
http://huyosoku.com/archives/5197770.html
ガールズバーで高3の子が亡くなったらしい。お酒がどうとか高校生がどうとか色々あるけど、とりあえず労働法の知識がないと、よくわかんない。
http://exawarosu.net/archives/6706614.html
橋下。BI。
http://suiseisekisuisui.blog107.fc2.com/blog-entry-2123.html
橋下。ついに来た。参院解体論。
→しかし2ちゃんの類の記事にならず。
ようやく、ひと段落ついた。結果がどうあれ、私がすべきことは終わった。
そういうわけで、改めて読書の計画。ただ、引っ越しもするし、たぶん職業も変わるだろうから、そんなに余裕ないかもしれないなあ。
A311関連の話
→開沼さん、その他それなりに積読してある週刊誌やら月刊誌やら
Bフェミニズム
→これも、かなりの冊数が積読されている。しかし、この2カ月ほどで読まないと、たぶんこの先も読まなそう…
・とりあえず、読みたくて読みたくてどうしようもない本
→濱口さんの本、ネグリのレーニン論(買ってはみたものの、厚くて読む気になれん)など
・リーダー論やら政治学やら
→レーニンとシュミット、そして福田さんの『政治学史』にならって政治学の古典
@社会科学の古典
を一番優先的に読みたい。
おととい、たまたま宮本さんの本を読んだが、『世界』3月号にて、宮本さんの怒りが爆発(w?)しているらしい。広井さんも書いているとのことで、読みますか。
あと、今日ばかりは贅沢しようと思って、『名探偵コナン』の最新刊(ついに追いついてしまった…)と、お菓子屋さんのケーキを買った。ボヤっとしたお兄ちゃんに、「あ、400円のこのマカロンストロベリーください」って言ったら、終始ニヤニヤしてた。なぜだろう。いいじゃない、やることが終わったんだから、男一人がちょっと高いケーキの一つや二つ買ったって。
今日は、2月14日だとさっき気付いた。
2012年02月13日
オッフェ「交換関係と政治的制御」.
オッフェ「交換関係と政治的制御――正当化問題のアクチュアリティ」.
オッフェの文献の中で、日本語になっているものの中では、おそらく最重要文献の一つ。
なんでかっちゅうと、オッフェ論というくくりというよりは、初期オッフェ(だいたい68年〜80年くらいまで)におけるコンフリクトやら制御やらが最も展開されている(ように思われる)からである。これと、「危機管理の危機」論文が訳されていれば、かなり話は見えてくるような気がするのだが…そういうわけで、読み直し。
でまあ、細かいこと言い始めたらキリがないんだが、おおよそ以下の内容かと。
・社会の観察を、社会統合とシステム統合と分ける。これ自身はロックウッドが言い始めたことだが、ハバーマスが自分なりに再構成して、オッフェもこの議論の枠組みに乗っかる。(実は3人とも違った意味で用いているということに関しては、丸山正次の論文を参照のこと。今、読み返す余裕が私にないので、省略。)社会統合というのは、階級闘争やら搾取やらという、人々の行為に関わる領域で、システム統合というのはシステム論からみてコンフリクトや統合がどのように果たされているかという議論。
・で、システム統合からいうと、オッフェは3つのサブシステムから社会の分析を行う。つまり、経済システム―政治・行政システム−正当化システムである。
経済システム⇔政治・行政システム:徴税⇔経済的諸規制
政治・行政システム⇔正当化システム:行政サービス⇔大衆忠誠
という仕組みになっている(、とシステム論から見るといえる)。
これは、そもそもの目論見としては、資本主義の崩壊論を批判するため。資本蓄積が不断に要求されるのならば、商品化領域の拡大もまた不断に要求されなければならないが、そうなってはいない。それは、脱商品化された領域が作られているからであり、当該の人々に行政サービスが行われることで、大衆忠誠が得られているからだ、という議論。(だから、システム間の合理性を意味するシステム合理性と、行政サービス内部での合理性を意味する行政合理性は、分けて理解しないといけない。これに関しては、山下治和の論文がかなり詳しい。)このことから、資本主義国家は、オッフェによれば、資本主義にのみ機械的に従属するのではなく、国家の自律性を有しているということになる。
・で社会統合に関しては、上記の話とやや入り組んだ関係になっているのだが、その脱商品化された人たちが、今やコンフリクトの主体となっている、という話になる。つまり、オッフェは出自としてはマルクス主義なのだが、既存の階級闘争の概念では社会統合を分析できないと考えており、別様の視点を導入しようとする。というのは、現在では@労働者階級は16歳以上の人口の半分しかおらず、工場労働者となるともっと少なくなる。あとはA主婦・学生・高齢者・軍人などであって、彼らは働いておらず、Bさらにはサラリーマンおよび官僚もその二つとは別のカテゴリーにならなくてはならない、という議論へとつながる。
どういうことだろうか。既存のマルクス主義にあっては、価値を生産するのは、労働者であった。賃労働―資本は、労働力と貨幣を交換し、労働者が労働することで価値が生産され、労働力の価値以上の価値が生産されることで剰余価値になるのであった。そしてそれが利潤となり、それが資本家に帰属して、次の投資に回されたり、法人税やら社会保険やらという形で徴税されたり、資本家の懐に入ったりするというわけだ。
これは、原理的に言って間違ってはないのだが、一方で学生やら高齢者やらが国家に対して反乱をおこさないためには、彼らに対して行政サービスを充実させなくてはならず、これらの計画や運営には官僚が必要となり、またその領域は増大していく。他方で、生産された価値も、その実現のためには営業やら事務などが必要になり、そのためには自分は価値を生産しないが、それを管理する労働者が必要になってくる。こういうわけで、@剰余価値を生産する労働者と、B剰余価値を管理したり、税として徴集したうえで分配するホワイトカラーと、Aそれらを商品やらサービスやらという形で享受する社会集団、というくくりが出てくる。
・でオッフェ自身は、上記の繰り返しになるが、賃労働―資本という階級対立に基づいたコンフリクトではなくて、むしろ脱商品化された領域にある人々(上記のA)が、国家に対して反乱を起こすコンフリクトの主体になっている、という議論をしたいらしい。
自分の理解がどこまであってんのかわかんない。そしてオッフェがマルクスの概念を、意図的にだか分かってなくてだかよく分かんないけど、マルクスの用いている意味とは違う意味で用いているようなところもあって(使用価値、具体的労働――マルクスは具体的労働って言ってたっけ?具体的有用労働とはたぶん違う意味で使っている気がするが…――、など、いまいち厳密に理解しようとすると「?」となる部分は少なからずある。)、
分からないところは依然として消えない。
でもまあ、私のオツムで分かるのは、こんなところでしょうかねえ。
ランボー、最後の戦場。
オッフェの文献の中で、日本語になっているものの中では、おそらく最重要文献の一つ。
なんでかっちゅうと、オッフェ論というくくりというよりは、初期オッフェ(だいたい68年〜80年くらいまで)におけるコンフリクトやら制御やらが最も展開されている(ように思われる)からである。これと、「危機管理の危機」論文が訳されていれば、かなり話は見えてくるような気がするのだが…そういうわけで、読み直し。
でまあ、細かいこと言い始めたらキリがないんだが、おおよそ以下の内容かと。
・社会の観察を、社会統合とシステム統合と分ける。これ自身はロックウッドが言い始めたことだが、ハバーマスが自分なりに再構成して、オッフェもこの議論の枠組みに乗っかる。(実は3人とも違った意味で用いているということに関しては、丸山正次の論文を参照のこと。今、読み返す余裕が私にないので、省略。)社会統合というのは、階級闘争やら搾取やらという、人々の行為に関わる領域で、システム統合というのはシステム論からみてコンフリクトや統合がどのように果たされているかという議論。
・で、システム統合からいうと、オッフェは3つのサブシステムから社会の分析を行う。つまり、経済システム―政治・行政システム−正当化システムである。
経済システム⇔政治・行政システム:徴税⇔経済的諸規制
政治・行政システム⇔正当化システム:行政サービス⇔大衆忠誠
という仕組みになっている(、とシステム論から見るといえる)。
これは、そもそもの目論見としては、資本主義の崩壊論を批判するため。資本蓄積が不断に要求されるのならば、商品化領域の拡大もまた不断に要求されなければならないが、そうなってはいない。それは、脱商品化された領域が作られているからであり、当該の人々に行政サービスが行われることで、大衆忠誠が得られているからだ、という議論。(だから、システム間の合理性を意味するシステム合理性と、行政サービス内部での合理性を意味する行政合理性は、分けて理解しないといけない。これに関しては、山下治和の論文がかなり詳しい。)このことから、資本主義国家は、オッフェによれば、資本主義にのみ機械的に従属するのではなく、国家の自律性を有しているということになる。
・で社会統合に関しては、上記の話とやや入り組んだ関係になっているのだが、その脱商品化された人たちが、今やコンフリクトの主体となっている、という話になる。つまり、オッフェは出自としてはマルクス主義なのだが、既存の階級闘争の概念では社会統合を分析できないと考えており、別様の視点を導入しようとする。というのは、現在では@労働者階級は16歳以上の人口の半分しかおらず、工場労働者となるともっと少なくなる。あとはA主婦・学生・高齢者・軍人などであって、彼らは働いておらず、Bさらにはサラリーマンおよび官僚もその二つとは別のカテゴリーにならなくてはならない、という議論へとつながる。
どういうことだろうか。既存のマルクス主義にあっては、価値を生産するのは、労働者であった。賃労働―資本は、労働力と貨幣を交換し、労働者が労働することで価値が生産され、労働力の価値以上の価値が生産されることで剰余価値になるのであった。そしてそれが利潤となり、それが資本家に帰属して、次の投資に回されたり、法人税やら社会保険やらという形で徴税されたり、資本家の懐に入ったりするというわけだ。
これは、原理的に言って間違ってはないのだが、一方で学生やら高齢者やらが国家に対して反乱をおこさないためには、彼らに対して行政サービスを充実させなくてはならず、これらの計画や運営には官僚が必要となり、またその領域は増大していく。他方で、生産された価値も、その実現のためには営業やら事務などが必要になり、そのためには自分は価値を生産しないが、それを管理する労働者が必要になってくる。こういうわけで、@剰余価値を生産する労働者と、B剰余価値を管理したり、税として徴集したうえで分配するホワイトカラーと、Aそれらを商品やらサービスやらという形で享受する社会集団、というくくりが出てくる。
・でオッフェ自身は、上記の繰り返しになるが、賃労働―資本という階級対立に基づいたコンフリクトではなくて、むしろ脱商品化された領域にある人々(上記のA)が、国家に対して反乱を起こすコンフリクトの主体になっている、という議論をしたいらしい。
自分の理解がどこまであってんのかわかんない。そしてオッフェがマルクスの概念を、意図的にだか分かってなくてだかよく分かんないけど、マルクスの用いている意味とは違う意味で用いているようなところもあって(使用価値、具体的労働――マルクスは具体的労働って言ってたっけ?具体的有用労働とはたぶん違う意味で使っている気がするが…――、など、いまいち厳密に理解しようとすると「?」となる部分は少なからずある。)、
分からないところは依然として消えない。
でもまあ、私のオツムで分かるのは、こんなところでしょうかねえ。
ランボー、最後の戦場。
ぺぺぺぺぺろんちーの
宮本太郎,2009,『生活保障――排除しない社会へ』岩波書店.
宮本さん2冊目。
1回目読んだとき。
http://liberation.paslog.jp/article/1503241.html
2回目読んだとき。
http://liberation.paslog.jp/article/2119442.html
中身があることは、書かない。おいおい、「書けない」だろう、別にそう思っていただいてけっこうでござる。
規範的な議論だが、優等生過ぎて納得できない。もう、ツルツルしすぎちゃって。わけあって読んだが、もちろん勉強にはなるのだが、これをどうこう言う気になれない。だから、以下、内容にあまり関係なさそうな、個人的に思うことを書いておく。結局いつもそうじゃないか、ということなわけだが、そうじゃない。
おそらく私のこの違和感は、一つには、私が質的に成長していないということであろう。太郎さんの仕事は、ことあるごとにちょこちょこ読んできたし、たぶんこれからも読むし、私なんかがどう言おうと、私なんかより立派な他の方々からも高い評価を受けているものばかりだ。今の時点でそうなのだから、おそらく今後も高い評価を受けていくことだろう。そして私は、曲がりなりにも(俺まがってた?)、太郎さんの本を読む目的意識もあったし、数年前まで読まなかったような、ルーマンとかヘーゲルとか、色々読んでみたわけさ。しかし、この読後の感想の「なさ」はなんなのか。私が、知的に成長していないことの証左ではないのか。いったい私は、この2年間ほどなにをしていたのか。私が直江兼続だったら言っていただろう、「わしはこんなところ、来とうなかった」と。
そして一つに、現実はそんなに合理的になり立ってはいないだろう、ということだ。消費税ひとつとっても、賛成反対はこの際おいといて、なぜこんなにゴタゴタするのか。いやそれは、宮本さん一人に帰せられる問題では全くない。ウェーバー以来、政策科学としての社会科学がやることといえば、ひとつの政策を体系的に論理だててやることであって、神々の争いを調停することではない。宮本さんは、それこそ右から左から、生活保障システムの構築のために、言われればどこへでも出かけている。その点、宮本さんが意識するように、学問がすべきことは学問がすべきこととして、誠実な態度であろう。
しかし、このような規範的な議論をもってしても、「無知な大衆」がよくないんだか、それを煽る輩が悪いんだか、なにが悪いんだかよくわかんないけど、今もって生活保障のシステムが構築されているとはいいがたい。むしろ、ポピュリズムがポピュリズムによって否定される形で、いっそうその対立と調停を扇動する人々によって、社会のありうべき「安定」からは遠ざかっているように思えてならない。
私たちはなにをなすべきか?この点に徹底してこだわらなければならないであろう。
ひとつは、自分がやるべきことをやること。最終的には、もし社会を「改良」したいと思うならば、運動なり社会事業なりボランティアをやるしかない。この点は、個々人が自由にやってくれとしかいいようがない。しかし、何もやってないくせして「国がまったくなにもやらなくてよう」とか、なにかしらの努力をしている人たちに「そんなことやったって意味がない」とか言うことだけは、私はしたくない。(だからなるべく、私は……あっ、)
ひとつは、軸を設定することだ。これに関しては、客観的に社会がどうなってるのかというのをふまえつつも、それを戦略に基づいて改めて構成するという作業が必要だ。私がいつもチェックしているサイトのひとつで、いわゆる「トンデモ」な言説として、「働いている人だけに選挙権を与えよ」とか、「高齢者が若者を搾取している」といったような――その価値判断は個人にまかせるにしても――、用語も認識も、近代的に妥当だとは思われないような言説であっても、高齢者―若者やら、働く人―働かない人といった、ある意味での単純化された図式の下で、議論されたうえで支持されて(しまって)いるものだ。
そうであるならば、私たちもまた、軸を設定することからはじめなければならない。誰が敵であり、誰が味方なのか。実際には、その設定された軸は不断に転換を遂げ、ときとして実は敵―味方という軸こそが共犯関係を構成することすらある。複雑な社会である。これをなんとかして、普遍的な問題設定へとつなげていかなければならない。
その軸の設定にも関することで、普遍性ってなんだい、あるいは大衆性ってなんだいっちゅう話。ダイノジの大谷さんやらマツコが言ってたことの受け売りだが、おもしろかったので、自分なりに再構成して書いておく。AKBにしろKPOPにしろレディーガガにしろ、あるいは往年のアイドルといわれる松田聖子とか中森明菜とかが、なぜ人気になったか。電通のゴリ推しだとか、韓国資本の国際展開だとか、色々言われている。それらはおそらく、間違ってはない。しかし、ひとつのキーは、同性愛者からの支持である。
同性愛者というと、自分の性的志向(男性が好きか、女性が好きか、など)と自身のセクシュアリティ(自分は男だと思っている、女だと思っている)が重ならない場合があるので不正確な表現なのだが、いわゆる二丁目にあるオカマバーの類では、出しものとして女性アイドルの歌や踊りが好まれる。彼らは、自身の美意識・行動様式に基づいて、それらを愛するし、評価するし、彼らのコミュニティそれ自身も強固である。それをつかむこと。彼らの支持があることで、彼らからも評価されるばかりでなく、そこを支持する人からも評価を受けることになる。そして、キャバクラやスナックの類まで含めれば、全国的にそれこそ普遍的に、若い女性やら同性愛者のひとたちやらが出しものをする場所なんて存在する。
同性愛者というとマイノリティかもしれないが、彼らからの信頼があることによって、人気を下支えし、継続させ、そしてそれらも相まって大衆性を帯びるのだ。これは情報の受け手としての視点からの議論になるが、レディーガガなど情報を発信する人の振る舞いを見ていれば、誰に何を伝えようとしているかを、ときにエグいまでに、私たちに見せつけてくることもまた理解できるだろう。
オードリー若林が、ズレ漫才で人気が出たとき、高校の同級生で今音楽ライターをやっている人が、「お前らは、大衆に寝返った」と若林に言った、とラジオで語っていた。むしろその前は、シュールなコントをやったり、きっちりした漫才をやろうとした、らしい。そして売れなかった。ズレ漫才を始めて、「それはいばらの道だよ」と、それまでのスタイルを評価してくれた人の中には、危惧する人もいたという。そして実際、他のコンビは漫才がはじまると「はいどうも〜」と元気に出てくるのに、ニヤニヤしながら、ゆっくり歩いてきて、いったいなんなんだこいつらは、という感想も少なくなかったようだ。既存のスタイルというのは、それはある意味で、誰もが目指すところかもしれない。しかしそれで、普遍性を帯びるのだろうか。
しかし、舞台上での「春日」という、バックトゥーザフューチャー(ピンクのベスト)とシャイニンング(ニターとしながら「ヘッ」という声と決め顔)と素の春日俊彰(自信家だがテレ屋さんで熟女好き)を混ぜ合わせて作られた「ズレ」漫才――この「ズレ」こそが大衆性のキーであろう。当たり前のことを当たり前にやって評価されるのは、実際にはそんなに多くないのかもしれない――で彼らの才能は爆発し、若林もまた自身の感性を徐々に解放させ、オードリーを本当に作り上げたのは、この、人嫌いで、悪口ばかり言ってて、岡本太郎が好きで、白いコートが似合う黒髪の女の子が好きな、若林正恭だと気付かせたのである。彼らは、どこかズレを示す。しかしそのズレが、どこかで重なり合って、大衆性を帯びたはずなのだ。そしてそれを、なにかほかのもの――自分がこう社会があってほしいというビジョンみたいなもの――に、あてはめて考えてみる必要がある。
行き先を決めないで歩きだしたため、迷子になった。地図を持たないからこうなった。なぜ生活保障の話をしようと思ってたのに、若林のちんこがでかいっていう話で終わったのだろうか?まあいいや。
毒を持たなくては。毒のある言葉、毒のある視点、とにもかくにも毒を、自分のなかに。
以下、以上も宮本さんには全然関係なかったけど、関係ないメモ。
こまめにチェックしてないから、労働運動の動向が全然分かんないなあ。オキュパイ・ウォールストリートの動画。
http://www.youtube.com/watch?v=INtHFqv5Y7M&feature=youtu.be
あと、全くどうでもいいんだが、浅香光代がAKBに怒るというのは、「そういうこと」であって、それが記事になることが意味あるんだろうなあ、となんとなく思う。「三つ指立てて出直してきな…」って、「三つ指立ててなんて、そんな人がいるかよ」って『寅さん』でおいちゃん・おばちゃんすら言ってましたけどね。まあ「そういうこと」。
昨日の読売新聞で、森善朗っていうラグビーしてるときに脳みそが落ちちゃった(実際、早稲田のラグビー部に入ったけど、練習がキツくてすぐやめたらしい。ゴルフ部に入ったのかな?)人が、「僕も、総理のときは言葉尻をとらえられて大変だったなあ」、「谷垣さんは、若手の意見ばっかり聞いて僕たちのことを信用してくれないから、中堅や先輩の議員さんのモチベーションが落ちちゃうんだよなあ」、「命がけで政治をやってくれたまえよ、野田くん」と、おおよそそんなこと言ってた。「そういうこと」なんですなあ。
伊波さん、負けちゃいましたね。
宮本さん2冊目。
1回目読んだとき。
http://liberation.paslog.jp/article/1503241.html
2回目読んだとき。
http://liberation.paslog.jp/article/2119442.html
中身があることは、書かない。おいおい、「書けない」だろう、別にそう思っていただいてけっこうでござる。
規範的な議論だが、優等生過ぎて納得できない。もう、ツルツルしすぎちゃって。わけあって読んだが、もちろん勉強にはなるのだが、これをどうこう言う気になれない。だから、以下、内容にあまり関係なさそうな、個人的に思うことを書いておく。結局いつもそうじゃないか、ということなわけだが、そうじゃない。
おそらく私のこの違和感は、一つには、私が質的に成長していないということであろう。太郎さんの仕事は、ことあるごとにちょこちょこ読んできたし、たぶんこれからも読むし、私なんかがどう言おうと、私なんかより立派な他の方々からも高い評価を受けているものばかりだ。今の時点でそうなのだから、おそらく今後も高い評価を受けていくことだろう。そして私は、曲がりなりにも(俺まがってた?)、太郎さんの本を読む目的意識もあったし、数年前まで読まなかったような、ルーマンとかヘーゲルとか、色々読んでみたわけさ。しかし、この読後の感想の「なさ」はなんなのか。私が、知的に成長していないことの証左ではないのか。いったい私は、この2年間ほどなにをしていたのか。私が直江兼続だったら言っていただろう、「わしはこんなところ、来とうなかった」と。
そして一つに、現実はそんなに合理的になり立ってはいないだろう、ということだ。消費税ひとつとっても、賛成反対はこの際おいといて、なぜこんなにゴタゴタするのか。いやそれは、宮本さん一人に帰せられる問題では全くない。ウェーバー以来、政策科学としての社会科学がやることといえば、ひとつの政策を体系的に論理だててやることであって、神々の争いを調停することではない。宮本さんは、それこそ右から左から、生活保障システムの構築のために、言われればどこへでも出かけている。その点、宮本さんが意識するように、学問がすべきことは学問がすべきこととして、誠実な態度であろう。
しかし、このような規範的な議論をもってしても、「無知な大衆」がよくないんだか、それを煽る輩が悪いんだか、なにが悪いんだかよくわかんないけど、今もって生活保障のシステムが構築されているとはいいがたい。むしろ、ポピュリズムがポピュリズムによって否定される形で、いっそうその対立と調停を扇動する人々によって、社会のありうべき「安定」からは遠ざかっているように思えてならない。
私たちはなにをなすべきか?この点に徹底してこだわらなければならないであろう。
ひとつは、自分がやるべきことをやること。最終的には、もし社会を「改良」したいと思うならば、運動なり社会事業なりボランティアをやるしかない。この点は、個々人が自由にやってくれとしかいいようがない。しかし、何もやってないくせして「国がまったくなにもやらなくてよう」とか、なにかしらの努力をしている人たちに「そんなことやったって意味がない」とか言うことだけは、私はしたくない。(だからなるべく、私は……あっ、)
ひとつは、軸を設定することだ。これに関しては、客観的に社会がどうなってるのかというのをふまえつつも、それを戦略に基づいて改めて構成するという作業が必要だ。私がいつもチェックしているサイトのひとつで、いわゆる「トンデモ」な言説として、「働いている人だけに選挙権を与えよ」とか、「高齢者が若者を搾取している」といったような――その価値判断は個人にまかせるにしても――、用語も認識も、近代的に妥当だとは思われないような言説であっても、高齢者―若者やら、働く人―働かない人といった、ある意味での単純化された図式の下で、議論されたうえで支持されて(しまって)いるものだ。
そうであるならば、私たちもまた、軸を設定することからはじめなければならない。誰が敵であり、誰が味方なのか。実際には、その設定された軸は不断に転換を遂げ、ときとして実は敵―味方という軸こそが共犯関係を構成することすらある。複雑な社会である。これをなんとかして、普遍的な問題設定へとつなげていかなければならない。
その軸の設定にも関することで、普遍性ってなんだい、あるいは大衆性ってなんだいっちゅう話。ダイノジの大谷さんやらマツコが言ってたことの受け売りだが、おもしろかったので、自分なりに再構成して書いておく。AKBにしろKPOPにしろレディーガガにしろ、あるいは往年のアイドルといわれる松田聖子とか中森明菜とかが、なぜ人気になったか。電通のゴリ推しだとか、韓国資本の国際展開だとか、色々言われている。それらはおそらく、間違ってはない。しかし、ひとつのキーは、同性愛者からの支持である。
同性愛者というと、自分の性的志向(男性が好きか、女性が好きか、など)と自身のセクシュアリティ(自分は男だと思っている、女だと思っている)が重ならない場合があるので不正確な表現なのだが、いわゆる二丁目にあるオカマバーの類では、出しものとして女性アイドルの歌や踊りが好まれる。彼らは、自身の美意識・行動様式に基づいて、それらを愛するし、評価するし、彼らのコミュニティそれ自身も強固である。それをつかむこと。彼らの支持があることで、彼らからも評価されるばかりでなく、そこを支持する人からも評価を受けることになる。そして、キャバクラやスナックの類まで含めれば、全国的にそれこそ普遍的に、若い女性やら同性愛者のひとたちやらが出しものをする場所なんて存在する。
同性愛者というとマイノリティかもしれないが、彼らからの信頼があることによって、人気を下支えし、継続させ、そしてそれらも相まって大衆性を帯びるのだ。これは情報の受け手としての視点からの議論になるが、レディーガガなど情報を発信する人の振る舞いを見ていれば、誰に何を伝えようとしているかを、ときにエグいまでに、私たちに見せつけてくることもまた理解できるだろう。
オードリー若林が、ズレ漫才で人気が出たとき、高校の同級生で今音楽ライターをやっている人が、「お前らは、大衆に寝返った」と若林に言った、とラジオで語っていた。むしろその前は、シュールなコントをやったり、きっちりした漫才をやろうとした、らしい。そして売れなかった。ズレ漫才を始めて、「それはいばらの道だよ」と、それまでのスタイルを評価してくれた人の中には、危惧する人もいたという。そして実際、他のコンビは漫才がはじまると「はいどうも〜」と元気に出てくるのに、ニヤニヤしながら、ゆっくり歩いてきて、いったいなんなんだこいつらは、という感想も少なくなかったようだ。既存のスタイルというのは、それはある意味で、誰もが目指すところかもしれない。しかしそれで、普遍性を帯びるのだろうか。
しかし、舞台上での「春日」という、バックトゥーザフューチャー(ピンクのベスト)とシャイニンング(ニターとしながら「ヘッ」という声と決め顔)と素の春日俊彰(自信家だがテレ屋さんで熟女好き)を混ぜ合わせて作られた「ズレ」漫才――この「ズレ」こそが大衆性のキーであろう。当たり前のことを当たり前にやって評価されるのは、実際にはそんなに多くないのかもしれない――で彼らの才能は爆発し、若林もまた自身の感性を徐々に解放させ、オードリーを本当に作り上げたのは、この、人嫌いで、悪口ばかり言ってて、岡本太郎が好きで、白いコートが似合う黒髪の女の子が好きな、若林正恭だと気付かせたのである。彼らは、どこかズレを示す。しかしそのズレが、どこかで重なり合って、大衆性を帯びたはずなのだ。そしてそれを、なにかほかのもの――自分がこう社会があってほしいというビジョンみたいなもの――に、あてはめて考えてみる必要がある。
行き先を決めないで歩きだしたため、迷子になった。地図を持たないからこうなった。なぜ生活保障の話をしようと思ってたのに、若林のちんこがでかいっていう話で終わったのだろうか?まあいいや。
毒を持たなくては。毒のある言葉、毒のある視点、とにもかくにも毒を、自分のなかに。
以下、以上も宮本さんには全然関係なかったけど、関係ないメモ。
こまめにチェックしてないから、労働運動の動向が全然分かんないなあ。オキュパイ・ウォールストリートの動画。
http://www.youtube.com/watch?v=INtHFqv5Y7M&feature=youtu.be
あと、全くどうでもいいんだが、浅香光代がAKBに怒るというのは、「そういうこと」であって、それが記事になることが意味あるんだろうなあ、となんとなく思う。「三つ指立てて出直してきな…」って、「三つ指立ててなんて、そんな人がいるかよ」って『寅さん』でおいちゃん・おばちゃんすら言ってましたけどね。まあ「そういうこと」。
昨日の読売新聞で、森善朗っていうラグビーしてるときに脳みそが落ちちゃった(実際、早稲田のラグビー部に入ったけど、練習がキツくてすぐやめたらしい。ゴルフ部に入ったのかな?)人が、「僕も、総理のときは言葉尻をとらえられて大変だったなあ」、「谷垣さんは、若手の意見ばっかり聞いて僕たちのことを信用してくれないから、中堅や先輩の議員さんのモチベーションが落ちちゃうんだよなあ」、「命がけで政治をやってくれたまえよ、野田くん」と、おおよそそんなこと言ってた。「そういうこと」なんですなあ。
伊波さん、負けちゃいましたね。
2012年02月12日
ジョージ・ポットマンの平成史「女装史」120212
ジョージ・ポットマンの平成史「女装史」
http://www.tv-tokyo.co.jp/official/heiseishi/
目黒のライブハウス、「鹿鳴館」にてイザム登場。ヴィジュアル系を切り口に、女装をテーマにすることを示す。イザムはノンケで、同性愛者ではないが、女装を(仕事で)しているとのこと。シャズナに関しては、ファンが男女半々らしい。
んで、コスプレ居酒屋が紹介される。ノンケだが、バイトでは女装している男性たちが紹介される。(ひとり、私のツボな「男の娘」がいた。あんなかわいい男の人がいるんだなあ。)写真集やDVDもちょっと売れているらしい。やっくん、金田なども紹介。テレビ番組の企画でも、女装企画が増えているとのこと。三橋順子(この人、伊藤悟さんと一緒に同性愛者の人たちの講演会に出てた人だ)が、女装はかつて同性愛者がするものだと思われていたが、今ではノンケの人もするようになったとのこと。
三橋さんによると、江戸時代以前は、女装大好き民族だったらしい。信長、家光、義経なども女装癖があったらしい。ヤマトタケルも女装して、クマソに立ち向かったらしい。女だと見せかけて、ベッドインして暗殺したらしい。このように、女装コスプレは神聖なものだという認識があったようだ。
鎌倉時代の資料でも、闘鶏を見物する人の絵画にも、和歌集にも女装姿が出てくる。現在でも、真蔵院のお祭り(江戸川区)、お札まき(横浜市)などでも女装をするらしい。中国でもそういう言い伝えみたいなのがあるとのこと。女装が、いつもの衣服・行動様式とは違うために、神に近付くと考えられた?
江戸時代の絵画にも、男が美人画(今でいうアイドル写真集)に、女装して登場していた。女形をマネする女性もいて、女装した男性がファッションリーダーの地位を占めることもあったという。
転換点は、開国であった。
男性が女装するのは、醜態であるという主張がなされ、実際に罰金がなされた。キリスト教文明では、女装が否定的な評価がなされていたため、近代化になぞらえて女装も禁じた、というわけである。
歌舞伎の人が許されるのは一般人が許されないのはずるい、として再び女装が合法化されるのだが、むしろ新聞などで「女装の賊」として女装家が女性服の窃盗をして逮捕される事件が起きた。女装禁止令が撤廃された後も、女装は犯罪であるという世間での認識があったので、女装をしようとした男性が女性服を買えなくなって、窃盗に走ってしまったという。戦中には、敵を油断させるための女装艦隊もあったという。
戦後、おそらく本人たちがそのようなセクシュアリティを持つがゆえに三輪明宏やらの女装をする場合や、青島などの明らかにおふざけとわかる場合のどちらかだったが、今は違っている。
平成に入ってからの女装への肯定感の背景は、ネットなどによる購買方法の簡易化と、女性からの支持である。これは、85年の雇均法(男女雇用機会均等法)などに押し出される形で、女性の社会進出によって、(同性である)女性に対する競争意識が生じる。そこにおいては、競争相手の女性をほめにくくなる。しかし、可愛くてスタイルもよくて…という、「美しい女装をする男性」を評価することで、その競争意識を緩和させているのではないか、というオチ。
*1ちなみに、女性の中で労働者になっている人の割合が増えていることと、女装する芸能人が増えているというデータを並べて、「女性が社会進出したこと」と「女装する人が人気」に相関関係を示すことにはりませんので、念のため。
*2雇均法は…まあいっか。
これって誰がアイデア出ししてるんだろう…?
結論(歴史的にはむしろ…な展開→近代化によって価値観が転換→「平成」にはいって価値観が再び動揺。ちゃんちゃん)やらストーリーはいささか陳腐だったり当事者を小馬鹿にしているようなところはあるものの、それなりに枠組みを作るには知識がないとなあ、という感じがする。
三橋順子さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%A9%8B%E9%A0%86%E5%AD%90
もし時間があれば、こちらも。セクシュアリティの議論は、難しい。
http://www.youtube.com/watch?v=gLKNS4UFbHo
http://www.tv-tokyo.co.jp/official/heiseishi/
目黒のライブハウス、「鹿鳴館」にてイザム登場。ヴィジュアル系を切り口に、女装をテーマにすることを示す。イザムはノンケで、同性愛者ではないが、女装を(仕事で)しているとのこと。シャズナに関しては、ファンが男女半々らしい。
んで、コスプレ居酒屋が紹介される。ノンケだが、バイトでは女装している男性たちが紹介される。(ひとり、私のツボな「男の娘」がいた。あんなかわいい男の人がいるんだなあ。)写真集やDVDもちょっと売れているらしい。やっくん、金田なども紹介。テレビ番組の企画でも、女装企画が増えているとのこと。三橋順子(この人、伊藤悟さんと一緒に同性愛者の人たちの講演会に出てた人だ)が、女装はかつて同性愛者がするものだと思われていたが、今ではノンケの人もするようになったとのこと。
三橋さんによると、江戸時代以前は、女装大好き民族だったらしい。信長、家光、義経なども女装癖があったらしい。ヤマトタケルも女装して、クマソに立ち向かったらしい。女だと見せかけて、ベッドインして暗殺したらしい。このように、女装コスプレは神聖なものだという認識があったようだ。
鎌倉時代の資料でも、闘鶏を見物する人の絵画にも、和歌集にも女装姿が出てくる。現在でも、真蔵院のお祭り(江戸川区)、お札まき(横浜市)などでも女装をするらしい。中国でもそういう言い伝えみたいなのがあるとのこと。女装が、いつもの衣服・行動様式とは違うために、神に近付くと考えられた?
江戸時代の絵画にも、男が美人画(今でいうアイドル写真集)に、女装して登場していた。女形をマネする女性もいて、女装した男性がファッションリーダーの地位を占めることもあったという。
転換点は、開国であった。
男性が女装するのは、醜態であるという主張がなされ、実際に罰金がなされた。キリスト教文明では、女装が否定的な評価がなされていたため、近代化になぞらえて女装も禁じた、というわけである。
歌舞伎の人が許されるのは一般人が許されないのはずるい、として再び女装が合法化されるのだが、むしろ新聞などで「女装の賊」として女装家が女性服の窃盗をして逮捕される事件が起きた。女装禁止令が撤廃された後も、女装は犯罪であるという世間での認識があったので、女装をしようとした男性が女性服を買えなくなって、窃盗に走ってしまったという。戦中には、敵を油断させるための女装艦隊もあったという。
戦後、おそらく本人たちがそのようなセクシュアリティを持つがゆえに三輪明宏やらの女装をする場合や、青島などの明らかにおふざけとわかる場合のどちらかだったが、今は違っている。
平成に入ってからの女装への肯定感の背景は、ネットなどによる購買方法の簡易化と、女性からの支持である。これは、85年の雇均法(男女雇用機会均等法)などに押し出される形で、女性の社会進出によって、(同性である)女性に対する競争意識が生じる。そこにおいては、競争相手の女性をほめにくくなる。しかし、可愛くてスタイルもよくて…という、「美しい女装をする男性」を評価することで、その競争意識を緩和させているのではないか、というオチ。
*1ちなみに、女性の中で労働者になっている人の割合が増えていることと、女装する芸能人が増えているというデータを並べて、「女性が社会進出したこと」と「女装する人が人気」に相関関係を示すことにはりませんので、念のため。
*2雇均法は…まあいっか。
これって誰がアイデア出ししてるんだろう…?
結論(歴史的にはむしろ…な展開→近代化によって価値観が転換→「平成」にはいって価値観が再び動揺。ちゃんちゃん)やらストーリーはいささか陳腐だったり当事者を小馬鹿にしているようなところはあるものの、それなりに枠組みを作るには知識がないとなあ、という感じがする。
三橋順子さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%A9%8B%E9%A0%86%E5%AD%90
もし時間があれば、こちらも。セクシュアリティの議論は、難しい。
http://www.youtube.com/watch?v=gLKNS4UFbHo
長谷川公一「資源動員論と「新しい社会運動」論」.ほか
長谷川公一,1990,「資源動員論と「新しい社会運動」論」社会運動論研究会『社会運動論の統合をめざして』成文堂.
伊藤るり,1993,「〈新しい社会運動〉論の諸相と運動の現在」山之内靖ほか編『岩波講座社会科学の方法8システムと生活世界』岩波書店121-158.
矢沢修次郎,2004,「新しい社会運動」古城利明・矢沢修次郎編『現代社会論』有斐閣.
そういうわけで、新しい社会運動論の論文。
以前に読んだもの。(以前読んだ記事を張るようにしたものの、ほとんど誰も見てないw)
長谷川さん
http://liberation.paslog.jp/article/2305065.html
伊藤さん
http://liberation.paslog.jp/article/2305620.html
矢澤さん
http://liberation.paslog.jp/article/2326587.html
長谷川さん
・整理としてはいいんですよ。非常に明快だし、当時の最前線をまとめているし。でも、統合ってどうなのよ。おそらく、社会運動の観察という観点から見たら生産的だろう。それは否定しないし、よくまとまっているなあ、と思う。でも私にはどうも違和感があるから、それ以上はなんも言えねえ。
・市民社会論を、改めてきっちり学ばないと。80年代だと、ハバーマス、コーエン&アラートあたりなんだろうなあ。ポストブルジョア社会。ブルガリヒゲゼルシャフトからチビルゲゼルシャフト。
伊藤さん
・当たり前すぎるが、各論者の本を読んでからじゃないと、わかんない。
・そして、「その時代」の目的意識が、たぶん違うんだろうなあ。社会学の教科書でも、今集合(的)行為論とか書いてなかった気がする。新しい社会運動やら資源動員論は、そもそもが集合行為のひとつの現れだから、その行為をもっと精緻化していったというふうに考えてよいのだろうか。
・メルッチが、ポストモダン「的」な雰囲気はあるのかもしれないけど、だからといってポストモダンかっていえばそうじゃない気がするんだよなあ。うーむ。
・運動の停滞が70年代後半にあったというのは、ここだけ見ても、別に停滞かなあ、という印象。この指摘が大切なのかどうか、わからない。
・で、80年代からは、若者の失業問題とかを例にして社会的排除という言葉が使われているが、(たしか、岩田正美さんの指摘によると、フランスでの社会的排除はフランス固有の呼び方があった気がするけど、忘れちゃった)このときすでに「社会的排除」って言ってたのだろうか…これはちょっと大切な気がする。
矢澤さん
オッフェがいいたいことは、意外とルーマンに似ているのだろうか。オッフェに限らないのかもしれないが…なんとなく分かりそうで、よくわからん。市民社会―国家というのが分かれていながらも、ブルジョア社会にあってはその分離が不明確であった。しかし、市場を(経済的)市民社会とし、国家を政治的市民社会とするなら、その分離は大衆社会の成立では(形式的には)明らかなものになる。後期資本主義にあっては、市民社会―国家という区分ではさらに捉えきれない事象が生じるので、経済的市民社会、政治的市民社会、社会的市民社会という分離が出てくる?
システム―生活世界という対置を、物象化された社会(貨幣、官僚制度)−新しい社会運動という対置にトレースさせて、生活世界の防衛=市民社会の防衛を主張しているとしたら、社会的市民社会―経済的・政治的市民社会という図になるということか…?
うーむ。
[読書メモ]
・誰か、お願いだから、social researchの85年の新しい社会運動の特集を訳してほしい。メルッチ、オッフェ、トゥレーヌ、そして編集者のコーエンも記事を寄せてて、これは同じく85年にでた『思想』の社会運動特集に匹敵するほどに重要かと。
→読んでみますか…?しかしなあ。
なぜだかとっても眠いでござる。
あかん、ジョージポットマンがはじまってしまう…
伊藤るり,1993,「〈新しい社会運動〉論の諸相と運動の現在」山之内靖ほか編『岩波講座社会科学の方法8システムと生活世界』岩波書店121-158.
矢沢修次郎,2004,「新しい社会運動」古城利明・矢沢修次郎編『現代社会論』有斐閣.
そういうわけで、新しい社会運動論の論文。
以前に読んだもの。(以前読んだ記事を張るようにしたものの、ほとんど誰も見てないw)
長谷川さん
http://liberation.paslog.jp/article/2305065.html
伊藤さん
http://liberation.paslog.jp/article/2305620.html
矢澤さん
http://liberation.paslog.jp/article/2326587.html
長谷川さん
・整理としてはいいんですよ。非常に明快だし、当時の最前線をまとめているし。でも、統合ってどうなのよ。おそらく、社会運動の観察という観点から見たら生産的だろう。それは否定しないし、よくまとまっているなあ、と思う。でも私にはどうも違和感があるから、それ以上はなんも言えねえ。
・市民社会論を、改めてきっちり学ばないと。80年代だと、ハバーマス、コーエン&アラートあたりなんだろうなあ。ポストブルジョア社会。ブルガリヒゲゼルシャフトからチビルゲゼルシャフト。
伊藤さん
・当たり前すぎるが、各論者の本を読んでからじゃないと、わかんない。
・そして、「その時代」の目的意識が、たぶん違うんだろうなあ。社会学の教科書でも、今集合(的)行為論とか書いてなかった気がする。新しい社会運動やら資源動員論は、そもそもが集合行為のひとつの現れだから、その行為をもっと精緻化していったというふうに考えてよいのだろうか。
・メルッチが、ポストモダン「的」な雰囲気はあるのかもしれないけど、だからといってポストモダンかっていえばそうじゃない気がするんだよなあ。うーむ。
・運動の停滞が70年代後半にあったというのは、ここだけ見ても、別に停滞かなあ、という印象。この指摘が大切なのかどうか、わからない。
・で、80年代からは、若者の失業問題とかを例にして社会的排除という言葉が使われているが、(たしか、岩田正美さんの指摘によると、フランスでの社会的排除はフランス固有の呼び方があった気がするけど、忘れちゃった)このときすでに「社会的排除」って言ってたのだろうか…これはちょっと大切な気がする。
矢澤さん
オッフェがいいたいことは、意外とルーマンに似ているのだろうか。オッフェに限らないのかもしれないが…なんとなく分かりそうで、よくわからん。市民社会―国家というのが分かれていながらも、ブルジョア社会にあってはその分離が不明確であった。しかし、市場を(経済的)市民社会とし、国家を政治的市民社会とするなら、その分離は大衆社会の成立では(形式的には)明らかなものになる。後期資本主義にあっては、市民社会―国家という区分ではさらに捉えきれない事象が生じるので、経済的市民社会、政治的市民社会、社会的市民社会という分離が出てくる?
システム―生活世界という対置を、物象化された社会(貨幣、官僚制度)−新しい社会運動という対置にトレースさせて、生活世界の防衛=市民社会の防衛を主張しているとしたら、社会的市民社会―経済的・政治的市民社会という図になるということか…?
うーむ。
[読書メモ]
・誰か、お願いだから、social researchの85年の新しい社会運動の特集を訳してほしい。メルッチ、オッフェ、トゥレーヌ、そして編集者のコーエンも記事を寄せてて、これは同じく85年にでた『思想』の社会運動特集に匹敵するほどに重要かと。
→読んでみますか…?しかしなあ。
なぜだかとっても眠いでござる。
あかん、ジョージポットマンがはじまってしまう…
2012年02月11日
こにゃにゃちは、9時のニュースです。
このきな臭さ、なんとも言葉にしがたいこの気持ち悪さはなんなのか。
今日があの日だと、さっきラーメン食ってて分かった。ラーメン屋さんに夜メシを食いに行ったのだが、たまたまNHK?やってて、ルターの生涯みたいなことやってて、気になって見ていた。(それはおもしろかったんだが、ここではかかん。)番組が終わり、番宣の後に、9時ちょい前のニュースが流れた。私よく存じ上げませんけど、今日は祝日だそうでして、なんかめでたいみたいです。それで病気になったおじいさんが、なんかいい感じになったそうです。そして、拉致被害者の「救う会」が結成して15年になるという記事で、ニュースはしめられた。
なぜ、いわゆる慰安婦問題(結局、この事象をなんと呼べばいいのだろう。慰安婦、ではダメだし、かといってサバイバーと呼ぶとなんのことか分かんないし、名称からして困ってしまう)も、拉致も、国家に回収されてしまうのか。ナショナリズムにからめとられてしまうのか。あるいはこの見方は間違いなのだろうか。
私のこの疑問は、純粋に私の無知に起因するところも大きい。
いわゆる「慰安婦」については、社会問題としてかなり話題になった時はくわしく知らなかったし、運動に参加していた(たぶん、組織からすれば「運動をジャマしてた」という認識だっただろうがw)ときには、その組織の日本での運動の介入が上手くいかなかったのか、支援の方針を変えたのかよくわからんけど、とにかく自分たちが主導的な形で関わることがなかったし、下っ端の私は、数冊本を読むにとどめて、あんまり詳細を知るところではない。そのあと、バウネットだったっけ?、早稲田大学の近くに事務所がある支援団体の、資料展覧会に行ったけど、せいぜいその程度の知識しかない。
拉致については、ほとんど事実関係すら知らない。
私がとにかく気持ち悪くて仕方ないのは、国家が(諸)個人に対してやったことなのだから、個人への賠償なり責任の明示なりをすべきなのに、なぜ国家―国家という軸で認識されるのか。
私の少ない知識でいうと、いわゆる慰安婦の方は、日本軍から解放されたのちも、地元に帰れても「あいつは日本軍のスパイだ」と呼ばれ、自分の境遇を理解してくれる人々がいて結婚できても、自分の子どもまでもが「あいつの母ちゃんは…」と陰口をたたかれることもあったという。つまり、日本(軍、政府)からあらゆる自由を奪われ、そして話題となってからも様々な抑圧を受けた当人は、韓国の内部においても諸々の差別に苦しんだ。
しかし、ニュースやら2ちゃんでの話題は、「また韓国が日本にたかってるよ」という語り口である。個人が問題なのではなく、国家の話にされてしまう。もちろんこれは、個人個人だけでは運動が成果としてなにかを得るのは難しいから、専門的な技術や運動体という中間項が必要になるので、さらに裁判という形で闘争が行われる以上、国家の問題として認識されざるをえないところもあるので、間違ってはいないのだろう。しかし、運動体にしろ国家にしろ、当人おいてけぼりの運動の展開がなされたことは、否定できないような気がする。
(なんか細かいこと書き始めると、色々な人を敵に回しそうだし、なによりなにもやってない私がひとさまに「てめえのやりかた間違ってんだよ」と上からものを言うっていうのが気持ち悪いので、あまり具体的にはかかんとこ、と思いまぴた。)
私の知人で、拉致被害者の運動に参加していた人がいた。その人は、一時期すごく左翼の運動にコミットしてたから、「北朝鮮による拉致はない」という立場を信じていたのだが、その後に拉致が明らかになって、それを反省して今度は拉致の支援運動に入ったという。そしてそこでもまた、上記に書いたような当人おいてけぼり(まあおいてけぼりっちゅう訳じゃないんだろうけど)が生じた、という話を聞いたことがある。
もちろん、家族を奪われた以上、その個人が帰ってきて、国家による責任を認めて、謝罪となんらかの行為は必要であろう。しかし、運動の支援団体が大会でやったことは、被害者にしゃべらせて、あとはバックについた政治家たちの北朝鮮バッシングであり、そして君が代の斉唱であったという。もちろん繰り返すように、北朝鮮が悪くないわけないし、個人は帰ってきてほしい。この点は強調してもしたりない。
しかし、なぜ君が代をうたうのか。北朝鮮をバッシングすることが直接拉致被害者を救出することになるというなら分かるが、それに何の意味があるのか。私の知人は、君が代を歌うことが大会では当たり前のことになっていると知り、その運動にはコミットしなくなったという。
この話を以前に聞いたから、これまたあまり正確でない。
おそらく、時間と労力、そしてお金をかけて、真剣に丁寧に運動をして、なんとか成果を残そうと煩悶している人もいると思われる。そしてそれは、運動に関わる人がどう思うかは千差万別であるにせよ、運動の当事者からすれば、「救われるべき個人がいる。彼らを助けてほしい」ということであって、こうした最も基本的な人権の侵害に対しては、普遍的な運動の展開が可能であったはずである。
いや、あなたは言うかもしれない、過去形にするな、可能「であろう」、じゃなきゃおかしいだろう、と。本当にそうだろうか。
またあなたは言うかもしれない、私たちは当人の気持ちを代弁してやってるんだ、私たちがやっていることは正しいはずだ、と。本当にそうだろうか。
田中美津さんが以前、韓国でのいわゆる慰安婦の方々の支援をしている団体にお金を寄付した際、それがその後どうなったかを知ろうと、韓国まで行ったらしい。そしたら、当人ではなく支援者が温泉に行くのに使ってたわ、なんていうエピソードを書いてたような記憶がある。そしてそのように書くのは、おそらく田中さんであれば、という私の推測でしかないが、「ほら、韓国ってダメな奴らでしょう」という意味でもなければ、「運動なんて、そんな暴力的なことはやめようよ」でもないだろう。やることがあるならば、今の現実をまずきっちり認識したうえで、運動も支援者も、どこか弱さってのがあることをまず認めないといけないんじゃないの、という印象である。
(もちろんこれも私の勝手な推測なので、これに関しても「てめえちげえよ」と言いたくなる人もあろうが)
この二つの事例は、話題が非常にイデオロギッシュに語られることも相まって、なかなか事態は複雑であるように思えてならない。そしておそらく、今後も語り継がれていく割には、時間の経過とは相反するように、「あれ、なんでこうなっちゃったの?」というような経過と、語られ方をされるような気がしてならない。そのとき私は――とりあえず今後、なにかの形でそれらに関わる可能性がないわけではないにしろ、たぶん運動として「国民」的に?盛り上がることは考えにくいのでなんともいえないが――どうしたらいいのだろう。よくわからん。
イデオロギーとはかくも私たちを拘束する。私たちがすべき「でない」ことは、おそらくイデオロギーから自由たらん、イデオロギーから自由になったと思ってはばからないという発想であろう。私たちがなにをなすべきかはよくわからないが、なにをすべきでないかが分かっていれば、選択肢も少しは広がるような気がしないでもない。
なんと歯切れの悪い記事だ…もしコメントを寄せてくれる方がいたら、むしろその人に参考になりそうな資料などを聞くことにしよう。
無知もまた、私を拘束している。
今日があの日だと、さっきラーメン食ってて分かった。ラーメン屋さんに夜メシを食いに行ったのだが、たまたまNHK?やってて、ルターの生涯みたいなことやってて、気になって見ていた。(それはおもしろかったんだが、ここではかかん。)番組が終わり、番宣の後に、9時ちょい前のニュースが流れた。私よく存じ上げませんけど、今日は祝日だそうでして、なんかめでたいみたいです。それで病気になったおじいさんが、なんかいい感じになったそうです。そして、拉致被害者の「救う会」が結成して15年になるという記事で、ニュースはしめられた。
なぜ、いわゆる慰安婦問題(結局、この事象をなんと呼べばいいのだろう。慰安婦、ではダメだし、かといってサバイバーと呼ぶとなんのことか分かんないし、名称からして困ってしまう)も、拉致も、国家に回収されてしまうのか。ナショナリズムにからめとられてしまうのか。あるいはこの見方は間違いなのだろうか。
私のこの疑問は、純粋に私の無知に起因するところも大きい。
いわゆる「慰安婦」については、社会問題としてかなり話題になった時はくわしく知らなかったし、運動に参加していた(たぶん、組織からすれば「運動をジャマしてた」という認識だっただろうがw)ときには、その組織の日本での運動の介入が上手くいかなかったのか、支援の方針を変えたのかよくわからんけど、とにかく自分たちが主導的な形で関わることがなかったし、下っ端の私は、数冊本を読むにとどめて、あんまり詳細を知るところではない。そのあと、バウネットだったっけ?、早稲田大学の近くに事務所がある支援団体の、資料展覧会に行ったけど、せいぜいその程度の知識しかない。
拉致については、ほとんど事実関係すら知らない。
私がとにかく気持ち悪くて仕方ないのは、国家が(諸)個人に対してやったことなのだから、個人への賠償なり責任の明示なりをすべきなのに、なぜ国家―国家という軸で認識されるのか。
私の少ない知識でいうと、いわゆる慰安婦の方は、日本軍から解放されたのちも、地元に帰れても「あいつは日本軍のスパイだ」と呼ばれ、自分の境遇を理解してくれる人々がいて結婚できても、自分の子どもまでもが「あいつの母ちゃんは…」と陰口をたたかれることもあったという。つまり、日本(軍、政府)からあらゆる自由を奪われ、そして話題となってからも様々な抑圧を受けた当人は、韓国の内部においても諸々の差別に苦しんだ。
しかし、ニュースやら2ちゃんでの話題は、「また韓国が日本にたかってるよ」という語り口である。個人が問題なのではなく、国家の話にされてしまう。もちろんこれは、個人個人だけでは運動が成果としてなにかを得るのは難しいから、専門的な技術や運動体という中間項が必要になるので、さらに裁判という形で闘争が行われる以上、国家の問題として認識されざるをえないところもあるので、間違ってはいないのだろう。しかし、運動体にしろ国家にしろ、当人おいてけぼりの運動の展開がなされたことは、否定できないような気がする。
(なんか細かいこと書き始めると、色々な人を敵に回しそうだし、なによりなにもやってない私がひとさまに「てめえのやりかた間違ってんだよ」と上からものを言うっていうのが気持ち悪いので、あまり具体的にはかかんとこ、と思いまぴた。)
私の知人で、拉致被害者の運動に参加していた人がいた。その人は、一時期すごく左翼の運動にコミットしてたから、「北朝鮮による拉致はない」という立場を信じていたのだが、その後に拉致が明らかになって、それを反省して今度は拉致の支援運動に入ったという。そしてそこでもまた、上記に書いたような当人おいてけぼり(まあおいてけぼりっちゅう訳じゃないんだろうけど)が生じた、という話を聞いたことがある。
もちろん、家族を奪われた以上、その個人が帰ってきて、国家による責任を認めて、謝罪となんらかの行為は必要であろう。しかし、運動の支援団体が大会でやったことは、被害者にしゃべらせて、あとはバックについた政治家たちの北朝鮮バッシングであり、そして君が代の斉唱であったという。もちろん繰り返すように、北朝鮮が悪くないわけないし、個人は帰ってきてほしい。この点は強調してもしたりない。
しかし、なぜ君が代をうたうのか。北朝鮮をバッシングすることが直接拉致被害者を救出することになるというなら分かるが、それに何の意味があるのか。私の知人は、君が代を歌うことが大会では当たり前のことになっていると知り、その運動にはコミットしなくなったという。
この話を以前に聞いたから、これまたあまり正確でない。
おそらく、時間と労力、そしてお金をかけて、真剣に丁寧に運動をして、なんとか成果を残そうと煩悶している人もいると思われる。そしてそれは、運動に関わる人がどう思うかは千差万別であるにせよ、運動の当事者からすれば、「救われるべき個人がいる。彼らを助けてほしい」ということであって、こうした最も基本的な人権の侵害に対しては、普遍的な運動の展開が可能であったはずである。
いや、あなたは言うかもしれない、過去形にするな、可能「であろう」、じゃなきゃおかしいだろう、と。本当にそうだろうか。
またあなたは言うかもしれない、私たちは当人の気持ちを代弁してやってるんだ、私たちがやっていることは正しいはずだ、と。本当にそうだろうか。
田中美津さんが以前、韓国でのいわゆる慰安婦の方々の支援をしている団体にお金を寄付した際、それがその後どうなったかを知ろうと、韓国まで行ったらしい。そしたら、当人ではなく支援者が温泉に行くのに使ってたわ、なんていうエピソードを書いてたような記憶がある。そしてそのように書くのは、おそらく田中さんであれば、という私の推測でしかないが、「ほら、韓国ってダメな奴らでしょう」という意味でもなければ、「運動なんて、そんな暴力的なことはやめようよ」でもないだろう。やることがあるならば、今の現実をまずきっちり認識したうえで、運動も支援者も、どこか弱さってのがあることをまず認めないといけないんじゃないの、という印象である。
(もちろんこれも私の勝手な推測なので、これに関しても「てめえちげえよ」と言いたくなる人もあろうが)
この二つの事例は、話題が非常にイデオロギッシュに語られることも相まって、なかなか事態は複雑であるように思えてならない。そしておそらく、今後も語り継がれていく割には、時間の経過とは相反するように、「あれ、なんでこうなっちゃったの?」というような経過と、語られ方をされるような気がしてならない。そのとき私は――とりあえず今後、なにかの形でそれらに関わる可能性がないわけではないにしろ、たぶん運動として「国民」的に?盛り上がることは考えにくいのでなんともいえないが――どうしたらいいのだろう。よくわからん。
イデオロギーとはかくも私たちを拘束する。私たちがすべき「でない」ことは、おそらくイデオロギーから自由たらん、イデオロギーから自由になったと思ってはばからないという発想であろう。私たちがなにをなすべきかはよくわからないが、なにをすべきでないかが分かっていれば、選択肢も少しは広がるような気がしないでもない。
なんと歯切れの悪い記事だ…もしコメントを寄せてくれる方がいたら、むしろその人に参考になりそうな資料などを聞くことにしよう。
無知もまた、私を拘束している。
ヘーゲル『法哲学』メモ@序文
ヘーゲル『法哲学』中公出版社版.
社会科学の古典1冊目。
とんでもない長さなので、とりあえず読めた日に、読めた分だけ記事を書こうと思います。でも、ほとんど内容を知らないので、中身がないものになるかと。あとは、気になった/気にいったところを引用するくらい。
○序文
・自然と社会を対比させて、社会科学も自然科学っぽくないといけない、みたいな?
・途中から、哲学をおとしめる輩への批判がなされていて、おもしろいんだが誰を批判してるんだかわかんない。
序文は以上。
引用。Ppは日本語のページ。
「むしろ精神的宇宙は偶然と恣意に委ねられており、神に見捨てられているのだそうである。」pp10
「だが倫理的なもののそれ自身のなかでの豊かな分節と編成こそ、国家である。」pp16
「あの浅薄さというやつがいい気になってくりひろげる能弁の方式に表明される、やましい心の特殊な形式に、この際とくに注意しておくことができる。しかもまず第一に注意していのは、その形式は最も精神のないときに最も多く精神のことを論じ、最も生気のない鈍感な話をするときに、生命とか生かすという言葉を最も多く口にし、からっぽな高慢の最大の我欲を示すときに、最も多く国民という言葉を口にのぼせるということである。」pp18
「いまでは、恣意というやつの三百代言ぶりが哲学の名を横領して、広範な公衆に、まるでそういった類の営みが哲学であるかのように思わせることができるようになったことによって、国家の本姓に関してなお哲学的に論じるのはほとんど不名誉とさえなってしまった。」pp19
「思想形成においてすっかり遅れている連中、哲学が彼らにはなにかまったく縁遠いものであることを同時に証明してもいるような人々が、しかも哲学をなにかそれ自身片付けられたものとして取り扱う、という軽蔑が示されているばかりではない。そこでは明らかに哲学がののしられ、哲学の内容、つまり、神と物理的および精神的な自然を概念において把握する認識、真理の認識が、一つの愚かな、それどころか罪深い羨望であると宣言されている。」pp22
「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である。」pp24
「Hic Rhodus, hic saltus.」pp27
「存在するところのものは理性だからである……哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。」pp27
「哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる。」pp30
「哲学がその理論の灰色に灰色を重ねて描くとき、生の一つの姿は既に老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生の姿は若返らさせられはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァの梟はたそがれがやってくるとはじめて飛び始める。」pp30
社会科学の古典1冊目。
とんでもない長さなので、とりあえず読めた日に、読めた分だけ記事を書こうと思います。でも、ほとんど内容を知らないので、中身がないものになるかと。あとは、気になった/気にいったところを引用するくらい。
○序文
・自然と社会を対比させて、社会科学も自然科学っぽくないといけない、みたいな?
・途中から、哲学をおとしめる輩への批判がなされていて、おもしろいんだが誰を批判してるんだかわかんない。
序文は以上。
引用。Ppは日本語のページ。
「むしろ精神的宇宙は偶然と恣意に委ねられており、神に見捨てられているのだそうである。」pp10
「だが倫理的なもののそれ自身のなかでの豊かな分節と編成こそ、国家である。」pp16
「あの浅薄さというやつがいい気になってくりひろげる能弁の方式に表明される、やましい心の特殊な形式に、この際とくに注意しておくことができる。しかもまず第一に注意していのは、その形式は最も精神のないときに最も多く精神のことを論じ、最も生気のない鈍感な話をするときに、生命とか生かすという言葉を最も多く口にし、からっぽな高慢の最大の我欲を示すときに、最も多く国民という言葉を口にのぼせるということである。」pp18
「いまでは、恣意というやつの三百代言ぶりが哲学の名を横領して、広範な公衆に、まるでそういった類の営みが哲学であるかのように思わせることができるようになったことによって、国家の本姓に関してなお哲学的に論じるのはほとんど不名誉とさえなってしまった。」pp19
「思想形成においてすっかり遅れている連中、哲学が彼らにはなにかまったく縁遠いものであることを同時に証明してもいるような人々が、しかも哲学をなにかそれ自身片付けられたものとして取り扱う、という軽蔑が示されているばかりではない。そこでは明らかに哲学がののしられ、哲学の内容、つまり、神と物理的および精神的な自然を概念において把握する認識、真理の認識が、一つの愚かな、それどころか罪深い羨望であると宣言されている。」pp22
「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である。」pp24
「Hic Rhodus, hic saltus.」pp27
「存在するところのものは理性だからである……哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。」pp27
「哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる。」pp30
「哲学がその理論の灰色に灰色を重ねて描くとき、生の一つの姿は既に老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生の姿は若返らさせられはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァの梟はたそがれがやってくるとはじめて飛び始める。」pp30
記事のみ。『石原都知事、原発住民投票条例「作れるわけがないし作るつもりない」』
手続き上は、できます。
政策の実施・遂行は、あなた一人でするものではありません。
石原の文明観はおいときましょう。どうしますか?
もし条例が実施――もちろん施行の前段階で――されたとしたら、「選挙で選ばれたんだから、選ばれた以上、私たちは判断することなく、都知事の決定に従うまでよ」と答えますか。それとも、条例には賛成して、そのうえで原発の賛成か反対かを決めますか。
中澤秀雄さんの、新潟県巻町の原発についての住民投票の論文を読まないと。
以下、引用。
石原都知事、原発住民投票条例「作れるわけがないし作るつもりない」
産経新聞 2月10日(金)19時39分配信
市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」による原発稼働の是非を問う住民投票条例制定を求める署名が東京都で法定必要数を上回る見通しとなったことに関して、石原慎太郎都知事は10日の定例会見で「代案も出さずにセンチメント(感情)で言っている」と懸念を示し、「手続きを出したらいいが、条例を作れるわけがないし、作るつもりもない」と否定的な見解を示した。
今後は選管審査で必要数を上回れば、市民団体が条例案を作成し、知事に請求。知事は賛否などの意見書を添えて都議会に付議する。
石原氏は「原爆のトラウマがあるから、みな一種の恐怖感で言っている。人間は技術を開発し、失敗や挫折、事故もあったが、克服することで文明が進歩してきた」との見方を述べた。
また、東電以外の電力事業者からの購入を求める声が増えていることに関し、「東電や関電など大手以外のシェアは3%程度しかなく、それに集中しても、東京の電力がまかなえるわけがない」とも述べた。
引用以上。
政策の実施・遂行は、あなた一人でするものではありません。
石原の文明観はおいときましょう。どうしますか?
もし条例が実施――もちろん施行の前段階で――されたとしたら、「選挙で選ばれたんだから、選ばれた以上、私たちは判断することなく、都知事の決定に従うまでよ」と答えますか。それとも、条例には賛成して、そのうえで原発の賛成か反対かを決めますか。
中澤秀雄さんの、新潟県巻町の原発についての住民投票の論文を読まないと。
以下、引用。
石原都知事、原発住民投票条例「作れるわけがないし作るつもりない」
産経新聞 2月10日(金)19時39分配信
市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」による原発稼働の是非を問う住民投票条例制定を求める署名が東京都で法定必要数を上回る見通しとなったことに関して、石原慎太郎都知事は10日の定例会見で「代案も出さずにセンチメント(感情)で言っている」と懸念を示し、「手続きを出したらいいが、条例を作れるわけがないし、作るつもりもない」と否定的な見解を示した。
今後は選管審査で必要数を上回れば、市民団体が条例案を作成し、知事に請求。知事は賛否などの意見書を添えて都議会に付議する。
石原氏は「原爆のトラウマがあるから、みな一種の恐怖感で言っている。人間は技術を開発し、失敗や挫折、事故もあったが、克服することで文明が進歩してきた」との見方を述べた。
また、東電以外の電力事業者からの購入を求める声が増えていることに関し、「東電や関電など大手以外のシェアは3%程度しかなく、それに集中しても、東京の電力がまかなえるわけがない」とも述べた。
引用以上。
田中拓道「脱商品化とシティズンシップ」.ほか1本。
本ブログの記事は、論文の内容を説明したり要約したりするものではないので、ワード検索などで検索してこられた方、その点をお気をつけください。色々な意味ですいません。
田中拓道,2011,「脱商品化とシティズンシップ――福祉国家の一般理論のために」『思想』1043.
田中拓道,2011,「福祉国家と社会運動」田村哲樹・堀江孝司編『模索する政治――代表性民主主義と福祉国家のゆくえ』ナカニシヤ出版.
田中さん2本目。こちらは別に読んだ方がいいと思われるが、私の個人的な興味により、まとめて読む。
わからん。以下、メモのみ。というのも私の能力では…(以下略。)
・落とし所はなんなのか。誰の議論を念頭においていて(フレイザー?)、何を批判したくて、何を目的にしているのかが、文章があまりに整理されすぎていて?――されているがために?――私には分からない。
・脱商品化概念を拡張し、改めて再商品化との対抗軸の模索および既存の脱商品化への批判に用いるために練り直そうというのは分かるのだが、そうなると、それは分析概念ではなく規範概念として用いるということなのだろうか。もちろん、ある規範にはある分析やら認識が前提とされているだろうから、これらを別のものだと認識しなければならない理由はない。しかし、様々な分断線や方向性が模索する中、脱商品化とはなんぞやという議論をするとき、今の私では今一歩「おおなるほど!」とならないというのが実感。なぜだ。これが分かれば、なんとなく見通しがよくなる気はするのだが…。
→武川さんが批判している、脱商品化概念の「不当」な拡張と、関係するか?
・アンデルセンが、階級は客観的に(指標として)存在するが、しかしそれが連帯や階級同盟を結合するとなると、政治的な構築物になると言っている。(オッフェもそう言っている。しかし彼は、人の議論をよくパクるし、実際アンデルセンは多くの人が読んでるから、そういう認識が妥当なのだろう。)上の話とも重なってくるのだが、「階級とは……」と定義される――例えば、所有の形態と労働の形態によって決定される経済的属性、とか――のは分析概念であるが、「労働者階級は連帯すべきだ」というときは、規範的な意味合いが込められている。私が気になるのはむしろ、後者ではなく前者である。現在のこの社会にあって、階級とは何ぞや。「なんであるべきか」、ではない。もちろん、「なんであるべきか」と「なんであるか」が無関係にあるはずもなく、逆に無意識に共犯関係として成立してしまう場合だってある。しかしまずすべきは、階級としての連帯を叫ぶ前に、階級とは何かを明らかにすることではないか。
・田中さんがネオマルを参照するのは、彼自身がフランスに留学していたからだ、ということに昨日の真夜中気づく。アルチュセール、ジェソップ、プーランツァスなどの議論は、フランスで社会科学をやってれば、しかも福祉国家論だから、いやがおうにも学ばざるを…という感じだろうか。オッフェやハバーマスだけでなく、他のドイツのネオマル――まあネオマルと呼ぶのも便宜上といえば便宜上であって、「王朝づくりをするわけじゃない」(オッフェがインタビューにて「あなたはフランクフルト学派の〜世代ですが…」と質問されたときに答えた言葉)んだから、ドイツのここ30年ほどの国家論者も知りたい。しかし誰がいるんだろう。私はヒルシュが読みたいのだが、以前読んであんま分かんなかったんだよなあ。
・結論として、新しい政治的対抗軸(の方向性)が示されるわけだが、これまたオッフェの議論を援用すれば、そしてそれはおそらく田中さんが言っていることとも符合するが、表層に現れる政治的対立のみならず、社会的権力の構成、そして社会的権力の配分という、3層に及ぶ、社会構造のなんらかの明示が必要とされるだろう。
→分析のための道具として、個人化、グローバリゼーション(ローカリゼーション?)、社会運動、階級、階層、などか?
・フレーミング理論を除いて、資源動員論の立場からする社会運動論は、新しい社会運動の運動論とは分けるべきだと思う。資源動員論に関しては、それが政治諸関係つまり政策過程への介入、政党としての組織化などに関係するものに絞るために文化的側面を見落とすという批判がある。フレーミング理論は、この点を受けて、問題の設定の仕方や運動の盛り上がりにも目を向けるらしく、個人的には興味がある。
しかし、長谷川公一さんが90年のときに書いているような、社会運動論の「統合」は、すべきではない。つまり、新しい社会運動は社会構造の変容や背景を受けて「なぜ」why運動が生じるのかを説明するものであり、それを受けて「どのように」how運動が展開されていくかが資源動員論である、という位置づけは、社会運動の統合ではなくて、「資源動員論から見た」新しい社会運動の位置づけであって、新しい社会運動論から見た新しい社会運動ではないはずだ。そしてそれは、けっしてごっちゃにしてはいけない論点のはずだ。
つまり私が言いたいのは、運動の意味に目を向けているか?ということだ。運動がなぜ生じ、どのような意味を持ったかは、既に指摘したような政治的諸関係としてのみ認識されるものではない。怒りや高揚感などの、情念やら情動といったレベルも踏まえて、社会構造の議論もあいまって、展開されるべきであろう。
メルッチは、社会運動の参与者と、観察者を峻別すべきであると説いた、らしい。そしてそれは、観察する側の観察の仕方にも反映されるべきであろう。つまり、資源動員論から見た社会運動と、新しい社会運動から見た社会運動が、同じような分析になるはずはおそらくなくて、それを踏まえれば、統合できないはずなのだ。社会運動に参加する側も、観察する側も、とくに後者は、いつの間にか自己を超越化して、観察に対する観察が反省を失うような気がしてならない。
うまく言えないけど、本論のようなまとめの仕方は、一つの答えとしてはおそらく今後、普遍的な理論として彫琢されていくのだろうが、私は感情的な忌避感を覚える。それは、感情的といったが、生理的とも呼称すべきほど、どこかうすら寒いものだ。
読書のためのメモ
・マーシャルね。マーシャル。シティズンシップ。
・ポランニーは、マルクスが言ってないことも言ってるのかしら。たしか『大転換』が厚過ぎて、借りてきたのに読まずに返すっていうヤギさんもびっくりの無駄骨をしてしまった記憶があるので、せめてもくじ・はじめに・あとがき・訳者解説くらいは読みますか。
・アイリス=ヤング読んでみますかい。邦訳あるのかな?
・この本『模索する政治』っておもしろそうだな。田村さんも書いてるし。いつか、全部を読みたい。
・英語ができれば、メルッチとオッフェの85年論文を読みたいのになあ。あとプレイングセルフ。悔しいなあ。
田中拓道,2011,「脱商品化とシティズンシップ――福祉国家の一般理論のために」『思想』1043.
田中拓道,2011,「福祉国家と社会運動」田村哲樹・堀江孝司編『模索する政治――代表性民主主義と福祉国家のゆくえ』ナカニシヤ出版.
田中さん2本目。こちらは別に読んだ方がいいと思われるが、私の個人的な興味により、まとめて読む。
わからん。以下、メモのみ。というのも私の能力では…(以下略。)
・落とし所はなんなのか。誰の議論を念頭においていて(フレイザー?)、何を批判したくて、何を目的にしているのかが、文章があまりに整理されすぎていて?――されているがために?――私には分からない。
・脱商品化概念を拡張し、改めて再商品化との対抗軸の模索および既存の脱商品化への批判に用いるために練り直そうというのは分かるのだが、そうなると、それは分析概念ではなく規範概念として用いるということなのだろうか。もちろん、ある規範にはある分析やら認識が前提とされているだろうから、これらを別のものだと認識しなければならない理由はない。しかし、様々な分断線や方向性が模索する中、脱商品化とはなんぞやという議論をするとき、今の私では今一歩「おおなるほど!」とならないというのが実感。なぜだ。これが分かれば、なんとなく見通しがよくなる気はするのだが…。
→武川さんが批判している、脱商品化概念の「不当」な拡張と、関係するか?
・アンデルセンが、階級は客観的に(指標として)存在するが、しかしそれが連帯や階級同盟を結合するとなると、政治的な構築物になると言っている。(オッフェもそう言っている。しかし彼は、人の議論をよくパクるし、実際アンデルセンは多くの人が読んでるから、そういう認識が妥当なのだろう。)上の話とも重なってくるのだが、「階級とは……」と定義される――例えば、所有の形態と労働の形態によって決定される経済的属性、とか――のは分析概念であるが、「労働者階級は連帯すべきだ」というときは、規範的な意味合いが込められている。私が気になるのはむしろ、後者ではなく前者である。現在のこの社会にあって、階級とは何ぞや。「なんであるべきか」、ではない。もちろん、「なんであるべきか」と「なんであるか」が無関係にあるはずもなく、逆に無意識に共犯関係として成立してしまう場合だってある。しかしまずすべきは、階級としての連帯を叫ぶ前に、階級とは何かを明らかにすることではないか。
・田中さんがネオマルを参照するのは、彼自身がフランスに留学していたからだ、ということに昨日の真夜中気づく。アルチュセール、ジェソップ、プーランツァスなどの議論は、フランスで社会科学をやってれば、しかも福祉国家論だから、いやがおうにも学ばざるを…という感じだろうか。オッフェやハバーマスだけでなく、他のドイツのネオマル――まあネオマルと呼ぶのも便宜上といえば便宜上であって、「王朝づくりをするわけじゃない」(オッフェがインタビューにて「あなたはフランクフルト学派の〜世代ですが…」と質問されたときに答えた言葉)んだから、ドイツのここ30年ほどの国家論者も知りたい。しかし誰がいるんだろう。私はヒルシュが読みたいのだが、以前読んであんま分かんなかったんだよなあ。
・結論として、新しい政治的対抗軸(の方向性)が示されるわけだが、これまたオッフェの議論を援用すれば、そしてそれはおそらく田中さんが言っていることとも符合するが、表層に現れる政治的対立のみならず、社会的権力の構成、そして社会的権力の配分という、3層に及ぶ、社会構造のなんらかの明示が必要とされるだろう。
→分析のための道具として、個人化、グローバリゼーション(ローカリゼーション?)、社会運動、階級、階層、などか?
・フレーミング理論を除いて、資源動員論の立場からする社会運動論は、新しい社会運動の運動論とは分けるべきだと思う。資源動員論に関しては、それが政治諸関係つまり政策過程への介入、政党としての組織化などに関係するものに絞るために文化的側面を見落とすという批判がある。フレーミング理論は、この点を受けて、問題の設定の仕方や運動の盛り上がりにも目を向けるらしく、個人的には興味がある。
しかし、長谷川公一さんが90年のときに書いているような、社会運動論の「統合」は、すべきではない。つまり、新しい社会運動は社会構造の変容や背景を受けて「なぜ」why運動が生じるのかを説明するものであり、それを受けて「どのように」how運動が展開されていくかが資源動員論である、という位置づけは、社会運動の統合ではなくて、「資源動員論から見た」新しい社会運動の位置づけであって、新しい社会運動論から見た新しい社会運動ではないはずだ。そしてそれは、けっしてごっちゃにしてはいけない論点のはずだ。
つまり私が言いたいのは、運動の意味に目を向けているか?ということだ。運動がなぜ生じ、どのような意味を持ったかは、既に指摘したような政治的諸関係としてのみ認識されるものではない。怒りや高揚感などの、情念やら情動といったレベルも踏まえて、社会構造の議論もあいまって、展開されるべきであろう。
メルッチは、社会運動の参与者と、観察者を峻別すべきであると説いた、らしい。そしてそれは、観察する側の観察の仕方にも反映されるべきであろう。つまり、資源動員論から見た社会運動と、新しい社会運動から見た社会運動が、同じような分析になるはずはおそらくなくて、それを踏まえれば、統合できないはずなのだ。社会運動に参加する側も、観察する側も、とくに後者は、いつの間にか自己を超越化して、観察に対する観察が反省を失うような気がしてならない。
うまく言えないけど、本論のようなまとめの仕方は、一つの答えとしてはおそらく今後、普遍的な理論として彫琢されていくのだろうが、私は感情的な忌避感を覚える。それは、感情的といったが、生理的とも呼称すべきほど、どこかうすら寒いものだ。
読書のためのメモ
・マーシャルね。マーシャル。シティズンシップ。
・ポランニーは、マルクスが言ってないことも言ってるのかしら。たしか『大転換』が厚過ぎて、借りてきたのに読まずに返すっていうヤギさんもびっくりの無駄骨をしてしまった記憶があるので、せめてもくじ・はじめに・あとがき・訳者解説くらいは読みますか。
・アイリス=ヤング読んでみますかい。邦訳あるのかな?
・この本『模索する政治』っておもしろそうだな。田村さんも書いてるし。いつか、全部を読みたい。
・英語ができれば、メルッチとオッフェの85年論文を読みたいのになあ。あとプレイングセルフ。悔しいなあ。
2012年02月10日
そう、それがてへぺろ☆
めもも。
・新しい対抗軸を構築するために。
自民党/社民批判/管理国家批判
これらが、イデオロギーとしては異なる方向から、しかし「反福祉国家」という位置づけで一致していた、という議論。(宮本太郎,2006)今になって、山口二郎とかが新自由主義およびその象徴であるように思われる橋下を批判しているわけだが、そしてそれを、「新自由主義―社民主義」の対立として表象する人もいるのだが、私としては「?」という感じを受ける。「?」という感じを上手く言葉にできないのだが、山口さんが頭悪いだけじゃない、なにか他の理由があるように思われるためである。
計量社会学の基準に基づけば、日本の福祉国家は73年からである。公害や労働問題を背景に、革新自治体および革新勢力が伸長したこともあいまって、国家レベルでは保守党が与党でありながら、福祉国家を建設することが宣言されたのであった。しかし同時に、オイルショックという――構造的には確かに起こりうることであるにせよ、まさしくそのタイミングで生じることを予測するのは不可能であるという意味において――偶発的な「出来事」によって、資本の蓄積様式の再編の必要性から、福祉国家の抑制が叫ばれるようになった。日本の福祉国家論を計量社会学から見るときには、この福祉国家のスタートとブレーキの同時進行――車であれば、アクセルとブレーキを同時に踏むことはできないが、国家のように同時に政策としてそれらを管理しなければならない場合は、このようなことが起こりうるのである――を見ておかなければならない。
福祉国家を、上記では計量社会学の立場から見てみたものの、階級同盟という観点から見れば、社会民主主義がどの程度強いのか、という観点から計測されることになる。実際にはこちらもあらゆる手段を用いて計量的に社民主義の現れを認識することであるため、計量でないと言えば間違いなのであるが、福祉国家の内的構成を質的に認識しようという議論である。その立場からすれば、自民党の長期政権があったということは、裏返せば社民主義を掲げる政党が与党にならず、法制度にまで福祉国家的要素を結実させることができなかったということになろう。
したがって、本筋でないところからいうと、日本では社民主義が弱かったのに、「古い―新しい」という図式にトレースさせる形で、「社民主義―新自由主義」という図式を提示して、後者による前者の解体、という議論の展開は、あまり正しいように思われない。(もちろんこれは、具体的な政策領域あるいはパースペクティブによって判断が分かれるところではあるが。)たしかにヨーロッパを中心に、「保守―革新」という図式が、「既存政党―新しい政党」という形で政治的対立に置き換えられることを、私たちは知っている。
80年代前後から、一方では反福祉国家を明確に掲げる新保守主義――この点からすれば、「新」保守主義というのは分かりやすいのであるが――が一時的ではあれ台頭し、日本でも遅ればせながら地方自治体を中心に、この勢力がひとつの潮流となっている。他方では、緑の党という形で、新しい社会運動の包括的な集合体として、ドイツを中心に各国に徐々にではあるが勢力を伸張している。日本でも、遅ればせながら(?)3.11以降、国会へと代表者を送り込もうという議論が盛り上がっているようである。
話が前後してしまうが、改めて書いておくと、社民主義が弱かったのに、それを今になって、さも昔からそうであるかのように、「社民主義がいまだに…」と社民主義への批判的な語り口をするのは、誤りであろう。しかし、そしてそれ以上に知っておかねばならないのは、日本ではそれが、自民党の長期政権下にあって、社民主義が台頭しなかったことを踏まえて、既存政党―新勢力という図式を考察しなくてはいけないということであろう。そして、日本の新自由主義は、自民党内部のヘゲモニーの移行によって一挙に展開され、そしてまた、自民党内部での軌道修正によって転換を図ろうとした――が民主党の政権交代が生じた――という、自民党のひとり相撲としてまず認識しておかねばなるまい。
そして、
あっ、なに書こうとしたか忘れちゃった。とりあえず、民主党と社会党の研究――なるべく広いパースペクティブでもって――が必要になるんでしょうなあ。
・橋下を見ているとなんだか
一時期の、学生運動みたいですよね、と書こうとしたが、違うなあ。そして、石原や河村との共通点を見出そうとするが、どうやらそれも、違うなあ。
最近の橋下がやったことでいうと、交通局長に民間の交通関係の企業の副社長を推す、選挙活動期間の広報の制限、外交を知事・補完として市長という位置づけにする、ということがあった(みたい。具体的におっかけられてないが…)
(ちなみに、私は勝谷誠彦というコラムニストのメルマガをとっていて、今日の記事がこれだった。有料なので、そしてまた不誠実であるため、当該の記事の内容を書くわけにはいかないのだが、一応あまり関係なさそうな観点から本記事を書くことにする。毎日、4000字程度(かな?)の話題が豊富なメルマガが送られてくるので、政治信条としてどうかはおくにしても、オススメです。私はメルマガをとっているので、このパラグラフはステマじゃなくて、文字通りの宣伝ということで。)
最初の一行目のことを思ったのは、とにかく「改革」したくてしかたない、という「気分」がにじみ出ていることである。私は感覚としてよく理解できないのだが、大学の管理行政(行政は、国家行政じゃなくて、大学当局の行政のこと)に反対して、それに批判的な態度・運動をやるのはもちろんかまわないんだが、だからといって受験を中止させるとか、「大学解体」と掲げることに、なんの意味があるのだろうか。いや、ある意味で運動というのは人々の情動や情念といったものが、ときに不合理な性質を兼ね合わせる形で、展開するし、そこにこそ運動の意味がある、と感じる人もいるだろう。しかし、運動が大衆性を帯びて――「大衆性」ですってよ!自分を前衛だと思っているから大衆だなんて言葉を使うのかしら、いやそれともその言葉を用いなければならない固有性があるのかしら――盛り上がることと、実際に運動の要求が貫徹されることは、別物である。
反原発が、デモでは数万人が来て「盛り上がったよね〜」とは言えるものの、じゃあだからといって3.11の処理総体からすれば、原発それ自体の処理もそうだし、放射能が漏れちゃってる(という疑いが極めて濃厚な)状況に対して、具体的な法制度による(国家が直接やるのではなく、支援という形も含めた、広義の)対応が上手く言ってるかというと、おそらく肯定できないのでは、と思う。そういうわけで、68年あたりの学生運動――少なくとも学生運動に限定して――は、運動としては盛り上がったし、自己満足のお遊びとしてはとっても楽しかったんでしょうね、ということ。
話がだいぶそれたが、橋下も、「必要なのは独裁」「既存政党・労組はダメ」と繰り返し、それがおそらく選挙の戦略「だけ」には還元できない性質を有するという点から、媒介の無い思考だなあ、と考えていた。例えば、山口さんが橋下さんにボコボコにやられてた動画で、ある地方にて行われていた教育が高い評価を受けていた、という話。首長の権力が強くなくても、教員・地方の役人・首長がそれぞれ丁寧に手続きの面でも内容の面でも、尊重し合って政策を実施して、いい教育ができた(から、首長の権力を強くすればいいというわけではない)という山口さんに対して、橋本さんは「それは、後になってダメになった。だから今は役に立たない」と言ってた。具体的なことがわからないのだが、それは「なぜダメになった?あるいはどういう意味でダメなのか?」という観点を抜きにして、「ほら、だから労組とか既存の政治勢力は…」という方向にもっていってた。
私が前から思っているのは、一人の人間の行動には、必ずしも体系的な思想では説明できないものがあって、橋下を新自由主義だとかハシズムだと言ってるだけでは、分析を見誤るだろう、ということである。政策の、内容(価値判断)はおくにしても、手続きの面からして、既存のやり方が100パーセント正しかったか。あるいは、橋下がやっていることは、もちろんそれが権威主義的な体制づくりという意味では内容と形式を分断することはできないが、悪いものしかないのか。そこにおいて、労組なり既存政党なりがやってきたことが、果たして「民主主義」的であったか。そのことが問われている。
昨日のニュースでは、自分が知事のときに(=平松さんが市長をやってたとき)市も府も賛同していた公共施設の建築(だったかな?なんか建物だった気がするが…)が、市長の現在の権限では市長だけで決定できず、むしろ知事のときには知事として決めたかったが、任期が来たからそこまでは決められなかった、そして今度は市長になったら、市長としては知事の権限とは違うわけだから、むしろ過去においてした決定が、自分の首をしめている、そういう感じの記事があった。(それを見て、私は「学生運動みてえだなあ。自分で自分を追い詰める結果になったって感じかあ」と思ったのだが。)
そしてそれは、石原や河村とも違う。3人は、例えば歴史認識や教育については、かなり似通ったような方針を採用しているようだ。ただ、それを新自由主義あるいは新保守主義という形でグルーピングするのは、危険のように思われる。
どういうことか。ここでまず、本題に入る前の前提としては、新自由主義と新保守主義の対立についてである。宮本太郎(宮本,2008)が指摘するのは、福祉を国家責任でやるのか、市場重視でやるのかという点で新保守主義―新自由主義は親和的である。ただ、権威的なのが新保守主義で、個の自律を重んじるのが新自由主義である、ということである。宮本はおそらく、否定されがちな小泉政権下にあっても、男女共同参画社会の諸制度やら、介護保険の実施が行われたことを以て、新保守主義よりは新自由主義の――あくまでイデオロギーであるが――方向性には望ましいところ「も」あるよ、と言いたいのだろう。ただこれは、私には納得できない。
(本題に入る前に長くなりそうなので、カッコにくくる。つまり、介護保険が導入されたのは、日本型福祉社会とかたわけたことを抜かして、介護は女がやればいいんだ、というのがもう立ちゆかないと、自民党のバカでも分かるくらい、制度として想定する家族と、実体としての家族が変化してきてしまったということだ。そして、男女平等に関しては、額面通りの男女平等が薦めたいのではなくて、「少子化対策のための」男女平等がすすめたかった、という総括がある。
もし私たちが、「女は子どもを産む機械だ」といってはばからず――実際には、子どもを産めるのは女性だけだ、という表現にすべきだったのだろうか――「年金の負担をなるべく減らすために、女は子どもを産み、そしてなるべく働け」と主張してはばからないのであるとすれば、この「少子化対策のための」という但書きはいらない。そういうわけで、新自由主義と新保守主義を対置させて、新自由主義は「個の自律」を掲げているという議論は、納得いかない。)
そんで、本題に戻ると、石原、河村、橋下は似ているのか、ちゅう話。違うだろう、ちゅう話。石原は、4選を決めたときの最初のセリフが、「これまで通りやるしかないんだ」と言った。つまり、東京オリンピックの誘致に失敗したし、都の銀行の赤字のせいで貯蓄を切り崩したことも、ずっとやれてない豊洲移転も、「これまで通りやっていく」ということなのだ。失敗を継続しつづけようと彼は宣言している。
それに対して河村は、文字通りバカの一つ覚えで減税を叫んでいるが、それ以外でよく聞くイシューがない。(名古屋の「しゃちほこ」がどうこうとか?)バカの一つ覚えというのは、減税すればその分投資がされるから、それで好景気になって…というロジックは、「じゃあ消費税あげる代わりに垂直的分配の税を下げたのに、なぜ好景気になってないんですか?」という問いにどう答えるのだろう。そして、仮に一般理論としては正しいとしても(実際、正しいのかどうか、経済「理論」の観点からみてわからない。ハーヴェイによると、実証的には正しくないみたい。)赤字がすさまじい中、ひたすら減税を叫ぶというのがいったいどういう意味を持つか。
で橋下は、上に挙げたように、矢継ぎ早である。そしてその中には、「悪くはない」となんとはなしに言いたくなるイシューもあるだろう。そして、様々な政策を打ち出すことで、「失敗の程度」ではなくて、成功の程度によって評価が測れることになる。つまり、橋下のバックには現代政治学の最先端の議論をふまえたイデオローグがいるだろうから、結果として評価の高い政策を並べて、「ほら、こういういい政策をやったでしょ」とやればよいのだ。仮に、いい政策が5個できて、悪い政策が10個だったとしても――手続きを無視したり、価値判断としてかなり極端だと思われたり、という意味で「いい・悪い」とすると――いい政策の5個の話だけしていれば、「橋下さんはよかったねえ」とされるのだろう。
だからどうっていうね。
・新しい対抗軸を構築するために。
自民党/社民批判/管理国家批判
これらが、イデオロギーとしては異なる方向から、しかし「反福祉国家」という位置づけで一致していた、という議論。(宮本太郎,2006)今になって、山口二郎とかが新自由主義およびその象徴であるように思われる橋下を批判しているわけだが、そしてそれを、「新自由主義―社民主義」の対立として表象する人もいるのだが、私としては「?」という感じを受ける。「?」という感じを上手く言葉にできないのだが、山口さんが頭悪いだけじゃない、なにか他の理由があるように思われるためである。
計量社会学の基準に基づけば、日本の福祉国家は73年からである。公害や労働問題を背景に、革新自治体および革新勢力が伸長したこともあいまって、国家レベルでは保守党が与党でありながら、福祉国家を建設することが宣言されたのであった。しかし同時に、オイルショックという――構造的には確かに起こりうることであるにせよ、まさしくそのタイミングで生じることを予測するのは不可能であるという意味において――偶発的な「出来事」によって、資本の蓄積様式の再編の必要性から、福祉国家の抑制が叫ばれるようになった。日本の福祉国家論を計量社会学から見るときには、この福祉国家のスタートとブレーキの同時進行――車であれば、アクセルとブレーキを同時に踏むことはできないが、国家のように同時に政策としてそれらを管理しなければならない場合は、このようなことが起こりうるのである――を見ておかなければならない。
福祉国家を、上記では計量社会学の立場から見てみたものの、階級同盟という観点から見れば、社会民主主義がどの程度強いのか、という観点から計測されることになる。実際にはこちらもあらゆる手段を用いて計量的に社民主義の現れを認識することであるため、計量でないと言えば間違いなのであるが、福祉国家の内的構成を質的に認識しようという議論である。その立場からすれば、自民党の長期政権があったということは、裏返せば社民主義を掲げる政党が与党にならず、法制度にまで福祉国家的要素を結実させることができなかったということになろう。
したがって、本筋でないところからいうと、日本では社民主義が弱かったのに、「古い―新しい」という図式にトレースさせる形で、「社民主義―新自由主義」という図式を提示して、後者による前者の解体、という議論の展開は、あまり正しいように思われない。(もちろんこれは、具体的な政策領域あるいはパースペクティブによって判断が分かれるところではあるが。)たしかにヨーロッパを中心に、「保守―革新」という図式が、「既存政党―新しい政党」という形で政治的対立に置き換えられることを、私たちは知っている。
80年代前後から、一方では反福祉国家を明確に掲げる新保守主義――この点からすれば、「新」保守主義というのは分かりやすいのであるが――が一時的ではあれ台頭し、日本でも遅ればせながら地方自治体を中心に、この勢力がひとつの潮流となっている。他方では、緑の党という形で、新しい社会運動の包括的な集合体として、ドイツを中心に各国に徐々にではあるが勢力を伸張している。日本でも、遅ればせながら(?)3.11以降、国会へと代表者を送り込もうという議論が盛り上がっているようである。
話が前後してしまうが、改めて書いておくと、社民主義が弱かったのに、それを今になって、さも昔からそうであるかのように、「社民主義がいまだに…」と社民主義への批判的な語り口をするのは、誤りであろう。しかし、そしてそれ以上に知っておかねばならないのは、日本ではそれが、自民党の長期政権下にあって、社民主義が台頭しなかったことを踏まえて、既存政党―新勢力という図式を考察しなくてはいけないということであろう。そして、日本の新自由主義は、自民党内部のヘゲモニーの移行によって一挙に展開され、そしてまた、自民党内部での軌道修正によって転換を図ろうとした――が民主党の政権交代が生じた――という、自民党のひとり相撲としてまず認識しておかねばなるまい。
そして、
あっ、なに書こうとしたか忘れちゃった。とりあえず、民主党と社会党の研究――なるべく広いパースペクティブでもって――が必要になるんでしょうなあ。
・橋下を見ているとなんだか
一時期の、学生運動みたいですよね、と書こうとしたが、違うなあ。そして、石原や河村との共通点を見出そうとするが、どうやらそれも、違うなあ。
最近の橋下がやったことでいうと、交通局長に民間の交通関係の企業の副社長を推す、選挙活動期間の広報の制限、外交を知事・補完として市長という位置づけにする、ということがあった(みたい。具体的におっかけられてないが…)
(ちなみに、私は勝谷誠彦というコラムニストのメルマガをとっていて、今日の記事がこれだった。有料なので、そしてまた不誠実であるため、当該の記事の内容を書くわけにはいかないのだが、一応あまり関係なさそうな観点から本記事を書くことにする。毎日、4000字程度(かな?)の話題が豊富なメルマガが送られてくるので、政治信条としてどうかはおくにしても、オススメです。私はメルマガをとっているので、このパラグラフはステマじゃなくて、文字通りの宣伝ということで。)
最初の一行目のことを思ったのは、とにかく「改革」したくてしかたない、という「気分」がにじみ出ていることである。私は感覚としてよく理解できないのだが、大学の管理行政(行政は、国家行政じゃなくて、大学当局の行政のこと)に反対して、それに批判的な態度・運動をやるのはもちろんかまわないんだが、だからといって受験を中止させるとか、「大学解体」と掲げることに、なんの意味があるのだろうか。いや、ある意味で運動というのは人々の情動や情念といったものが、ときに不合理な性質を兼ね合わせる形で、展開するし、そこにこそ運動の意味がある、と感じる人もいるだろう。しかし、運動が大衆性を帯びて――「大衆性」ですってよ!自分を前衛だと思っているから大衆だなんて言葉を使うのかしら、いやそれともその言葉を用いなければならない固有性があるのかしら――盛り上がることと、実際に運動の要求が貫徹されることは、別物である。
反原発が、デモでは数万人が来て「盛り上がったよね〜」とは言えるものの、じゃあだからといって3.11の処理総体からすれば、原発それ自体の処理もそうだし、放射能が漏れちゃってる(という疑いが極めて濃厚な)状況に対して、具体的な法制度による(国家が直接やるのではなく、支援という形も含めた、広義の)対応が上手く言ってるかというと、おそらく肯定できないのでは、と思う。そういうわけで、68年あたりの学生運動――少なくとも学生運動に限定して――は、運動としては盛り上がったし、自己満足のお遊びとしてはとっても楽しかったんでしょうね、ということ。
話がだいぶそれたが、橋下も、「必要なのは独裁」「既存政党・労組はダメ」と繰り返し、それがおそらく選挙の戦略「だけ」には還元できない性質を有するという点から、媒介の無い思考だなあ、と考えていた。例えば、山口さんが橋下さんにボコボコにやられてた動画で、ある地方にて行われていた教育が高い評価を受けていた、という話。首長の権力が強くなくても、教員・地方の役人・首長がそれぞれ丁寧に手続きの面でも内容の面でも、尊重し合って政策を実施して、いい教育ができた(から、首長の権力を強くすればいいというわけではない)という山口さんに対して、橋本さんは「それは、後になってダメになった。だから今は役に立たない」と言ってた。具体的なことがわからないのだが、それは「なぜダメになった?あるいはどういう意味でダメなのか?」という観点を抜きにして、「ほら、だから労組とか既存の政治勢力は…」という方向にもっていってた。
私が前から思っているのは、一人の人間の行動には、必ずしも体系的な思想では説明できないものがあって、橋下を新自由主義だとかハシズムだと言ってるだけでは、分析を見誤るだろう、ということである。政策の、内容(価値判断)はおくにしても、手続きの面からして、既存のやり方が100パーセント正しかったか。あるいは、橋下がやっていることは、もちろんそれが権威主義的な体制づくりという意味では内容と形式を分断することはできないが、悪いものしかないのか。そこにおいて、労組なり既存政党なりがやってきたことが、果たして「民主主義」的であったか。そのことが問われている。
昨日のニュースでは、自分が知事のときに(=平松さんが市長をやってたとき)市も府も賛同していた公共施設の建築(だったかな?なんか建物だった気がするが…)が、市長の現在の権限では市長だけで決定できず、むしろ知事のときには知事として決めたかったが、任期が来たからそこまでは決められなかった、そして今度は市長になったら、市長としては知事の権限とは違うわけだから、むしろ過去においてした決定が、自分の首をしめている、そういう感じの記事があった。(それを見て、私は「学生運動みてえだなあ。自分で自分を追い詰める結果になったって感じかあ」と思ったのだが。)
そしてそれは、石原や河村とも違う。3人は、例えば歴史認識や教育については、かなり似通ったような方針を採用しているようだ。ただ、それを新自由主義あるいは新保守主義という形でグルーピングするのは、危険のように思われる。
どういうことか。ここでまず、本題に入る前の前提としては、新自由主義と新保守主義の対立についてである。宮本太郎(宮本,2008)が指摘するのは、福祉を国家責任でやるのか、市場重視でやるのかという点で新保守主義―新自由主義は親和的である。ただ、権威的なのが新保守主義で、個の自律を重んじるのが新自由主義である、ということである。宮本はおそらく、否定されがちな小泉政権下にあっても、男女共同参画社会の諸制度やら、介護保険の実施が行われたことを以て、新保守主義よりは新自由主義の――あくまでイデオロギーであるが――方向性には望ましいところ「も」あるよ、と言いたいのだろう。ただこれは、私には納得できない。
(本題に入る前に長くなりそうなので、カッコにくくる。つまり、介護保険が導入されたのは、日本型福祉社会とかたわけたことを抜かして、介護は女がやればいいんだ、というのがもう立ちゆかないと、自民党のバカでも分かるくらい、制度として想定する家族と、実体としての家族が変化してきてしまったということだ。そして、男女平等に関しては、額面通りの男女平等が薦めたいのではなくて、「少子化対策のための」男女平等がすすめたかった、という総括がある。
もし私たちが、「女は子どもを産む機械だ」といってはばからず――実際には、子どもを産めるのは女性だけだ、という表現にすべきだったのだろうか――「年金の負担をなるべく減らすために、女は子どもを産み、そしてなるべく働け」と主張してはばからないのであるとすれば、この「少子化対策のための」という但書きはいらない。そういうわけで、新自由主義と新保守主義を対置させて、新自由主義は「個の自律」を掲げているという議論は、納得いかない。)
そんで、本題に戻ると、石原、河村、橋下は似ているのか、ちゅう話。違うだろう、ちゅう話。石原は、4選を決めたときの最初のセリフが、「これまで通りやるしかないんだ」と言った。つまり、東京オリンピックの誘致に失敗したし、都の銀行の赤字のせいで貯蓄を切り崩したことも、ずっとやれてない豊洲移転も、「これまで通りやっていく」ということなのだ。失敗を継続しつづけようと彼は宣言している。
それに対して河村は、文字通りバカの一つ覚えで減税を叫んでいるが、それ以外でよく聞くイシューがない。(名古屋の「しゃちほこ」がどうこうとか?)バカの一つ覚えというのは、減税すればその分投資がされるから、それで好景気になって…というロジックは、「じゃあ消費税あげる代わりに垂直的分配の税を下げたのに、なぜ好景気になってないんですか?」という問いにどう答えるのだろう。そして、仮に一般理論としては正しいとしても(実際、正しいのかどうか、経済「理論」の観点からみてわからない。ハーヴェイによると、実証的には正しくないみたい。)赤字がすさまじい中、ひたすら減税を叫ぶというのがいったいどういう意味を持つか。
で橋下は、上に挙げたように、矢継ぎ早である。そしてその中には、「悪くはない」となんとはなしに言いたくなるイシューもあるだろう。そして、様々な政策を打ち出すことで、「失敗の程度」ではなくて、成功の程度によって評価が測れることになる。つまり、橋下のバックには現代政治学の最先端の議論をふまえたイデオローグがいるだろうから、結果として評価の高い政策を並べて、「ほら、こういういい政策をやったでしょ」とやればよいのだ。仮に、いい政策が5個できて、悪い政策が10個だったとしても――手続きを無視したり、価値判断としてかなり極端だと思われたり、という意味で「いい・悪い」とすると――いい政策の5個の話だけしていれば、「橋下さんはよかったねえ」とされるのだろう。
だからどうっていうね。
マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」.引用中心。
明日、AKBのANNの後にNMBのANNRって、ニッポン放送が俺に「寝るな」って言ってるってこと?
マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」.
せっかく時間ができそうなので、「そうだ、ヘーゲルを読もう!」と思った。理由は、ない。
ただ、私みたいなおきゃんぴーがいきなりヘーゲルを読んで理解できるわけないので、寄り道しながらゆっくり読んでいきたいと思う。ただ(本日二度目の登場)、私の読書計画なんて順調に進んだためしがないので、もしかしたらこの記事をもってヘーゲルから引退する可能性だってあるさ。人生だもの。
さて、能書きはおい…とかないで、もう少し能書きを。いま、古本屋で集めたヘーゲルおじさんの仕事が、私の本棚にある。『大論理学』、『小論理学』、『精神現象学』、『歴史哲学』、『法哲学』がある。つまり、有名どこはだいたいある。特に意味はないけど、『法哲学』から読む。で、『法哲学』と聞くと、マルクスおじさんの本もいっぱい持っている私は上記の論文を思い出したので、先にこちらを読むことにする。
ただ(本日三度目の登場)、繰り返すように私はヘーゲルについてほとんど知らないし、「ヘーゲル法哲学批判序説」が『法哲学』とどういう関係にあるのかを知らないので、もしかしたら以下に書くことと、明日以降ゆっくり読んでいこうと思っている内容に、全然関係ないかもしれない。
あれ、これもしかして、初読?
内容は
以下、おもしろかった言葉&有名な言葉。(日本語で20数ページと、短いながらも文章の表現がおもしろい。)
「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。」
「宗教は民衆のアヘンである。」
「なぜ歴史はこのように進行するのか?それは人類が明るく朗らかにその過去と訣別するためである。」
「一言でいえば、君たちは哲学を実現することなしには、哲学を揚棄することができない。」
「ドイツの国家哲学と法哲学は、ヘーゲルによってもっとも首尾一貫した……かたちでしめされたのであるが……近代国家とそれに関連する現実の批判的分析であるとともに、ドイツの政治的および法的意識の従来のあり方全体の決定的否定でもある。」
「批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならない。しかし理論もまた、それが大衆をつかむや否や、物質的な力となる。」
「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが人間にとっての根本は、人間自身である。」
「どこにドイツ解放の積極的な可能性はあるか?それは、ラディカルな鎖につながれた一階級の形成のうちにある。…(かなり長い省略)…プロレタリアートだ。」
「ドイツ人の解放は人間の下位王である。この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートの揚棄なしには自己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない。」
内容は、どこかしらで聞きかじった話と「あとがき」を読めばおおよそ分かりそうだが、もう2時半ではないか!ということで、もし気分がのったら、そして時間があったら、明日内容を書くかもしれません。書かないかもしれません。
[付記]
解説が思いのほかガチだったもんで(本文が20ページちょいで、解説が30ページもあった)、適当に内容を書くのはやめて、やっぱりゆっくり読んでいこうと思った。市民社会―国家の分裂は、ヘーゲルも言っているのだろうか?
というわけで、今から読みます。
マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」.
せっかく時間ができそうなので、「そうだ、ヘーゲルを読もう!」と思った。理由は、ない。
ただ、私みたいなおきゃんぴーがいきなりヘーゲルを読んで理解できるわけないので、寄り道しながらゆっくり読んでいきたいと思う。ただ(本日二度目の登場)、私の読書計画なんて順調に進んだためしがないので、もしかしたらこの記事をもってヘーゲルから引退する可能性だってあるさ。人生だもの。
さて、能書きはおい…とかないで、もう少し能書きを。いま、古本屋で集めたヘーゲルおじさんの仕事が、私の本棚にある。『大論理学』、『小論理学』、『精神現象学』、『歴史哲学』、『法哲学』がある。つまり、有名どこはだいたいある。特に意味はないけど、『法哲学』から読む。で、『法哲学』と聞くと、マルクスおじさんの本もいっぱい持っている私は上記の論文を思い出したので、先にこちらを読むことにする。
ただ(本日三度目の登場)、繰り返すように私はヘーゲルについてほとんど知らないし、「ヘーゲル法哲学批判序説」が『法哲学』とどういう関係にあるのかを知らないので、もしかしたら以下に書くことと、明日以降ゆっくり読んでいこうと思っている内容に、全然関係ないかもしれない。
あれ、これもしかして、初読?
内容は
以下、おもしろかった言葉&有名な言葉。(日本語で20数ページと、短いながらも文章の表現がおもしろい。)
「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。」
「宗教は民衆のアヘンである。」
「なぜ歴史はこのように進行するのか?それは人類が明るく朗らかにその過去と訣別するためである。」
「一言でいえば、君たちは哲学を実現することなしには、哲学を揚棄することができない。」
「ドイツの国家哲学と法哲学は、ヘーゲルによってもっとも首尾一貫した……かたちでしめされたのであるが……近代国家とそれに関連する現実の批判的分析であるとともに、ドイツの政治的および法的意識の従来のあり方全体の決定的否定でもある。」
「批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならない。しかし理論もまた、それが大衆をつかむや否や、物質的な力となる。」
「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが人間にとっての根本は、人間自身である。」
「どこにドイツ解放の積極的な可能性はあるか?それは、ラディカルな鎖につながれた一階級の形成のうちにある。…(かなり長い省略)…プロレタリアートだ。」
「ドイツ人の解放は人間の下位王である。この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートの揚棄なしには自己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない。」
内容は、どこかしらで聞きかじった話と「あとがき」を読めばおおよそ分かりそうだが、もう2時半ではないか!ということで、もし気分がのったら、そして時間があったら、明日内容を書くかもしれません。書かないかもしれません。
[付記]
解説が思いのほかガチだったもんで(本文が20ページちょいで、解説が30ページもあった)、適当に内容を書くのはやめて、やっぱりゆっくり読んでいこうと思った。市民社会―国家の分裂は、ヘーゲルも言っているのだろうか?
というわけで、今から読みます。
2012年02月09日
田中拓道「現代福祉国家理論の再検討」.ほか1本
本ブログの記事は、論文の内容を説明したり要約したりするものではないので、ワード検索などで検索してこられた方、その点をお気をつけください。色々な意味ですいません。
(いつも読んでいただいてる方には今さらなんですが、ブックマークなどではなく検索で来る方も徐々に増えているようですので、このような但し書きを、なるべくつけるようにします。)
田中拓道,2008,「現代福祉国家理論の再検討」『思想』1012.
――――,2009,「現代福祉国家研究における「政治」概念――1970年代以降の方法の変遷」『法政理論』41(2).
田中さん1本目。たぶん、この二つは一緒に読んだ方がいいと思ったので。
08年のほう。
http://liberation.paslog.jp/article/2081956.html
09年のほう。
http://liberation.paslog.jp/article/2082078.html
確か半年前に読んでびっくりした記憶があるが、今読んで、またびっくりした。私が考えていたことは、この人が書いていることの劣悪なコピーでしかなかったっぽい。私にはよくあることなのだが、自分で思いついたということのほとんどは、それまでの読書の印象だけは強く残っていて、記憶だけが薄らいだときに、自分のオリジナルだと錯覚して、後から見て「あっ、これもパクリだった」と気付くパータン。そういうわけでして、この議論を要約できるようになったら自分を人生で初めてほめてあげたいところだが、それができるとは全く思わないので、気になった点をメモ。
・この人が使っている「対抗戦略」という言葉の意味はなんでござろうか?
・ここで使われているオッフェの議論は、今丁寧に読み返しているところなので、もう少ししたら改めて書こう。しかし、私の読解能力および文献収集の可能な範囲だと、オッフェの脱商品化を、彼の目的意識に内在して理解するのは困難であろうということは、理解しつつある。
・上記ともおそらくかなり重なりあってくるのだろうが『晩期資本主義における正統化の諸問題』を読んでおけばよかった。よくを言えば、ハバーマス・ルーマン論争も読んでおくべきであった。さらに余力があれば、ロックウッドも読んでおくべきだった。かといってじゃあ今から読むかというと…
・『社会の思考』にも書いてあったけど、リスクという視点からの福祉国家の整理は、フーコに淵源があるということか。そうであるならば、むしろベックやギデンズの、リスク論から(?)議論を展開する人たちは、フーコを――もちろん読んでないということはないであろうが、それにしても――パクったのだろうか、それともネタ元は別の倉庫からなのだろうか。
・スコッチポルは、制度論の視座を切り開いた人だとされている。どこかで、パットナムとかコールマンに対して国家論(のようなマクロな視点)がないという批判をしていたと聞いたことがあったので、私の記憶は位置づけが間違っていたのだろうか…それとも、スコッチポルは、一方で既存の国家論を批判しながら、他方でミクロな分析を批判したということなのだろうか。
・政治学から見た福祉国家論としては、おおよそこのような議論の整理、と今後の望まれる論点が提出されるだろうと思われる。(にしても、文章の密度がエグい。)で、別に政治学と他の社会科学の諸領域を分ける理由はどこにもないので、私が気になる点を挙げておく。(ただこれは、私の目的意識から気になるということであって、批判でもなんでもない。ないものねだりをするのは、わずか一本の論文に対して「〜について触れてない」「○のことが書かれてない」は、生産的でないだろうから。)
個人化(福祉国家が、ある種の連帯に基づくものであるならば、連帯―分断として対置できよう)
グローバリゼーション(ルーマンすら、福祉国家論は国民国家を想定していると思われる。そして現在、福祉国家の政治から福祉ガバナンスの政治へと変容を遂げていることを、どう認識するか)
・今後の読書の参考
ネオマル、ピアソン、あとヒルシュも、読もう。積読から解放される本たち、出てこいや!
ヴィヴィアンシュミット、これでもこいつ、邦訳がまだ出てないみたいなんだぜ。信じらんないだろ…?本当に出てないのだろうか…
[メモ]
どの経済学者だか忘れてしまったけど、ハイエクだっただろうか、人間や国家によって社会の複雑さを管理できるという思考など、人間の無知を顧みない傲慢さの表れであって、試行錯誤によってのみ「正しい」秩序が作られていくのだ、したがって国家が市場に介入するのではなく、市場の原理に任せるのがよいのだという議論をしていたかと。
でこれは、市場原理なるものが本当に原理的であるのかという問いをひとまずおくにしても、「国家や人間による管理が、原理的にいって不可能であること」(なぜならば人間や環境は時々刻々と変化しているのだから、それを一元的に把握するということができるわけない)と、「だから市場に任せるべきだ」という議論には、クレパス(でいいのかな?雪が積もっているところで、ある場所とある場所の間に裂け目があること)があるように思われる。
確かに市場は、無秩序でありながらも合理性があることは認められようが、ここには市場を自然なもの――人間社会を人工的なものだと見る認識に対置される形で、自生的に存在するという意味で――だと見ている気がしてならない。もしそうだとしたら、マルクスが既に批判していることではないのか。(もちろんだからといって、市場を国家が管理すればいいという話ではないのは、上記に述べたとおりであり、またあくまで「現存」であるが、現存社会主義としてのソ連がどうなったかが示すところであるが。)
(いつも読んでいただいてる方には今さらなんですが、ブックマークなどではなく検索で来る方も徐々に増えているようですので、このような但し書きを、なるべくつけるようにします。)
田中拓道,2008,「現代福祉国家理論の再検討」『思想』1012.
――――,2009,「現代福祉国家研究における「政治」概念――1970年代以降の方法の変遷」『法政理論』41(2).
田中さん1本目。たぶん、この二つは一緒に読んだ方がいいと思ったので。
08年のほう。
http://liberation.paslog.jp/article/2081956.html
09年のほう。
http://liberation.paslog.jp/article/2082078.html
確か半年前に読んでびっくりした記憶があるが、今読んで、またびっくりした。私が考えていたことは、この人が書いていることの劣悪なコピーでしかなかったっぽい。私にはよくあることなのだが、自分で思いついたということのほとんどは、それまでの読書の印象だけは強く残っていて、記憶だけが薄らいだときに、自分のオリジナルだと錯覚して、後から見て「あっ、これもパクリだった」と気付くパータン。そういうわけでして、この議論を要約できるようになったら自分を人生で初めてほめてあげたいところだが、それができるとは全く思わないので、気になった点をメモ。
・この人が使っている「対抗戦略」という言葉の意味はなんでござろうか?
・ここで使われているオッフェの議論は、今丁寧に読み返しているところなので、もう少ししたら改めて書こう。しかし、私の読解能力および文献収集の可能な範囲だと、オッフェの脱商品化を、彼の目的意識に内在して理解するのは困難であろうということは、理解しつつある。
・上記ともおそらくかなり重なりあってくるのだろうが『晩期資本主義における正統化の諸問題』を読んでおけばよかった。よくを言えば、ハバーマス・ルーマン論争も読んでおくべきであった。さらに余力があれば、ロックウッドも読んでおくべきだった。かといってじゃあ今から読むかというと…
・『社会の思考』にも書いてあったけど、リスクという視点からの福祉国家の整理は、フーコに淵源があるということか。そうであるならば、むしろベックやギデンズの、リスク論から(?)議論を展開する人たちは、フーコを――もちろん読んでないということはないであろうが、それにしても――パクったのだろうか、それともネタ元は別の倉庫からなのだろうか。
・スコッチポルは、制度論の視座を切り開いた人だとされている。どこかで、パットナムとかコールマンに対して国家論(のようなマクロな視点)がないという批判をしていたと聞いたことがあったので、私の記憶は位置づけが間違っていたのだろうか…それとも、スコッチポルは、一方で既存の国家論を批判しながら、他方でミクロな分析を批判したということなのだろうか。
・政治学から見た福祉国家論としては、おおよそこのような議論の整理、と今後の望まれる論点が提出されるだろうと思われる。(にしても、文章の密度がエグい。)で、別に政治学と他の社会科学の諸領域を分ける理由はどこにもないので、私が気になる点を挙げておく。(ただこれは、私の目的意識から気になるということであって、批判でもなんでもない。ないものねだりをするのは、わずか一本の論文に対して「〜について触れてない」「○のことが書かれてない」は、生産的でないだろうから。)
個人化(福祉国家が、ある種の連帯に基づくものであるならば、連帯―分断として対置できよう)
グローバリゼーション(ルーマンすら、福祉国家論は国民国家を想定していると思われる。そして現在、福祉国家の政治から福祉ガバナンスの政治へと変容を遂げていることを、どう認識するか)
・今後の読書の参考
ネオマル、ピアソン、あとヒルシュも、読もう。積読から解放される本たち、出てこいや!
ヴィヴィアンシュミット、これでもこいつ、邦訳がまだ出てないみたいなんだぜ。信じらんないだろ…?本当に出てないのだろうか…
[メモ]
どの経済学者だか忘れてしまったけど、ハイエクだっただろうか、人間や国家によって社会の複雑さを管理できるという思考など、人間の無知を顧みない傲慢さの表れであって、試行錯誤によってのみ「正しい」秩序が作られていくのだ、したがって国家が市場に介入するのではなく、市場の原理に任せるのがよいのだという議論をしていたかと。
でこれは、市場原理なるものが本当に原理的であるのかという問いをひとまずおくにしても、「国家や人間による管理が、原理的にいって不可能であること」(なぜならば人間や環境は時々刻々と変化しているのだから、それを一元的に把握するということができるわけない)と、「だから市場に任せるべきだ」という議論には、クレパス(でいいのかな?雪が積もっているところで、ある場所とある場所の間に裂け目があること)があるように思われる。
確かに市場は、無秩序でありながらも合理性があることは認められようが、ここには市場を自然なもの――人間社会を人工的なものだと見る認識に対置される形で、自生的に存在するという意味で――だと見ている気がしてならない。もしそうだとしたら、マルクスが既に批判していることではないのか。(もちろんだからといって、市場を国家が管理すればいいという話ではないのは、上記に述べたとおりであり、またあくまで「現存」であるが、現存社会主義としてのソ連がどうなったかが示すところであるが。)
宮本太郎『福祉政治』有斐閣.
宮本太郎,2008,『福祉政治――日本の生活保障とデモクラシー』有斐閣.
太郎さん1冊目。
1回目に読んだときの記事。
http://liberation.paslog.jp/article/1503216.html
2回目に読んだときの記事。
http://liberation.paslog.jp/article/1862429.html
もしかしたら、以下では矛盾したこと書いてるかもしれません。
全部は読んでません。3・4・5章はとばしました。中身のあることは書いてません。
たしか、宮本さんの仕事に触れたのは、ちょうど2年前くらいだったかと思う。最初は、まあ最初はどれもそうだと思うんだが、何を言われているかよくわからなかった。当時の私は、福祉国家なんか福祉国家でしょ(笑)、的な感覚を持っていたし、教科書(有斐閣アルマの『比較政治経済学』のこと)とくにこの本の2章とか、なにが目的意識なのかも分からなかった。
この本の終章とか、『生活保障』とかは、もう何をしたいかが明らかだから、気軽に読んだわけだ。というのも、政治の行き詰まり――と称されているもの――に対して、おおよそ政治が目指すべき方向、社会がそうあってほしいなあと思う方向は、だいたい了解がとれるようなものだからだ。なんでもかんでも民営化しろという人や、女は男に従えとか言ってはばからない人は、意図的にふるまっている人以外は、研究者ではそんなに多くないと思うので。
2年くらい経って、改めて読んで、なんとなく、「ああ、そういうもんかあ」となんとはなしの納得というか、感想をもった。これが評価されているのだとしたら、というか私の周囲では高い評価しか聞いていないのだが、私は明らかに「時代の雰囲気」というやつに乗り遅れているのだなあ、と思う。
なんていうか、お薬なんですよねつまりは。処方箋なんでしょうよ、統治の技法というか。
マーケティングの議論が経営学にて重要なイシューになるのは、社会科学それ自体の議論の発展という要因もさることながら、マーケティングそれ自体が重要になったからだという、ある意味では当たり前の話を思い出す。マーケティングは、実際にはここ30年ほどのいわゆる消費社会(消費社会がなんなのかよく分からないので、いわゆる、とつけておく)を踏まえて発展したものなのに、あたかも昔からそうだったとでも言うかのように、「マーケティングって、それこそ大衆社会(20世紀初頭のアメリカ)からあるんですよね」という人もいるという。別にそれがいい悪いってんじゃなくて、社会を観察する側が、参与する側にモロに関わるということについて、非常にイノセンスである。
本書での議論も、どこか「政治って、こうすればいいですよね」という、政治家諸君かくあるべしといったような印象を受ける。政治過程の分析は、現状追認的な説明か、さもなくばそうのように制度を変えるべきだという規範を背景にしているように議論しているだろうし、言説政治も――ちょうど言説政治について勉強したいと思っていたので、「これが言説政治ってやつか」とニヤニヤしながら読んだものの――選挙資格を有する一人ひとりがどうしたらいいかとか、客観的な社会状況を示すというよりは――というかそれが難しいからこそ、というのもあるわけだが――、(広義の意味において)政治を職業にする人々のの言説の重要性を喚起するものといえよう。
だからたぶん、読み返してはいないけど、私の読みは太郎さんに内在していないのだ。福祉レジームと雇用レジームの関係から、利益政治や言説政治を用いて社会を分析するというのが本書の極めて簡潔な方法論になろうが、私は社会がこういう状況にありますというところにばっかり目が言ってて、たぶんそれについてのコメントばかりだと思う。
しかし、太郎さんが主張したいのは、政治が明確なビジョンを持って、利益を調整したりまとめたりしながら、政治を改革しようと思っている人のイデオローグになることなのであろう。それを、大切でないと全くいうつもりはない。しかし、それを私が勉強する気にはなれない。それをやってしまったら、人々から見て政治というのは、政治的エリートから受動的に決定を受けることを認めるようで、やりたくない。
繰り返すが、太郎さんが優秀だなんて、私ごときが言うまでもなくよく知られたことであり、本書も高い評価を受けていると聞く。この、そう厚くない本一冊で、利益政治および言説政治の重要性も分かるし、日本の戦後の歩みを福祉レジームと雇用レジームから分析するその視点もきわめてクリアーであり、それを踏まえて語られる結論は、かなりの説得力をもって私たち読者に納得を示させるものだと思われる。巻末につけられた、近年の政治学のための参考文献までつけられていて、文句なしの良書であろう。
そして、社会分析のみでなく、社会の方向性についても明確なビジョンを示すことは、政治学の仕事の一つでもあろう。しかし、私の中でどうにも消えないこの違和感はいったいなんなのか。俺の政治へのムラムラ感もてあそぶやん?
今日の山ちゃんのラジオ、冒頭の女の人のふるまいの話、すげえ納得できたw
あまりにファミマばっかりいってるからたまにはセブンで甘いものを買ってみたのだが、「スプーンはおつけしますか?」と聞いてくれたので、「あっお願いします。」と答えた。今日ちょっといいことがあったので、二つお菓子を買っていたのだが、バイトのお姉さんがスプーンは2つつけてくれた。彼女と一緒に食べるのかな、たまにここに買いに来るけど、彼女のためにひとりで買いに来た、優しい彼氏さんかな、そう思っていただけたのかもしれない。
すいません、二人で一つずつ食べるんじゃなくて、一人で二つ食べます……自分には厳しくとも、地球には優しくしたいので、スプーンは一つきちんと保管しておきます。すいません。
今日食べたもの。
「カスタードプリン――ふんわりミルクスムース」森永.
「果実の時間――ナタデココヨーグルトゼリー」たらみ.
なんて中身のない記事だ!!
ピアソン、ヴィヴィアンシュミットくらい、1冊は読んでおかないと…
太郎さん1冊目。
1回目に読んだときの記事。
http://liberation.paslog.jp/article/1503216.html
2回目に読んだときの記事。
http://liberation.paslog.jp/article/1862429.html
もしかしたら、以下では矛盾したこと書いてるかもしれません。
全部は読んでません。3・4・5章はとばしました。中身のあることは書いてません。
たしか、宮本さんの仕事に触れたのは、ちょうど2年前くらいだったかと思う。最初は、まあ最初はどれもそうだと思うんだが、何を言われているかよくわからなかった。当時の私は、福祉国家なんか福祉国家でしょ(笑)、的な感覚を持っていたし、教科書(有斐閣アルマの『比較政治経済学』のこと)とくにこの本の2章とか、なにが目的意識なのかも分からなかった。
この本の終章とか、『生活保障』とかは、もう何をしたいかが明らかだから、気軽に読んだわけだ。というのも、政治の行き詰まり――と称されているもの――に対して、おおよそ政治が目指すべき方向、社会がそうあってほしいなあと思う方向は、だいたい了解がとれるようなものだからだ。なんでもかんでも民営化しろという人や、女は男に従えとか言ってはばからない人は、意図的にふるまっている人以外は、研究者ではそんなに多くないと思うので。
2年くらい経って、改めて読んで、なんとなく、「ああ、そういうもんかあ」となんとはなしの納得というか、感想をもった。これが評価されているのだとしたら、というか私の周囲では高い評価しか聞いていないのだが、私は明らかに「時代の雰囲気」というやつに乗り遅れているのだなあ、と思う。
なんていうか、お薬なんですよねつまりは。処方箋なんでしょうよ、統治の技法というか。
マーケティングの議論が経営学にて重要なイシューになるのは、社会科学それ自体の議論の発展という要因もさることながら、マーケティングそれ自体が重要になったからだという、ある意味では当たり前の話を思い出す。マーケティングは、実際にはここ30年ほどのいわゆる消費社会(消費社会がなんなのかよく分からないので、いわゆる、とつけておく)を踏まえて発展したものなのに、あたかも昔からそうだったとでも言うかのように、「マーケティングって、それこそ大衆社会(20世紀初頭のアメリカ)からあるんですよね」という人もいるという。別にそれがいい悪いってんじゃなくて、社会を観察する側が、参与する側にモロに関わるということについて、非常にイノセンスである。
本書での議論も、どこか「政治って、こうすればいいですよね」という、政治家諸君かくあるべしといったような印象を受ける。政治過程の分析は、現状追認的な説明か、さもなくばそうのように制度を変えるべきだという規範を背景にしているように議論しているだろうし、言説政治も――ちょうど言説政治について勉強したいと思っていたので、「これが言説政治ってやつか」とニヤニヤしながら読んだものの――選挙資格を有する一人ひとりがどうしたらいいかとか、客観的な社会状況を示すというよりは――というかそれが難しいからこそ、というのもあるわけだが――、(広義の意味において)政治を職業にする人々のの言説の重要性を喚起するものといえよう。
だからたぶん、読み返してはいないけど、私の読みは太郎さんに内在していないのだ。福祉レジームと雇用レジームの関係から、利益政治や言説政治を用いて社会を分析するというのが本書の極めて簡潔な方法論になろうが、私は社会がこういう状況にありますというところにばっかり目が言ってて、たぶんそれについてのコメントばかりだと思う。
しかし、太郎さんが主張したいのは、政治が明確なビジョンを持って、利益を調整したりまとめたりしながら、政治を改革しようと思っている人のイデオローグになることなのであろう。それを、大切でないと全くいうつもりはない。しかし、それを私が勉強する気にはなれない。それをやってしまったら、人々から見て政治というのは、政治的エリートから受動的に決定を受けることを認めるようで、やりたくない。
繰り返すが、太郎さんが優秀だなんて、私ごときが言うまでもなくよく知られたことであり、本書も高い評価を受けていると聞く。この、そう厚くない本一冊で、利益政治および言説政治の重要性も分かるし、日本の戦後の歩みを福祉レジームと雇用レジームから分析するその視点もきわめてクリアーであり、それを踏まえて語られる結論は、かなりの説得力をもって私たち読者に納得を示させるものだと思われる。巻末につけられた、近年の政治学のための参考文献までつけられていて、文句なしの良書であろう。
そして、社会分析のみでなく、社会の方向性についても明確なビジョンを示すことは、政治学の仕事の一つでもあろう。しかし、私の中でどうにも消えないこの違和感はいったいなんなのか。俺の政治へのムラムラ感もてあそぶやん?
今日の山ちゃんのラジオ、冒頭の女の人のふるまいの話、すげえ納得できたw
あまりにファミマばっかりいってるからたまにはセブンで甘いものを買ってみたのだが、「スプーンはおつけしますか?」と聞いてくれたので、「あっお願いします。」と答えた。今日ちょっといいことがあったので、二つお菓子を買っていたのだが、バイトのお姉さんがスプーンは2つつけてくれた。彼女と一緒に食べるのかな、たまにここに買いに来るけど、彼女のためにひとりで買いに来た、優しい彼氏さんかな、そう思っていただけたのかもしれない。
すいません、二人で一つずつ食べるんじゃなくて、一人で二つ食べます……自分には厳しくとも、地球には優しくしたいので、スプーンは一つきちんと保管しておきます。すいません。
今日食べたもの。
「カスタードプリン――ふんわりミルクスムース」森永.
「果実の時間――ナタデココヨーグルトゼリー」たらみ.
なんて中身のない記事だ!!
ピアソン、ヴィヴィアンシュミットくらい、1冊は読んでおかないと…
2012年02月08日
『思想』983.(福祉社会の未来)前半のみ
『思想』983.(2006年3月「福祉社会の未来」)
福祉社会について。多くの方が寄稿されているのだが、今の私にとって気になる人だけをとりあえず読むことにする。
・思想の言葉→とくに。
・特集に当たって(広井さん)
『思想』で福祉が特集になったのははじめてらしい。意外。そして広井さんの主張はしごくまっとう。06年の時点では、まだ二大政党が「小さい政府」競争を繰り広げていたころなので、(後から見て、08年以降のそれなりの変化からしたら)政治に対する警戒感は大きい。(武川さんは、08年以降はちょっとそれまでとは違うよね的なことを書いてた気がする。広井さんは…最近の仕事を確認してない汗)
個人的には、『思想』『現代思想』は古本屋に行けばあるものだと思っていたが、(売っている雑誌の)時代と(特集されている)種類にすごく偏りがあるなあと感じていた。まさか福祉国家、福祉社会、そして福祉思想を『思想』がとりあげたことがないだなんて。そして一時期を境に、全くバックナンバーがなくなるということがどういうことなのか。若者よ、本を読んでいるか、と若くない私は自分に問いかける。
・広井良典
長期的な時間軸と、政治体制という空間軸による大きな視点による福祉社会の導出は鮮やかと言うほかない。とくに、富の源泉と課税形態を結び付けた議論はなるほどと思わされた。細かいことを言い出せばきりがないが、方向性としては賛成。そして広井さん自身も言っているように、日本型社会統合の特殊さが、この方向性についての議論をヨーロッパよりも――ヨーロッパよりも、社会の方向性についての合意に達していないとするならば――まとまらない理由かと思われる。「政治の無能さ」だけを批判したところで、新しい社会の方向性は決まりはしないということだ。
では「細かいこと」とは何か。一つは福祉と環境の位置づけ。一つは労働。一つは、福祉社会の「表裏」。福祉社会がポスト福祉国家の一形態であるがゆえに、福祉国家批判をより非福祉社会的にしたと思われる市場重視の思想とも実は親和的な点について触れていない。これについては、またいずれ。
・宮本太郎
およそ『福祉政治』終章『生活保障』4章、で語られていたものと同じ議論。このページ数でこんな話を広げるなんて、相変わらずの欲張り太郎さんですな。福祉国家の形成と発展(アンデルセン)が、リスクや領域変動(グローバル、ローカル)も相まって、福祉国家ではなく福祉ガバナンスとして再編されなくてはならないという議論。
そしてそこにひっそりと挟み込まれる、自民党による日本型福祉社会論、批判理論による管理国家批判、マルクス主義による社会民主主義批判の奇妙な野合による反福祉国家同盟の指摘。根は深い。虫歯は根っこからやられている。
だらだらしすぎて、こんな時間になってしまった…
明日の予定次第だが、続きをもしかしたら読むかもしれないし、読まないかもしれない。ぱっと見て、どれもおもしろそうなので、読めたら読む。
たかみな、大丈夫かなあ。
そして、お母さんは――状況がよくわからないのだけど――半ばレイプのような状況だったとしても(合意だったら分かるけど。性行為は男性が勃起していないと挿入できないから、女性が訴えられるというのは一般論としては特殊のように思われる)、罰せられてしまうのか…。相手が未成年だったからという理由は分かるが、それにしてもよくわからんといえばよくわからん。まあ単なるゴシップと言えばそうかもしれないが。
[メモ]――びっくりしておっしこをもらさないようにするために
・社会科学の古典は、やはりなるべく読んでおくべきであった。活動やってたときは、「レーニンは若いうちに読めってよくいうから、レーニン読んどけ」なんて言われた覚えもあるのだが、なんだかんだでこの数年、マルクスとルーマン以外は直に古典を読んだ経験がない。(それ以前も読んでない、つまりそういう経験自体が私にはない。)
もちろん、読んだからと言ってすぐに理解できるほど私は……、それでもウェーバー、デュルケム、あとはカント・ヘーゲル?(これを自分だけで読んですぐ理解できたら、もうその人は超人だと思うがw『精神現象学』とか、解説なしで分かったらホントすごい。)ポパーとかクーンとか…個人的には経済思想の「自由」が気になるが。あとは政治学の古典か。うーむ。福田さんの『政治学史』を読みながら、ゆっくり読んでいくという感じでしょうか。
・ドイツ語が、なぜできないか?
一方でヘーゲルやルーマンが用いる単語は、単語レベルではそんなに多くないが、しかし当然、入り組んだ文章や長い文章が多く、すっと頭に入ってこない。(ヘーゲルは、すごく指示語がとりにくいことがある。実際、『精神現象学』だと訳によって指示内容を異なったものに訳しているところなんて普通にある。)他方で、例えば新聞やエッセイなどの比較的日常用語で書かれていて、一文もそれなりに短いものばかりでは、社会科学の文章を読む「体力」にまで行くのに厳しい。
実際、ドイツ語を真面目に勉強している方なら、短い文も長い文も出会うだろうし、単語も読んでいけば(単語を覚えるという作業は実は難しいと個人的には思うのだが)覚えやすくなっていくということは言えると思う。継続的に文章に触れることをせず、難しい文章を訳を頼りながら一文一文訳していくというのは、丁寧に教えていただけるような学習環境が整っていなければ、むしろ遠回りなのかもしれない。
どっちにしろ、ペースゆっくり、しかし継続的に、丁寧に読んでいくという当たり前の結論なんでしょうなあ。好きな作家(思想家)、学習環境を整えること(お金と時間)以上に、やはり丁寧さおよび目的意識かと。それが先に立っていないと、手段が選べないのかも。
福祉社会について。多くの方が寄稿されているのだが、今の私にとって気になる人だけをとりあえず読むことにする。
・思想の言葉→とくに。
・特集に当たって(広井さん)
『思想』で福祉が特集になったのははじめてらしい。意外。そして広井さんの主張はしごくまっとう。06年の時点では、まだ二大政党が「小さい政府」競争を繰り広げていたころなので、(後から見て、08年以降のそれなりの変化からしたら)政治に対する警戒感は大きい。(武川さんは、08年以降はちょっとそれまでとは違うよね的なことを書いてた気がする。広井さんは…最近の仕事を確認してない汗)
個人的には、『思想』『現代思想』は古本屋に行けばあるものだと思っていたが、(売っている雑誌の)時代と(特集されている)種類にすごく偏りがあるなあと感じていた。まさか福祉国家、福祉社会、そして福祉思想を『思想』がとりあげたことがないだなんて。そして一時期を境に、全くバックナンバーがなくなるということがどういうことなのか。若者よ、本を読んでいるか、と若くない私は自分に問いかける。
・広井良典
長期的な時間軸と、政治体制という空間軸による大きな視点による福祉社会の導出は鮮やかと言うほかない。とくに、富の源泉と課税形態を結び付けた議論はなるほどと思わされた。細かいことを言い出せばきりがないが、方向性としては賛成。そして広井さん自身も言っているように、日本型社会統合の特殊さが、この方向性についての議論をヨーロッパよりも――ヨーロッパよりも、社会の方向性についての合意に達していないとするならば――まとまらない理由かと思われる。「政治の無能さ」だけを批判したところで、新しい社会の方向性は決まりはしないということだ。
では「細かいこと」とは何か。一つは福祉と環境の位置づけ。一つは労働。一つは、福祉社会の「表裏」。福祉社会がポスト福祉国家の一形態であるがゆえに、福祉国家批判をより非福祉社会的にしたと思われる市場重視の思想とも実は親和的な点について触れていない。これについては、またいずれ。
・宮本太郎
およそ『福祉政治』終章『生活保障』4章、で語られていたものと同じ議論。このページ数でこんな話を広げるなんて、相変わらずの欲張り太郎さんですな。福祉国家の形成と発展(アンデルセン)が、リスクや領域変動(グローバル、ローカル)も相まって、福祉国家ではなく福祉ガバナンスとして再編されなくてはならないという議論。
そしてそこにひっそりと挟み込まれる、自民党による日本型福祉社会論、批判理論による管理国家批判、マルクス主義による社会民主主義批判の奇妙な野合による反福祉国家同盟の指摘。根は深い。虫歯は根っこからやられている。
だらだらしすぎて、こんな時間になってしまった…
明日の予定次第だが、続きをもしかしたら読むかもしれないし、読まないかもしれない。ぱっと見て、どれもおもしろそうなので、読めたら読む。
たかみな、大丈夫かなあ。
そして、お母さんは――状況がよくわからないのだけど――半ばレイプのような状況だったとしても(合意だったら分かるけど。性行為は男性が勃起していないと挿入できないから、女性が訴えられるというのは一般論としては特殊のように思われる)、罰せられてしまうのか…。相手が未成年だったからという理由は分かるが、それにしてもよくわからんといえばよくわからん。まあ単なるゴシップと言えばそうかもしれないが。
[メモ]――びっくりしておっしこをもらさないようにするために
・社会科学の古典は、やはりなるべく読んでおくべきであった。活動やってたときは、「レーニンは若いうちに読めってよくいうから、レーニン読んどけ」なんて言われた覚えもあるのだが、なんだかんだでこの数年、マルクスとルーマン以外は直に古典を読んだ経験がない。(それ以前も読んでない、つまりそういう経験自体が私にはない。)
もちろん、読んだからと言ってすぐに理解できるほど私は……、それでもウェーバー、デュルケム、あとはカント・ヘーゲル?(これを自分だけで読んですぐ理解できたら、もうその人は超人だと思うがw『精神現象学』とか、解説なしで分かったらホントすごい。)ポパーとかクーンとか…個人的には経済思想の「自由」が気になるが。あとは政治学の古典か。うーむ。福田さんの『政治学史』を読みながら、ゆっくり読んでいくという感じでしょうか。
・ドイツ語が、なぜできないか?
一方でヘーゲルやルーマンが用いる単語は、単語レベルではそんなに多くないが、しかし当然、入り組んだ文章や長い文章が多く、すっと頭に入ってこない。(ヘーゲルは、すごく指示語がとりにくいことがある。実際、『精神現象学』だと訳によって指示内容を異なったものに訳しているところなんて普通にある。)他方で、例えば新聞やエッセイなどの比較的日常用語で書かれていて、一文もそれなりに短いものばかりでは、社会科学の文章を読む「体力」にまで行くのに厳しい。
実際、ドイツ語を真面目に勉強している方なら、短い文も長い文も出会うだろうし、単語も読んでいけば(単語を覚えるという作業は実は難しいと個人的には思うのだが)覚えやすくなっていくということは言えると思う。継続的に文章に触れることをせず、難しい文章を訳を頼りながら一文一文訳していくというのは、丁寧に教えていただけるような学習環境が整っていなければ、むしろ遠回りなのかもしれない。
どっちにしろ、ペースゆっくり、しかし継続的に、丁寧に読んでいくという当たり前の結論なんでしょうなあ。好きな作家(思想家)、学習環境を整えること(お金と時間)以上に、やはり丁寧さおよび目的意識かと。それが先に立っていないと、手段が選べないのかも。
2012年02月06日
「でぃきし!」「ぐわぁ!」
「ええっと、たしかシャーリー・マクレーンだったと思いますが…アカデミー賞何度も候補になって、最後にもらったときに、『私が貰って当然だと思う』って言ったそうですが、まあだいたいそういう感じ、です。あのー…えー4回も落っことされた後ですから、ここらでことわってやるのが礼儀と言えば礼儀ですが、私は礼儀を知らないので。あのー、もし断ったって聞いて、気の小さい選考委員が倒れたりなんかしたら、都政が混乱しますので、都知事閣下、東京都民各位のために、もらっといてやる…です。あの、とっとと終わりましょう。」
→久しぶりの、なかなかの歌舞伎者ぞ。人生で一度は言ってみたい。
・公共性
公共性と、各種学問から見たその位置づけ。あくまで私の勝手なイメージ。
政治学…公共性!
経済学…公共性:お金をある程度持っている人たちのなんとはなしの雰囲気
社会学…公共性(笑)
スイーツ…スイーツ(笑)
・自民党と、(疑似的な)バイナリーコードの不成立
与党が信頼を要求し、野党は与党に対する不信をつきつける。信頼―不信は等価な交換ではないが、おおよそ二大政党制が成立している国では、与党になる可能性がある野党(を仮に一つに絞るとしたら)は疑似的に等価な位置づけ――イデオロギー的には違くても、中長期的に見たときの一国の安定という機能からみて――にある。
でも日本では、確かに長期にわたって自民党が信頼を得ていた。ただ、野党は、社会党があったときからこっち、与党をほとんど経験していなかった。社会党は、自民党にとって変わろうというよりは、共産党とイデオロギー的にどう違うかっていうことを気にしていたような印象。そうなると、確かに与党に対して不信を突き付けるのだが、そうとはいっても自民党内部での疑似政権交代――つまり首相が変わって、こまめに方針を転換する――が行われたので、野党は与党的にふるまうことが結果としてできなかったし、自民党内部でのタカ派―ハト派の対立がある意味で不信をも信頼に転換させる働きを担っていたと言える、のかもしれない。
そういうわけで、マスコミとしても、官僚としても、もちろん私たち有権者も、二大政党制というのをなんとなく大学とか新聞とかで聞いたことがありはするのだが、どことなくうーん、て言う感じになるかも。そして既存政党ではないという理由で――これって本当にそうなんだろうか?――新しい人が出てくるとそっちに惹かれるという。
どう考えたらいいだろうなあ。
・国家道具論、あるいは民主主義と資本主義の一致と不一致
国家道具論への批判としては、一応以下のようなものが考えられると思う。ただ、今になても国家は資本による支配の道具だなんて信じている人ってそんないないと思うから、あくまでメモ程度に。オッフェにレーニンの指摘が出てきたので。
萱野稔人によると、国家は暴力の運動である。資本が貨幣の運動であるように、国家も運動概念として規定できるのだから、道具ではない。以上。
あるいは、大衆社会が成立して一人一票の選挙権を有しているのだから、資本家よりも労働者階級の方が――実際、どちらでもない人の方がほぼ半数を占めているというのが歴史の示すところなのだが――多いのだから、彼らが仮に階級として連帯するなら、彼らの代表者を国会に送り出せるのだから、「支配の」道具ではない。そして実際、階級やらなんやらとしてある程度客観的に規定されるところの社会的属性と、本人の行動様式としての政治行動が完全に一致するとも言い難いので、道具という本質的な規定は退けられるかと。国家によるイデオロギー機能や、なんらかの媒体を用いた積極的なアジテーション(による国家の正当化)があったとしても、それをもって国家を支配の「道具」とするには、やや論理的にツメられてない。
あるいは、民主主義―資本主義が一致するという議論は、むしろ前提からして違「っていた」。民主主義が成立したのはつい最近で、そもそも古代ギリシアからブルジョア民主主義までは民主主義に対する不信があったわけで、自由主義からしたらむしろ民主主義はどこか不審であって、国家権力と大衆の迎合が結び付くことへの警戒感は、かなり大きいものだと言えるように思う。
・緊張
緊張したので、かなかなの動画を見た。先日、ダラダラしているときにたまたまかなかなに似ているAV女優さんを見つけてしまい、なぜかまじまじとその動画を見てしまった。私は、なにかとても悪いことをしたような気がして、パソコンを閉じた。かなかなは、とってもかわいい。女の人をかわいいって言っちゃいけないのは分かるのだが、きゃわいいんでしゅね〜。いつも同じ動画をようつべで見るのに、毎日のようにニヤニヤしながら見てしまう。
ちなみに、私はAV女優さん、とさん付けを自分に義務付けている。彼女たちの方が、おそらく間違いなく日本経済(彼女たちの動画を買う人もそうだし、彼女たちが使うお金もそうだ)に貢献してるし、おそらくこの人たちのおかげで「このおかげで明日も生きていける」と思っている人もいるだろうし、要するに私より人様の訳に立ってるから。私はよくウィキペディアとか2ちゃんの類を見るんだが、そこでAV女優さんのプロフィールとか見てて、壮絶な人生を送ってる人もなかにはいて、そう言う人に対して――もちろん直接じゃないけど――「そういうのに出るのはよくない」とか、「そういうのに出るのって、どこかおかしい」という議論をするのが、どうにも許せない。
もちろん、そういう仕事「でしか」食っていけないのだとしたら、本人が悪いんじゃない。そういった仕事を、きちんと各種の法律で規制していくことが必要だし、それとは決して矛盾しないわけだから、労働条件を整備すべきであろう。そして道徳的にしか批判できないくらいだったら、その仕事を全廃させるように運動をすべきだし、そうしないんだったらその仕事の労働条件をよくなるように運動するべきだ。その両方をしないでただキレイゴトを言うだけだったら、何も言わない方がいいと思う。生産的じゃないから。
なぜか、書いてて急に熱くなってしまった。とにかく、一言で言うと、かなかながかわいいっていう話だった。
・150年間
マルクスが150年以上読まれ続けてきて分かったことは、「共産主義」への革命(マルクス・エンゲルス,1848)を、「反資本主義」へという宣言(カリニコス)に変えることだった。
・賃労働―資本
賃労働―資本は、根本的に権力関係が存在している。しかし、仮にこの関係を生産関係とするとしたら、消費関係における労働者―消費者というのは、別に権力的ではない。貨幣を有している人が商品を購入するのだから、消費者の方が優位にあることはいえるが、別にだからと言って消費者が労働者、あるいは生産者(総体?)に優位にあるわけではない。
ポストフォーディズムにおいては、もちろん様々な変化がある。そのひとつに、消費者への労働者のアイデンティファイである。いつもお客様のことを考え、お客様の笑顔のために、お客様の喜んだ顔が見たくて…そうそうみなさん、ワタミの社長の顔が浮かんできたでしょう、となぜか突然のステマ。
さて、このような消費者への労働者のアイデンティファイは、どのように認識したらよいのだろうか。先も見たように、消費者は労働者に対して権力的ではない。しかし、労働者が積極的に消費者にアイデンティファイすることで、賃労働―資本という先に見た権力性が隠蔽されるのである。そしてこれは、生産の側から資本主義の運動をとらえるマルクス主義には、消費をどう認識するかというのがきっちり認識できていない、(のか?)
お客様の笑顔のためなら、低賃金でも、長時間労働でもがんばれるよね。このロジックに、どう対抗したらいいのだろう。もちろんそれを、「いやいや、論理のすり替えでしょ。それとこれとは別だから」という対応は、おそらく最も容易でかつ現実的に、考えられる。しかし、上記のような言説は、果たしてそれだけでよいのだろうか?
このように、結論が出てないまま数年が経ってしまいましたが、まだ結論出てない。私たちは欲望があり、それは市場の外から生まれてくるものもあれば、市場から作られてくるものもあるし、それらを区別することにとりたてて意味はない。ただ、欲望は満たされるとうれしくならないだろうか。そして願わくは、誰かが損をしなければなるべく欲望を満たしたいし、ひょっとすると誰かが損をしてしまっても、欲望を満たしたいと思わないだろうか。コンビニでスイーツを買うとき、いつも思う。この若い兄ちゃん姉ちゃんたちは、安いお給料で、死んだ目しながら、いっつも深夜から明け方にスイーツを買いに来る俺をよく対応してくれるなあ、と。でも別に、私がいなくなって彼らは仕事だからいなきゃいけないし、逆に私は、地元に戻った時に深夜の冷蔵庫に甘いものがないと、とりあえず困ってアヒル口をする。もう、深夜のスイーツ(笑)なしの人生なんて考えられない。うち、あんたなしでは生きていかれへんわ。
マックのお姉さんが、おそらく新入りのバイトの方だろうか、「いい、こうやってね、いっつも笑顔で対応してね、そうするとお客さまも喜んでくれるからね…」という調子で、後輩の子を指導してた。そのマックで金正日が亡くなったのだろうか。
ちょうど昨日、深夜にスイーツ(笑)を買いに行ったら、レジで3人の若い男女がだべってて、私がスイーツをおいたとき、「えっマジ、じゃあバイトやめんの?あっ、オニ盛りプリン260円です!」って言ってて、ええやん、なんかステキやん。私はニヤニヤしながら、「これが青春てやつか」――オードリー春日が、アメフト部の引退のときに最後の試合で負けたときに、若林を含む周りのみんなが泣いてたときに、一人だけニヤニヤしてたというシーンを回想――と深夜の寒い夜道を自転車でゆっくり漕いでいた。
明日は、戦争じゃあ!
→久しぶりの、なかなかの歌舞伎者ぞ。人生で一度は言ってみたい。
・公共性
公共性と、各種学問から見たその位置づけ。あくまで私の勝手なイメージ。
政治学…公共性!
経済学…公共性:お金をある程度持っている人たちのなんとはなしの雰囲気
社会学…公共性(笑)
スイーツ…スイーツ(笑)
・自民党と、(疑似的な)バイナリーコードの不成立
与党が信頼を要求し、野党は与党に対する不信をつきつける。信頼―不信は等価な交換ではないが、おおよそ二大政党制が成立している国では、与党になる可能性がある野党(を仮に一つに絞るとしたら)は疑似的に等価な位置づけ――イデオロギー的には違くても、中長期的に見たときの一国の安定という機能からみて――にある。
でも日本では、確かに長期にわたって自民党が信頼を得ていた。ただ、野党は、社会党があったときからこっち、与党をほとんど経験していなかった。社会党は、自民党にとって変わろうというよりは、共産党とイデオロギー的にどう違うかっていうことを気にしていたような印象。そうなると、確かに与党に対して不信を突き付けるのだが、そうとはいっても自民党内部での疑似政権交代――つまり首相が変わって、こまめに方針を転換する――が行われたので、野党は与党的にふるまうことが結果としてできなかったし、自民党内部でのタカ派―ハト派の対立がある意味で不信をも信頼に転換させる働きを担っていたと言える、のかもしれない。
そういうわけで、マスコミとしても、官僚としても、もちろん私たち有権者も、二大政党制というのをなんとなく大学とか新聞とかで聞いたことがありはするのだが、どことなくうーん、て言う感じになるかも。そして既存政党ではないという理由で――これって本当にそうなんだろうか?――新しい人が出てくるとそっちに惹かれるという。
どう考えたらいいだろうなあ。
・国家道具論、あるいは民主主義と資本主義の一致と不一致
国家道具論への批判としては、一応以下のようなものが考えられると思う。ただ、今になても国家は資本による支配の道具だなんて信じている人ってそんないないと思うから、あくまでメモ程度に。オッフェにレーニンの指摘が出てきたので。
萱野稔人によると、国家は暴力の運動である。資本が貨幣の運動であるように、国家も運動概念として規定できるのだから、道具ではない。以上。
あるいは、大衆社会が成立して一人一票の選挙権を有しているのだから、資本家よりも労働者階級の方が――実際、どちらでもない人の方がほぼ半数を占めているというのが歴史の示すところなのだが――多いのだから、彼らが仮に階級として連帯するなら、彼らの代表者を国会に送り出せるのだから、「支配の」道具ではない。そして実際、階級やらなんやらとしてある程度客観的に規定されるところの社会的属性と、本人の行動様式としての政治行動が完全に一致するとも言い難いので、道具という本質的な規定は退けられるかと。国家によるイデオロギー機能や、なんらかの媒体を用いた積極的なアジテーション(による国家の正当化)があったとしても、それをもって国家を支配の「道具」とするには、やや論理的にツメられてない。
あるいは、民主主義―資本主義が一致するという議論は、むしろ前提からして違「っていた」。民主主義が成立したのはつい最近で、そもそも古代ギリシアからブルジョア民主主義までは民主主義に対する不信があったわけで、自由主義からしたらむしろ民主主義はどこか不審であって、国家権力と大衆の迎合が結び付くことへの警戒感は、かなり大きいものだと言えるように思う。
・緊張
緊張したので、かなかなの動画を見た。先日、ダラダラしているときにたまたまかなかなに似ているAV女優さんを見つけてしまい、なぜかまじまじとその動画を見てしまった。私は、なにかとても悪いことをしたような気がして、パソコンを閉じた。かなかなは、とってもかわいい。女の人をかわいいって言っちゃいけないのは分かるのだが、きゃわいいんでしゅね〜。いつも同じ動画をようつべで見るのに、毎日のようにニヤニヤしながら見てしまう。
ちなみに、私はAV女優さん、とさん付けを自分に義務付けている。彼女たちの方が、おそらく間違いなく日本経済(彼女たちの動画を買う人もそうだし、彼女たちが使うお金もそうだ)に貢献してるし、おそらくこの人たちのおかげで「このおかげで明日も生きていける」と思っている人もいるだろうし、要するに私より人様の訳に立ってるから。私はよくウィキペディアとか2ちゃんの類を見るんだが、そこでAV女優さんのプロフィールとか見てて、壮絶な人生を送ってる人もなかにはいて、そう言う人に対して――もちろん直接じゃないけど――「そういうのに出るのはよくない」とか、「そういうのに出るのって、どこかおかしい」という議論をするのが、どうにも許せない。
もちろん、そういう仕事「でしか」食っていけないのだとしたら、本人が悪いんじゃない。そういった仕事を、きちんと各種の法律で規制していくことが必要だし、それとは決して矛盾しないわけだから、労働条件を整備すべきであろう。そして道徳的にしか批判できないくらいだったら、その仕事を全廃させるように運動をすべきだし、そうしないんだったらその仕事の労働条件をよくなるように運動するべきだ。その両方をしないでただキレイゴトを言うだけだったら、何も言わない方がいいと思う。生産的じゃないから。
なぜか、書いてて急に熱くなってしまった。とにかく、一言で言うと、かなかながかわいいっていう話だった。
・150年間
マルクスが150年以上読まれ続けてきて分かったことは、「共産主義」への革命(マルクス・エンゲルス,1848)を、「反資本主義」へという宣言(カリニコス)に変えることだった。
・賃労働―資本
賃労働―資本は、根本的に権力関係が存在している。しかし、仮にこの関係を生産関係とするとしたら、消費関係における労働者―消費者というのは、別に権力的ではない。貨幣を有している人が商品を購入するのだから、消費者の方が優位にあることはいえるが、別にだからと言って消費者が労働者、あるいは生産者(総体?)に優位にあるわけではない。
ポストフォーディズムにおいては、もちろん様々な変化がある。そのひとつに、消費者への労働者のアイデンティファイである。いつもお客様のことを考え、お客様の笑顔のために、お客様の喜んだ顔が見たくて…そうそうみなさん、ワタミの社長の顔が浮かんできたでしょう、となぜか突然のステマ。
さて、このような消費者への労働者のアイデンティファイは、どのように認識したらよいのだろうか。先も見たように、消費者は労働者に対して権力的ではない。しかし、労働者が積極的に消費者にアイデンティファイすることで、賃労働―資本という先に見た権力性が隠蔽されるのである。そしてこれは、生産の側から資本主義の運動をとらえるマルクス主義には、消費をどう認識するかというのがきっちり認識できていない、(のか?)
お客様の笑顔のためなら、低賃金でも、長時間労働でもがんばれるよね。このロジックに、どう対抗したらいいのだろう。もちろんそれを、「いやいや、論理のすり替えでしょ。それとこれとは別だから」という対応は、おそらく最も容易でかつ現実的に、考えられる。しかし、上記のような言説は、果たしてそれだけでよいのだろうか?
このように、結論が出てないまま数年が経ってしまいましたが、まだ結論出てない。私たちは欲望があり、それは市場の外から生まれてくるものもあれば、市場から作られてくるものもあるし、それらを区別することにとりたてて意味はない。ただ、欲望は満たされるとうれしくならないだろうか。そして願わくは、誰かが損をしなければなるべく欲望を満たしたいし、ひょっとすると誰かが損をしてしまっても、欲望を満たしたいと思わないだろうか。コンビニでスイーツを買うとき、いつも思う。この若い兄ちゃん姉ちゃんたちは、安いお給料で、死んだ目しながら、いっつも深夜から明け方にスイーツを買いに来る俺をよく対応してくれるなあ、と。でも別に、私がいなくなって彼らは仕事だからいなきゃいけないし、逆に私は、地元に戻った時に深夜の冷蔵庫に甘いものがないと、とりあえず困ってアヒル口をする。もう、深夜のスイーツ(笑)なしの人生なんて考えられない。うち、あんたなしでは生きていかれへんわ。
マックのお姉さんが、おそらく新入りのバイトの方だろうか、「いい、こうやってね、いっつも笑顔で対応してね、そうするとお客さまも喜んでくれるからね…」という調子で、後輩の子を指導してた。そのマックで金正日が亡くなったのだろうか。
ちょうど昨日、深夜にスイーツ(笑)を買いに行ったら、レジで3人の若い男女がだべってて、私がスイーツをおいたとき、「えっマジ、じゃあバイトやめんの?あっ、オニ盛りプリン260円です!」って言ってて、ええやん、なんかステキやん。私はニヤニヤしながら、「これが青春てやつか」――オードリー春日が、アメフト部の引退のときに最後の試合で負けたときに、若林を含む周りのみんなが泣いてたときに、一人だけニヤニヤしてたというシーンを回想――と深夜の寒い夜道を自転車でゆっくり漕いでいた。
明日は、戦争じゃあ!
オッフェの福祉国家論
復習および復讐。
Changes for the bettr、昨日より、よりよい今日へ。どうもみなさんこんにちは、このたび三菱電機の宣伝部の手下になりました山本アリエッティです。ステマをするアリエッティ、ステマッティとお呼びいただければと思います。
オッフェについてしばらく勉強していて、その分娩を終えていた私は、いま改めて、オッフェという子のかわいさが分かるようになった。一生が終わるまでに、こういう瞬間が一瞬でも一度でも多かったら、私の人生はよかったと思える。オッフェを読んでいてよかった。今日、ようやっと、オッフェの福祉国家論がそれなりに理解できた気がしてきた。別にそれは勘違いでもいい。また後から振り返った時にそう思えばいいのだ。
昨日、オッフェ読んで分からなかったところを、今日一日のおいとまをいただきまして、読み直した次第でございます。その結果、オッフェの80年代半ばまでの福祉国家論としては、おおよそ以下のような議論が提示できるかと。もしかしたら見えない文字(やじるし、記号)を使うかもしれないけど、見れなかったら書きなおします。
おおわく。
@資本主義―民主主義は対立するのか?
A対立する…(資本主義以前からの経済体制も含めても)ブルジョア民主主義の成立まで
↓
B対立しない…レーニン(国家道具論)、ケインズ主義
↓
C対立する…福祉国家批判
AなぜBにて資本主義―民主主義は対立しなくなったのか?
普通選挙制の拡大→大衆社会
政党制…与党になろうと政党競争が生じる:政治の経済化(政治に競争原理が入り込む)
ケインズ主義…政治による資源配分:経済の政治化(経済が政治的課題となる)
BなぜCにて資本主義―民主主義が対立するようになったのか?
福祉国家批判
右派…賃労働:社会保障が生産性を下げる+資本:税が重いから投資しにくくなる
左派…国家による福祉:非効率的、抑圧的、体制の正当化
→方向性は違えど、批判という点において、そして(この時点では)明確なオルタナティブがない・実行に至らないという点で、右派―左派は共通
新しい社会運動→福祉社会…新中間層、社会的周辺にある人
↑
労働の変容
↓
ネオコーポラティズム→福祉国家維持…労働組合、主導産業
↑ ↓
政党の中立化 ↓
↓ ↓
政党の自己言及化→ネオレッセフェール…資本家、新中間層
以下、重要であろうことを補足&メモ。
・福祉国家批判を背景に、政党が中立化するわけだが、これはイデオロギー色を弱め、既存の支持者を受動的にし、集合的アイデンティティを崩してしまう。市民は、階級や政治的志向や政治的要求を抽象化されて、「市民」として認識される。これは市民の側に集合的アイデンティティを喪失させることになり、このことが、新しい社会運動がひとつのアイデンティティを形成する背景となる。
→オッフェとメルッチを対比して構造的視点を強調する議論が存在するが、オッフェにおいても集合的アイデンティティは軽視されていない
*1レーニンの、「前衛による、階級的基盤の維持−修正主義批判の補完」
*2ローザ、ウェーバー、ミヘルスによる「党(官僚)―大衆」関係と3人のその後
[付記]
・オッフェはコーポラティズムに対して両義性を抱いている。
・新保守主義者と新しい社会運動は、政治概念の幅をめぐって対立している。
・集合的アイデンティティを内部的に破壊してしまうのが競争政党化、外部から(ネオリベから左翼へと)集合的アイデンティティを崩すのが脱組織化。
・福祉国家の変容は、Cにて検討したような、福祉国家への維持・批判の諸勢力のヘゲモニー関係としてとらえられよう。レッセフェール、福祉国家の(再編を含む)維持、福祉社会という3つの方向性の対立・共犯関係によって決定されるといえる。(そしてこれは、今もそうだ。)その決定の(方向性ではなく、方向づける基準となる)水準として、@表面に現れる政治的対立A社会権力のマトリクス、B社会的権力配分の3つがある。
*新しい社会運動の位置づけ(引用以外は、オッフェの議論ではない。)
「これらの運動の思想と行動で優勢なのは、望ましい社会体制を達成しなければならないといった「進歩的」ユートピアではなく、譲渡できない本質的なものが「進歩」の名において犠牲にされてはならないという「保守的」ユートピアなのである。」(Offe 1988:288)
実は、新しい社会運動は、右派―左派という枠組みを超えるものという性格ばかりでない。そしてさらに、これまで指摘されたように、新しい社会運動が左派的なものである、というばかりでない。というのもそれは、保守的でもあるからである。そしてこの点こそ、新しい社会運動の位置づけを困難にする。
広井良典が、彼は福祉社会の主導的な理論家であるが、おもしろいことを新聞のインタビューで語っていた。新しい社会運動や様々な社会問題(運動とも一部重なるが、環境問題や遺伝子技術に関するイシュー)が出てきて、政治哲学が再興してきた。コミュニタリア二ズム(、それに対置されるようなリバタリア二ズムなど)が挙げられようが、これらには個人と共同体を語っていて、どこか保守的な印象も抱かせる。(そして事実、コミュニタリア二ズムの中には保守的な論者もいることだろう)そこにおいては、改めて保守思想が振り返られなければならないのではないか、とだいたいそんな内容である。
私としては、なるほどな、と思わされた。そして他方で、「うーむ」と腕組みをしてしまう。おそらく大方の政治学者、そして一部の(?)社会学者は、苦虫をかみつぶしたような顔をするかもしれない。あの、いまいましい、戦後政治学の課題となり続けた戦前の「天皇制権威主義」および戦後の自民党の長期支配を草の根的に支えた、「保守」なるものを評価しろと!この点、官僚出身で研究者になった広井の筆は鮮やかと言わざるを得ない。
ただ、そうした個人の色々な思いはさておくにしても、これはおそらくやらなければならない仕事なのだろうと思う。レーニンのように、あらゆるものをプロレタリアートとブルジョアのイデオロギーに分け、その二項図式の下であらゆる事象を分析するというのは、少なくとも今となっては有効でないものも生じているように思う。新しい社会運動しかり、政策課題でいえば少子高齢化しかり。
個人的には、保守思想は無内容だから恐ろしいと思っている、といつか書いた気がする。空虚な記号だからこそ、なんでもかんでも入ってきてしまうのだと。(そういう意味では、空虚な記号に基づくヘゲモニー論の、裏返しのような気もする。)しかし、どのように議論するにしろ、保守とはなんぞやという一応の思想体系を示しておかないといけないと思う。いったい私たちがなにをやっているのかを分析するための道具として保守思想を用いるのには、今の社会科学の用語はあまりいい武器のように思われない。
とかいって。現代の保守思想って、いったい誰を読めばいいんだ??
Changes for the bettr、昨日より、よりよい今日へ。どうもみなさんこんにちは、このたび三菱電機の宣伝部の手下になりました山本アリエッティです。ステマをするアリエッティ、ステマッティとお呼びいただければと思います。
オッフェについてしばらく勉強していて、その分娩を終えていた私は、いま改めて、オッフェという子のかわいさが分かるようになった。一生が終わるまでに、こういう瞬間が一瞬でも一度でも多かったら、私の人生はよかったと思える。オッフェを読んでいてよかった。今日、ようやっと、オッフェの福祉国家論がそれなりに理解できた気がしてきた。別にそれは勘違いでもいい。また後から振り返った時にそう思えばいいのだ。
昨日、オッフェ読んで分からなかったところを、今日一日のおいとまをいただきまして、読み直した次第でございます。その結果、オッフェの80年代半ばまでの福祉国家論としては、おおよそ以下のような議論が提示できるかと。もしかしたら見えない文字(やじるし、記号)を使うかもしれないけど、見れなかったら書きなおします。
おおわく。
@資本主義―民主主義は対立するのか?
A対立する…(資本主義以前からの経済体制も含めても)ブルジョア民主主義の成立まで
↓
B対立しない…レーニン(国家道具論)、ケインズ主義
↓
C対立する…福祉国家批判
AなぜBにて資本主義―民主主義は対立しなくなったのか?
普通選挙制の拡大→大衆社会
政党制…与党になろうと政党競争が生じる:政治の経済化(政治に競争原理が入り込む)
ケインズ主義…政治による資源配分:経済の政治化(経済が政治的課題となる)
BなぜCにて資本主義―民主主義が対立するようになったのか?
福祉国家批判
右派…賃労働:社会保障が生産性を下げる+資本:税が重いから投資しにくくなる
左派…国家による福祉:非効率的、抑圧的、体制の正当化
→方向性は違えど、批判という点において、そして(この時点では)明確なオルタナティブがない・実行に至らないという点で、右派―左派は共通
新しい社会運動→福祉社会…新中間層、社会的周辺にある人
↑
労働の変容
↓
ネオコーポラティズム→福祉国家維持…労働組合、主導産業
↑ ↓
政党の中立化 ↓
↓ ↓
政党の自己言及化→ネオレッセフェール…資本家、新中間層
以下、重要であろうことを補足&メモ。
・福祉国家批判を背景に、政党が中立化するわけだが、これはイデオロギー色を弱め、既存の支持者を受動的にし、集合的アイデンティティを崩してしまう。市民は、階級や政治的志向や政治的要求を抽象化されて、「市民」として認識される。これは市民の側に集合的アイデンティティを喪失させることになり、このことが、新しい社会運動がひとつのアイデンティティを形成する背景となる。
→オッフェとメルッチを対比して構造的視点を強調する議論が存在するが、オッフェにおいても集合的アイデンティティは軽視されていない
*1レーニンの、「前衛による、階級的基盤の維持−修正主義批判の補完」
*2ローザ、ウェーバー、ミヘルスによる「党(官僚)―大衆」関係と3人のその後
[付記]
・オッフェはコーポラティズムに対して両義性を抱いている。
・新保守主義者と新しい社会運動は、政治概念の幅をめぐって対立している。
・集合的アイデンティティを内部的に破壊してしまうのが競争政党化、外部から(ネオリベから左翼へと)集合的アイデンティティを崩すのが脱組織化。
・福祉国家の変容は、Cにて検討したような、福祉国家への維持・批判の諸勢力のヘゲモニー関係としてとらえられよう。レッセフェール、福祉国家の(再編を含む)維持、福祉社会という3つの方向性の対立・共犯関係によって決定されるといえる。(そしてこれは、今もそうだ。)その決定の(方向性ではなく、方向づける基準となる)水準として、@表面に現れる政治的対立A社会権力のマトリクス、B社会的権力配分の3つがある。
*新しい社会運動の位置づけ(引用以外は、オッフェの議論ではない。)
「これらの運動の思想と行動で優勢なのは、望ましい社会体制を達成しなければならないといった「進歩的」ユートピアではなく、譲渡できない本質的なものが「進歩」の名において犠牲にされてはならないという「保守的」ユートピアなのである。」(Offe 1988:288)
実は、新しい社会運動は、右派―左派という枠組みを超えるものという性格ばかりでない。そしてさらに、これまで指摘されたように、新しい社会運動が左派的なものである、というばかりでない。というのもそれは、保守的でもあるからである。そしてこの点こそ、新しい社会運動の位置づけを困難にする。
広井良典が、彼は福祉社会の主導的な理論家であるが、おもしろいことを新聞のインタビューで語っていた。新しい社会運動や様々な社会問題(運動とも一部重なるが、環境問題や遺伝子技術に関するイシュー)が出てきて、政治哲学が再興してきた。コミュニタリア二ズム(、それに対置されるようなリバタリア二ズムなど)が挙げられようが、これらには個人と共同体を語っていて、どこか保守的な印象も抱かせる。(そして事実、コミュニタリア二ズムの中には保守的な論者もいることだろう)そこにおいては、改めて保守思想が振り返られなければならないのではないか、とだいたいそんな内容である。
私としては、なるほどな、と思わされた。そして他方で、「うーむ」と腕組みをしてしまう。おそらく大方の政治学者、そして一部の(?)社会学者は、苦虫をかみつぶしたような顔をするかもしれない。あの、いまいましい、戦後政治学の課題となり続けた戦前の「天皇制権威主義」および戦後の自民党の長期支配を草の根的に支えた、「保守」なるものを評価しろと!この点、官僚出身で研究者になった広井の筆は鮮やかと言わざるを得ない。
ただ、そうした個人の色々な思いはさておくにしても、これはおそらくやらなければならない仕事なのだろうと思う。レーニンのように、あらゆるものをプロレタリアートとブルジョアのイデオロギーに分け、その二項図式の下であらゆる事象を分析するというのは、少なくとも今となっては有効でないものも生じているように思う。新しい社会運動しかり、政策課題でいえば少子高齢化しかり。
個人的には、保守思想は無内容だから恐ろしいと思っている、といつか書いた気がする。空虚な記号だからこそ、なんでもかんでも入ってきてしまうのだと。(そういう意味では、空虚な記号に基づくヘゲモニー論の、裏返しのような気もする。)しかし、どのように議論するにしろ、保守とはなんぞやという一応の思想体系を示しておかないといけないと思う。いったい私たちがなにをやっているのかを分析するための道具として保守思想を用いるのには、今の社会科学の用語はあまりいい武器のように思われない。
とかいって。現代の保守思想って、いったい誰を読めばいいんだ??
2012年02月05日
田村哲樹『国家・政治・市民社会』.
うーむ。やはりこの本を繰り返し繰り返し読んでおけばよかった。
田村哲樹,2002,『国家・政治・市民社会――クラウス・オッフェの政治理論』青木書店.
オッフェ。
先に全て邦訳のあるオッフェを読んでからと思ったけど、こっちのほうがボリュームもあるんで、先に。2回くらい読んでたはずなんだけど、やっぱり分かってないところが多くあったことは分かった。
・国家―市民社会それ自体の議論がほしい。(ただ、こうした「お願い」は私の努力によって埋め合わせるべきものだろうか。)そもそもそれは、包含関係にあるのか、対立関係にあるのか、入り組んでるのか。コーエン・アラート、ムフ、パットナム、オッフェ。読んでてどうも、腑に落ちるという感じではなかった。
・集合的アイデンティティの重要さに気づいてなかった。しかしながら、政党にしろ新しい社会運動の組織にしろ、アソシエーションなるものが、理念的なものなのかそういったものに関わるのかあるいはもうそのようにみなしてよいのか、分からん。アソシエーションの条件については書かれているものの…もちろん賛同はできるのだが、こうした規範論てどうも好きになれないんだなあ。
・福祉国家の変容。
オッフェの中期と位置付けられるのが5章。新保守主義を中心とする福祉国家批判が7章。福祉国家の変容、労働の変容→ネオコーポラティズムと新しい社会運動、抑圧(原語はRepressionなのだが、システム制御を強くするという意味らしい)。方法論的個人主義と脱組織化。これをきっちり押さえれば、おおよそ私の知りたいこととしては十分なんだが、かなり急いで読んだので、いまきちんとした文章にできるほど理解できてない。ここだけでも読みなおさないと。
ブルガーイニシアチーベンは市民運動という訳が(他の人の訳で)なされていたが、それって正しいのだろうか。仮に正しいものだとして、その位置づけが、資本主義的な再生産以外の再生産のありかたを要求するものだという議論は、なるほどなあと思った。でも70年の時点の議論だから、それと福祉国家の変容はどう関連しているのかが私は理解できてない。
・ウェーバーの影響→ウェーバーも読もう。
前期においては官僚的合理性(システム合理性はおそらくルーマン。しかし、システム概念の淵源をウェーバーに見る人もいるから、いずれにせよウェーバーからは強い影響。)、後期においては責任倫理。
あと、ルーマンつながりでいうと、システム論的国家論(制御論)とオッフェのポスト国家的制御の比較は、システム論と行為論という方法論的相違があるわけだから、システム論には作為がないって、そりゃあそうでしょうよ。ハバーマスがルーマンの弟子を批判していたけど、あんたはルーマンに同じことを言ってただろうっていう。このあたり、どうも内在的な批判じゃない。好きじゃない。比較のための比較であって、ルーマンの首根っこもって「じゃあお前はどうやって制御するっていうんだよ!」という批判は、意味がない。
・後期のスタンスはなぜそうなっちゃうの
新保守主義が解釈の政治をするから、既存の左翼みたいに議会制批判だけしててもだめで、同じ土壌で勝負しないとというのは、まあ確かにそうなんだが、そうなると結局ヘゲモニーで負けてる以上、オッフェの立場としての「民主主義的左翼」に勝ち目はないと思うのだが。BIを主張するその背景や理由は賛同できるのだが、BIという答えには賛同できないというところは、やはり方法論的個人主義に立って、相手と同じやり方で戦うというところにあるのかと。うーむ。
で、このなんとはなしの違和感というのは、あえて曲解してみると、このような背景があるのではないだろうか…
目的意識→議論の展開の仕方として、
初期:福祉国家批判をしようとした→福祉国家の内的メカニズムを思考→逆に福祉国家の不可逆性に
→隘路に。これで方法論の転換。(この因果関係が設定できるかはまた別の議論だが…)
後期:制御を可能にしようとした→方法論的個人主義に基づく解釈の政治→制御の可能性
→こうやってしまうと、目的意識→議論展開となっていたのが、議論の隘路→目的意識の転換→方法論の転換となって、別にそれ自体を悪いとは思わないんだが、「国家的制御ができない」から「制御ができるようにするにはどうしたらいいだろう」となって、どこか議論が倒錯してしまったような気がするのだが…国家的制御を批判したかった目的意識はどこにいったんだ。オッフェ自身は、この転換には肯定的なのだろうか。(まあそりゃあ肯定的だろうけども。)
勉強になった。もっと繰り返し読んでおくべき「だった」。そう遅くならないうちにもう一回くらいは読んでおこう。私が分からないところについても整理してくれているところが何箇所もあった。「それはその人の整理であって、オッフェ本人の議論とは別だから」という批判も考えられるが、オッフェ読んで分かんないんだから、他の人のオッフェ解釈をたどるほかない。そうやってやってって、オッフェが理解できるようになったら改めてそういった他の人の議論を批判すべきで、私は遠回りをしてしまっていたかもしれない。でも、こういう話をし始めると循環に陥るから、結局は知ってる人に教えてもらいながら組織的にやっていくというのが常道になるんでしょうな。
オッフェを理解できていないくせに、私がオッフェと似たようなことを考えているところ「も」あって、意外な発見だった。これはオッフェに固有の議論「であるがゆえに」というよりは、やはり現代政治の議論は大枠そうなのかもしれないなあ。
俺はこんなことしか書けないのか。
田村哲樹,2002,『国家・政治・市民社会――クラウス・オッフェの政治理論』青木書店.
オッフェ。
先に全て邦訳のあるオッフェを読んでからと思ったけど、こっちのほうがボリュームもあるんで、先に。2回くらい読んでたはずなんだけど、やっぱり分かってないところが多くあったことは分かった。
・国家―市民社会それ自体の議論がほしい。(ただ、こうした「お願い」は私の努力によって埋め合わせるべきものだろうか。)そもそもそれは、包含関係にあるのか、対立関係にあるのか、入り組んでるのか。コーエン・アラート、ムフ、パットナム、オッフェ。読んでてどうも、腑に落ちるという感じではなかった。
・集合的アイデンティティの重要さに気づいてなかった。しかしながら、政党にしろ新しい社会運動の組織にしろ、アソシエーションなるものが、理念的なものなのかそういったものに関わるのかあるいはもうそのようにみなしてよいのか、分からん。アソシエーションの条件については書かれているものの…もちろん賛同はできるのだが、こうした規範論てどうも好きになれないんだなあ。
・福祉国家の変容。
オッフェの中期と位置付けられるのが5章。新保守主義を中心とする福祉国家批判が7章。福祉国家の変容、労働の変容→ネオコーポラティズムと新しい社会運動、抑圧(原語はRepressionなのだが、システム制御を強くするという意味らしい)。方法論的個人主義と脱組織化。これをきっちり押さえれば、おおよそ私の知りたいこととしては十分なんだが、かなり急いで読んだので、いまきちんとした文章にできるほど理解できてない。ここだけでも読みなおさないと。
ブルガーイニシアチーベンは市民運動という訳が(他の人の訳で)なされていたが、それって正しいのだろうか。仮に正しいものだとして、その位置づけが、資本主義的な再生産以外の再生産のありかたを要求するものだという議論は、なるほどなあと思った。でも70年の時点の議論だから、それと福祉国家の変容はどう関連しているのかが私は理解できてない。
・ウェーバーの影響→ウェーバーも読もう。
前期においては官僚的合理性(システム合理性はおそらくルーマン。しかし、システム概念の淵源をウェーバーに見る人もいるから、いずれにせよウェーバーからは強い影響。)、後期においては責任倫理。
あと、ルーマンつながりでいうと、システム論的国家論(制御論)とオッフェのポスト国家的制御の比較は、システム論と行為論という方法論的相違があるわけだから、システム論には作為がないって、そりゃあそうでしょうよ。ハバーマスがルーマンの弟子を批判していたけど、あんたはルーマンに同じことを言ってただろうっていう。このあたり、どうも内在的な批判じゃない。好きじゃない。比較のための比較であって、ルーマンの首根っこもって「じゃあお前はどうやって制御するっていうんだよ!」という批判は、意味がない。
・後期のスタンスはなぜそうなっちゃうの
新保守主義が解釈の政治をするから、既存の左翼みたいに議会制批判だけしててもだめで、同じ土壌で勝負しないとというのは、まあ確かにそうなんだが、そうなると結局ヘゲモニーで負けてる以上、オッフェの立場としての「民主主義的左翼」に勝ち目はないと思うのだが。BIを主張するその背景や理由は賛同できるのだが、BIという答えには賛同できないというところは、やはり方法論的個人主義に立って、相手と同じやり方で戦うというところにあるのかと。うーむ。
で、このなんとはなしの違和感というのは、あえて曲解してみると、このような背景があるのではないだろうか…
目的意識→議論の展開の仕方として、
初期:福祉国家批判をしようとした→福祉国家の内的メカニズムを思考→逆に福祉国家の不可逆性に
→隘路に。これで方法論の転換。(この因果関係が設定できるかはまた別の議論だが…)
後期:制御を可能にしようとした→方法論的個人主義に基づく解釈の政治→制御の可能性
→こうやってしまうと、目的意識→議論展開となっていたのが、議論の隘路→目的意識の転換→方法論の転換となって、別にそれ自体を悪いとは思わないんだが、「国家的制御ができない」から「制御ができるようにするにはどうしたらいいだろう」となって、どこか議論が倒錯してしまったような気がするのだが…国家的制御を批判したかった目的意識はどこにいったんだ。オッフェ自身は、この転換には肯定的なのだろうか。(まあそりゃあ肯定的だろうけども。)
勉強になった。もっと繰り返し読んでおくべき「だった」。そう遅くならないうちにもう一回くらいは読んでおこう。私が分からないところについても整理してくれているところが何箇所もあった。「それはその人の整理であって、オッフェ本人の議論とは別だから」という批判も考えられるが、オッフェ読んで分かんないんだから、他の人のオッフェ解釈をたどるほかない。そうやってやってって、オッフェが理解できるようになったら改めてそういった他の人の議論を批判すべきで、私は遠回りをしてしまっていたかもしれない。でも、こういう話をし始めると循環に陥るから、結局は知ってる人に教えてもらいながら組織的にやっていくというのが常道になるんでしょうな。
オッフェを理解できていないくせに、私がオッフェと似たようなことを考えているところ「も」あって、意外な発見だった。これはオッフェに固有の議論「であるがゆえに」というよりは、やはり現代政治の議論は大枠そうなのかもしれないなあ。
俺はこんなことしか書けないのか。
ジョージ・ポットマン平成史「マンガの汗」史
ジョージ・ポットマン平成史「マンガの汗」史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%B9%B3%E6%88%90%E5%8F%B2
けっこう方向性変わったみたい?マンガに汗が描かれなくなったっていうストーリー。
野球マンガ、カイジ、源氏物語など。相変わらずデティールへのボケの入り方に力がはいっている…
この番組ではよくあることなのだが、汗の位置づけが欧米と対比される。階級社会にて貴族が労働を忌避することから汗が嫌われるが、日本では気候や風呂の慣習もあって汗を好む文化として表象される。蓮沼門三という喜多方出身の愛汗運動エピソード。ラジオ体操の普及も相まって、汗=勤労というイメージの下、これが歌謡曲などにも用いられるようになる。マンガ、歌謡曲、ポカリなど。
ではなぜ、平成に入って汗が好まれなくなったのであろうか。第一に、肉食という食生活の変化である。肉を食べるようになると、そのぶん汗が臭くなるらしい(昭和40年代と比較して、およそ3倍らしい)。第二に、「がんばってる奴はスベってる」という発想の台頭。「がんばらない」という流行語をつけた本が、平成になって急速に増えたらしい。そしてなぜかゴールデンボンバーのインタビュー。
ゴールデンボンバーは、演奏は他の人に任せているらしい。このような(?)、頑張らない文明はバブル後の大量解雇や終身雇用の揺らぎがある。これがマンガなどにも影響を与えたとのことである。ドラゴンボール(修行)に対するワンピース(悪魔の実)、デスノート(ノート)、モテキ(人生に何度か来る期間)。
CMが多いのは特徴だが、割に内容が「長期にわたる不景気だから…」という感じで切っていく感じになったなあ。
修養団てウィキありましたな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A4%8A%E5%9B%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%B9%B3%E6%88%90%E5%8F%B2
けっこう方向性変わったみたい?マンガに汗が描かれなくなったっていうストーリー。
野球マンガ、カイジ、源氏物語など。相変わらずデティールへのボケの入り方に力がはいっている…
この番組ではよくあることなのだが、汗の位置づけが欧米と対比される。階級社会にて貴族が労働を忌避することから汗が嫌われるが、日本では気候や風呂の慣習もあって汗を好む文化として表象される。蓮沼門三という喜多方出身の愛汗運動エピソード。ラジオ体操の普及も相まって、汗=勤労というイメージの下、これが歌謡曲などにも用いられるようになる。マンガ、歌謡曲、ポカリなど。
ではなぜ、平成に入って汗が好まれなくなったのであろうか。第一に、肉食という食生活の変化である。肉を食べるようになると、そのぶん汗が臭くなるらしい(昭和40年代と比較して、およそ3倍らしい)。第二に、「がんばってる奴はスベってる」という発想の台頭。「がんばらない」という流行語をつけた本が、平成になって急速に増えたらしい。そしてなぜかゴールデンボンバーのインタビュー。
ゴールデンボンバーは、演奏は他の人に任せているらしい。このような(?)、頑張らない文明はバブル後の大量解雇や終身雇用の揺らぎがある。これがマンガなどにも影響を与えたとのことである。ドラゴンボール(修行)に対するワンピース(悪魔の実)、デスノート(ノート)、モテキ(人生に何度か来る期間)。
CMが多いのは特徴だが、割に内容が「長期にわたる不景気だから…」という感じで切っていく感じになったなあ。
修養団てウィキありましたな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A4%8A%E5%9B%A3
2012年02月04日
とちゅう:武川正吾『社会政策の社会学』.[2.5]
武川正吾,2009,『社会政策の社会学――ネオリベラリズムの彼方へ』ミネルヴァ書房.
武川さん3冊目。後半を残している奴は、遅くならないうちに読みます、たぶん。
厚さが大変なことになってる(んでこれが凶器に使われないか心配です。)んで、とりあえず一読してみる。もし読み改める機会があれば、文章を改めて書いてみたい。
1部→社会政策の理論的検討
2部→社会政策の各論…住宅、地域政策、高齢者に関連する各章
3部→社会政策の実証
・1部まで読んだ。
2章が社会政策の基礎付け、3章が社会計画の話で、どちらも現在流行しているテーマとは言い難い(のかな?)し、本人としてもやや時代遅れ感があることを書いていた。でも、あとがき的につけられた文章で、なんとなく武川さんの目的意識が納得できて、個人的にはうれしかった。階級論を改めて検討してはいないのだろうか…
・5章までと、各章の追記を読んだ。
2部と3部は、それぞれを見てみれば『福祉社会の価値意識』と少なからず関連する議論だと見てよいだろう。2部が各論、3部が実証なので、『福祉社会〜』ではそれを年代的にリニューアルし、ひとつの体系的なデータの解説として改めたと言えるかと。
で一応、明日は明日で別に読みたいのがあるので、読む本もちゃんと読み切れないであまりよくないのだが、たぶんもう今日中には読み切れないので、簡単にメモ。
・社会計画の目的はなんなのかというのを知るためにも、マンハイムは読んでおきたい。マルクス主義が批判されて久しいが、イデオロギー論に象徴される、理解社会学の議論はやはりマンハイムを除いて語ることはできないみたいだ。逆に、現代でもイーグルトンはじめ多くの人がイデオロギーについては語っているが、イデオロギーとは何ぞやという根本の部分は、マンハイムの時点でおおよそ論点としては提出されているといってよいのではないか。とりあえず、あと数週間したらマンハイム読むべ。
・住宅政策は、やはり遅くならないうちに何冊かは読んでおいたほうがいい。国内需要としての住宅という観点と、社会政策としての住宅という観点は、戦後の長期経済成長下においてどのように認識されていたか?そして左派の戦略としての住宅政策への介入はどのようになされてきたか?この章(5章)だけでもかなり刺激的な論点があるかと。
・あと、あとがきにも書いてあったが、一人の論者(武川さんのこと)の研究の歩みが、日本の社会政策の長期的な変容過程とリンクしていることもあり、またその研究の射程の広さもあり、本書の位置づけは、もちろんこれが出たときもそれなりにあったのかもしれないが(残念ながら、私は研究者じゃないので、研究者内部での評価は分からない)、むしろ今後ますます高まっていくように思われる。社会政策史としてもそうだし、各論の大枠としてもそうだし、実証研究の蓄積という意味でもそう。これだけの人だから、将来的には全集みたいなものが出るのかもしれないけど、この一冊でもかなり重要なものとして認識されるべきだと思う。
→内容のない感想になってしまったが、とりあえず現時点での私にとっての優先度は高くないことは分かった。
現在、一生の途中。いま3章まで読んだ。5章プラスアルファでうちどめでござる。
厚いなあ…今日中に読み終えられるか?
武川さん3冊目。後半を残している奴は、遅くならないうちに読みます、たぶん。
厚さが大変なことになってる(んでこれが凶器に使われないか心配です。)んで、とりあえず一読してみる。もし読み改める機会があれば、文章を改めて書いてみたい。
1部→社会政策の理論的検討
2部→社会政策の各論…住宅、地域政策、高齢者に関連する各章
3部→社会政策の実証
・1部まで読んだ。
2章が社会政策の基礎付け、3章が社会計画の話で、どちらも現在流行しているテーマとは言い難い(のかな?)し、本人としてもやや時代遅れ感があることを書いていた。でも、あとがき的につけられた文章で、なんとなく武川さんの目的意識が納得できて、個人的にはうれしかった。階級論を改めて検討してはいないのだろうか…
・5章までと、各章の追記を読んだ。
2部と3部は、それぞれを見てみれば『福祉社会の価値意識』と少なからず関連する議論だと見てよいだろう。2部が各論、3部が実証なので、『福祉社会〜』ではそれを年代的にリニューアルし、ひとつの体系的なデータの解説として改めたと言えるかと。
で一応、明日は明日で別に読みたいのがあるので、読む本もちゃんと読み切れないであまりよくないのだが、たぶんもう今日中には読み切れないので、簡単にメモ。
・社会計画の目的はなんなのかというのを知るためにも、マンハイムは読んでおきたい。マルクス主義が批判されて久しいが、イデオロギー論に象徴される、理解社会学の議論はやはりマンハイムを除いて語ることはできないみたいだ。逆に、現代でもイーグルトンはじめ多くの人がイデオロギーについては語っているが、イデオロギーとは何ぞやという根本の部分は、マンハイムの時点でおおよそ論点としては提出されているといってよいのではないか。とりあえず、あと数週間したらマンハイム読むべ。
・住宅政策は、やはり遅くならないうちに何冊かは読んでおいたほうがいい。国内需要としての住宅という観点と、社会政策としての住宅という観点は、戦後の長期経済成長下においてどのように認識されていたか?そして左派の戦略としての住宅政策への介入はどのようになされてきたか?この章(5章)だけでもかなり刺激的な論点があるかと。
・あと、あとがきにも書いてあったが、一人の論者(武川さんのこと)の研究の歩みが、日本の社会政策の長期的な変容過程とリンクしていることもあり、またその研究の射程の広さもあり、本書の位置づけは、もちろんこれが出たときもそれなりにあったのかもしれないが(残念ながら、私は研究者じゃないので、研究者内部での評価は分からない)、むしろ今後ますます高まっていくように思われる。社会政策史としてもそうだし、各論の大枠としてもそうだし、実証研究の蓄積という意味でもそう。これだけの人だから、将来的には全集みたいなものが出るのかもしれないけど、この一冊でもかなり重要なものとして認識されるべきだと思う。
→内容のない感想になってしまったが、とりあえず現時点での私にとっての優先度は高くないことは分かった。
現在、一生の途中。いま3章まで読んだ。5章プラスアルファでうちどめでござる。
厚いなあ…今日中に読み終えられるか?
きゃぴたるふぇあべんどぅんぐ。
明日は荒れるんでしょうか。荒れるんでしょうなあ。
もしかしたら知らない人に叩かれるかもしれないので、適度にごまかして書く。具体的な人物名やら事項にもなるべく触れない。(まあでも読めば、分かる人は分かるんだけど、分からない人にはたぶん全く分からないかと。)
「何が悪いの?」と誰かに尋ねるとき、それはおそらく、「何も悪くないじゃない」というときと、「あ〜やっちまったな、完全にやっちまったよ」という両極端な意味合いが陰に陽に込められているような気がする。
以前にも書いたのかもしれないけど、何が悪いのかがよくわからない。一般的に言って、恋愛をすることが悪いわけない。いわんや、男性と一緒にいるところを写真に撮ったり、それをSNS媒体にアップすることが悪いわけない。
問題は、「何が問題だったのか」を明らかにせずに済ませていることだと思う。
第一に、説明責任を果たしていないということ。
徹底して説明責任を果たさずして、謝罪で済ませるのは、社会人だとしたら一番避けるべき行為だと思う。「〜というミスをしました。とにかくすいません。全て私が悪いです。二度と繰り返しません。本当に心から……」という言葉は、一見自分に対する責任を引き受け、誠実な謝罪のように思われるかもしれないが、全く逆である。理由を明確にせず、その状況に対する判断やプロセスを明らかにしないで、いったいなぜそのミスを繰り返さないと言えるのだろう。
恋愛をしたことなのか、その情報が漏れたことなのか。運営が管理しきれなかった責任を本人たちにしわ寄せした形なのか。過去に恋愛ネタで解雇された人もいれば、それっぽいのが出ちゃったけど謹慎やら出演の取り消しやらがあって許された人もいる。でも、恋愛ネタに限定すれば、全然売れてないころなんて誰も問題にしなかった(らしい)し、ある程度の「重さ」が明確になるような処罰が下されているわけではない。(ただ今回は、「イエローカードが何回か出ていた」というセリフも見られたように、運営やメンバーの中には知っていた人間もいるらしい。だとしたら、なおさら「なぜそれで?」ということが問われねばなるまい。)
今回の辞退は一番重い。(これを「自主退職」とかにしてたら、まさにその組織が現代の日本の労働市場を表しているようで笑うところだが。)休むでも、出演を取り消すでもなく、あるいは最近とりいれられた選挙による回復(この場合、過半数を超えるまでやり直すから、一番軽い罰ともいえる)もなされず、もう組織から除くということだからだ。その基準は、いったいなんなんだろう。
アイドルの仕事は、夢を売ることだという。異性のアイドルを応援する人が多いことを考えれば、そして当該の組織は中年男性を中心に莫大な利益を上げていることを考慮すれば、疑似恋愛や疑似的なパートナーシップを楽しむのが仕事であろう。私個人は、全くそれにお金を使っていないので実感としてよくわからないが、「ファンを裏切ったから」というのは、(もしそれを理由にしているとしたなら、)理由として果たして適切なのか。(繰り返すように、私は解雇をいいとも悪いとも思ってない。というか、どうでもいい。メシを食う時にようつべで何を見るかというのを基準にしたら、私はAKBもオードリーも立川談志も等価値であって、別になにかがなくなったらなにかで埋め合わせるだけである。)
そもそも、若い女性が恋愛しないわけないし、それが場合によっては肉体関係があることもあることって別にそんな稀なことじゃない。個人的には、むしろそれで最高のパフォーマンスができると思うなら、法を破らなければ、誰にも制限されることじゃないと思う。リーダーもプロデューサーも、「一般論として悪いんじゃなくて、この組織だから」という限定をつけていたが、組織のロジックとしても貫徹されていない以上、そのような制限を付ける意味がない。
あるいは、「評価が下がるから」という理由であるのなら、それが適切なのかどうかそれこそ投票で決めればいいことだ。太ってしまって人気が相対的に減った人もいれば、「選挙の裏側」を映像で流した際に悪態をついて叩かれた人もいる。そういった悪評と、今回の悪評は、機能的に等価ではないのか。
総選挙しかり、運営の数人との開かれたコミュニケーションの場やツールがあり、当該の人々にも直接コミュニケーションをとれるのが、当該の組織の特徴の一つだと思われる。選挙が、国家制度としてのそれが一人一票であるのに対して、その組織は「財産制」とモチベーションによって票が決定できるという違いはあるにせよ、ある場における支配者―非支配者を循環的に決定することができるという点では、共通している。ある程度組織が大きくなればその循環が上手くいかなかったり、どうしても問題が生じることはおそらく誰しも理解できるだろうが、なぜその「大問題」が生じたときに、そのシステムを活用しないのか。
第二に、「表と裏」というセットは間違いだということ。
ライブで元気に歌って踊って…が表だとしたら、みんなでご飯食べてるとか、ライブのメイキング映像で「どうしたらいいかわかりません」といいながらゼーゼーしている中心メンバーの様子は、裏なのだろう。しかしそれらは、ブログやらDVDという形で「編集」され、世に出されている以上、表なのだ。つまり私たちが見ているのは、表―裏というセットではなくて、見せていい表―見せていい裏つまり表というセットなのだ。本当にまずいことをしているとしたら、おそらくもっと処罰が重くなるはずだろう。(飲酒してる疑いで謹慎してた人がいたが、結局ごまかしごまかしで復帰した。)
「あなたのすべてが知りたい」なんて言ったりするけど、実際にはそんなの不可能であることは誰でも分かっている。起きて、仕事をして、メシ食って、風呂入って…という一日のサイクルを、極限まで公開・共有することはできるが、むしろそこで私たちが気付くのは、「すべてを見ることはできないのだ」という厳然たる事実である。そこにおいて、アイドルの「全て」を知りたいと思う人は、実際には「私が知りたい全て」を知りたいと思っているのだ。もし「〜ちゃんのことなら何でも知りたい」というのであれば、それこそ一緒に住み、全く同じ行動をとり、その価値観や判断に全て賛成するというのでなければおかしいだろう。しかしそんなことをとりえないことが、明らかになってしまった。
小屋で見る。大きい会場で見る。テレビで見る。ラジオで聴く。握手会で会える。ブログやツイッターでなにをしているか分かる。ぐぐたすまで含めれば、恐ろしいほど綿密に、当人の行動は把握できる。しかし、その間隙なき空間こそ、「見えないもの」の領域を再編することになったのだろう。
そういうわけで、話を聞きたかった山ちゃんがラジオで話してたことを確認できた。「好きな人が、たまたまそういうことしてただけ。今後、所属が変わるだけ。応援しつづけます。」と言ってた。そうくるか。
ファンの人が、自主的に投票行動をするとか、盲目的に決定を受け入れるか、もう組織から離れるか、その推移が気になる。とくにその組織は、大人数でありかつ距離が近いことから、総体としてファンが減ることはないという分析もある。(一般的にいえば、売れる前から応援した人は、売れすぎてしまうとファンをやめてしまうという。この組織は、それを組織内部で循環させることができるから、ファンは減りにくい。)さてどうなるだろう。
もしかしたら知らない人に叩かれるかもしれないので、適度にごまかして書く。具体的な人物名やら事項にもなるべく触れない。(まあでも読めば、分かる人は分かるんだけど、分からない人にはたぶん全く分からないかと。)
「何が悪いの?」と誰かに尋ねるとき、それはおそらく、「何も悪くないじゃない」というときと、「あ〜やっちまったな、完全にやっちまったよ」という両極端な意味合いが陰に陽に込められているような気がする。
以前にも書いたのかもしれないけど、何が悪いのかがよくわからない。一般的に言って、恋愛をすることが悪いわけない。いわんや、男性と一緒にいるところを写真に撮ったり、それをSNS媒体にアップすることが悪いわけない。
問題は、「何が問題だったのか」を明らかにせずに済ませていることだと思う。
第一に、説明責任を果たしていないということ。
徹底して説明責任を果たさずして、謝罪で済ませるのは、社会人だとしたら一番避けるべき行為だと思う。「〜というミスをしました。とにかくすいません。全て私が悪いです。二度と繰り返しません。本当に心から……」という言葉は、一見自分に対する責任を引き受け、誠実な謝罪のように思われるかもしれないが、全く逆である。理由を明確にせず、その状況に対する判断やプロセスを明らかにしないで、いったいなぜそのミスを繰り返さないと言えるのだろう。
恋愛をしたことなのか、その情報が漏れたことなのか。運営が管理しきれなかった責任を本人たちにしわ寄せした形なのか。過去に恋愛ネタで解雇された人もいれば、それっぽいのが出ちゃったけど謹慎やら出演の取り消しやらがあって許された人もいる。でも、恋愛ネタに限定すれば、全然売れてないころなんて誰も問題にしなかった(らしい)し、ある程度の「重さ」が明確になるような処罰が下されているわけではない。(ただ今回は、「イエローカードが何回か出ていた」というセリフも見られたように、運営やメンバーの中には知っていた人間もいるらしい。だとしたら、なおさら「なぜそれで?」ということが問われねばなるまい。)
今回の辞退は一番重い。(これを「自主退職」とかにしてたら、まさにその組織が現代の日本の労働市場を表しているようで笑うところだが。)休むでも、出演を取り消すでもなく、あるいは最近とりいれられた選挙による回復(この場合、過半数を超えるまでやり直すから、一番軽い罰ともいえる)もなされず、もう組織から除くということだからだ。その基準は、いったいなんなんだろう。
アイドルの仕事は、夢を売ることだという。異性のアイドルを応援する人が多いことを考えれば、そして当該の組織は中年男性を中心に莫大な利益を上げていることを考慮すれば、疑似恋愛や疑似的なパートナーシップを楽しむのが仕事であろう。私個人は、全くそれにお金を使っていないので実感としてよくわからないが、「ファンを裏切ったから」というのは、(もしそれを理由にしているとしたなら、)理由として果たして適切なのか。(繰り返すように、私は解雇をいいとも悪いとも思ってない。というか、どうでもいい。メシを食う時にようつべで何を見るかというのを基準にしたら、私はAKBもオードリーも立川談志も等価値であって、別になにかがなくなったらなにかで埋め合わせるだけである。)
そもそも、若い女性が恋愛しないわけないし、それが場合によっては肉体関係があることもあることって別にそんな稀なことじゃない。個人的には、むしろそれで最高のパフォーマンスができると思うなら、法を破らなければ、誰にも制限されることじゃないと思う。リーダーもプロデューサーも、「一般論として悪いんじゃなくて、この組織だから」という限定をつけていたが、組織のロジックとしても貫徹されていない以上、そのような制限を付ける意味がない。
あるいは、「評価が下がるから」という理由であるのなら、それが適切なのかどうかそれこそ投票で決めればいいことだ。太ってしまって人気が相対的に減った人もいれば、「選挙の裏側」を映像で流した際に悪態をついて叩かれた人もいる。そういった悪評と、今回の悪評は、機能的に等価ではないのか。
総選挙しかり、運営の数人との開かれたコミュニケーションの場やツールがあり、当該の人々にも直接コミュニケーションをとれるのが、当該の組織の特徴の一つだと思われる。選挙が、国家制度としてのそれが一人一票であるのに対して、その組織は「財産制」とモチベーションによって票が決定できるという違いはあるにせよ、ある場における支配者―非支配者を循環的に決定することができるという点では、共通している。ある程度組織が大きくなればその循環が上手くいかなかったり、どうしても問題が生じることはおそらく誰しも理解できるだろうが、なぜその「大問題」が生じたときに、そのシステムを活用しないのか。
第二に、「表と裏」というセットは間違いだということ。
ライブで元気に歌って踊って…が表だとしたら、みんなでご飯食べてるとか、ライブのメイキング映像で「どうしたらいいかわかりません」といいながらゼーゼーしている中心メンバーの様子は、裏なのだろう。しかしそれらは、ブログやらDVDという形で「編集」され、世に出されている以上、表なのだ。つまり私たちが見ているのは、表―裏というセットではなくて、見せていい表―見せていい裏つまり表というセットなのだ。本当にまずいことをしているとしたら、おそらくもっと処罰が重くなるはずだろう。(飲酒してる疑いで謹慎してた人がいたが、結局ごまかしごまかしで復帰した。)
「あなたのすべてが知りたい」なんて言ったりするけど、実際にはそんなの不可能であることは誰でも分かっている。起きて、仕事をして、メシ食って、風呂入って…という一日のサイクルを、極限まで公開・共有することはできるが、むしろそこで私たちが気付くのは、「すべてを見ることはできないのだ」という厳然たる事実である。そこにおいて、アイドルの「全て」を知りたいと思う人は、実際には「私が知りたい全て」を知りたいと思っているのだ。もし「〜ちゃんのことなら何でも知りたい」というのであれば、それこそ一緒に住み、全く同じ行動をとり、その価値観や判断に全て賛成するというのでなければおかしいだろう。しかしそんなことをとりえないことが、明らかになってしまった。
小屋で見る。大きい会場で見る。テレビで見る。ラジオで聴く。握手会で会える。ブログやツイッターでなにをしているか分かる。ぐぐたすまで含めれば、恐ろしいほど綿密に、当人の行動は把握できる。しかし、その間隙なき空間こそ、「見えないもの」の領域を再編することになったのだろう。
そういうわけで、話を聞きたかった山ちゃんがラジオで話してたことを確認できた。「好きな人が、たまたまそういうことしてただけ。今後、所属が変わるだけ。応援しつづけます。」と言ってた。そうくるか。
ファンの人が、自主的に投票行動をするとか、盲目的に決定を受け入れるか、もう組織から離れるか、その推移が気になる。とくにその組織は、大人数でありかつ距離が近いことから、総体としてファンが減ることはないという分析もある。(一般的にいえば、売れる前から応援した人は、売れすぎてしまうとファンをやめてしまうという。この組織は、それを組織内部で循環させることができるから、ファンは減りにくい。)さてどうなるだろう。
2012年02月03日
オッフェ@『後期資本制社会システム』3
オッフェ@『後期資本制社会システム』3
思いのほか時間がかかってしまっている。でも読むしかない。
「競争政党と集合的政治的同一性」1980年
大衆民主主義が成立して以降、福祉国家がなすべき業務が増大することになり、一方では行財政の肥大化が進展したために明示的な政治的決定が相対的に縮小し、他方では与党になろうとする責任政党/競争政党は与党の地位を確保するために中道化することになる。このような政治―行政形態が、政治的内容を規定することになる。競争政党は、もはや階級的主張や世界観を提示することを避けるようになり(ドイツだと、社民党とキリスト教民主同盟のことかな?)、政治の領域が再編されることによって階級や宗教観もイシューのひとつとなるため、大衆への支持をえるためにこのようなイデオロギー色を抑えることになる。
しかし、福祉国家は継続的に肥大化傾向にあり(まだこのときは、ようやく福祉国家批判が一般的になってきたくらいかな?)、実際には福祉国家の再編は思う以上に進まないため、政党への批判もまた政治不信の表出として現れるのだが、政党は与党になろうとするのになるためには既存の支持勢力からの支持を緩和することになってしまうというディレンマに陥る。
まず議会制批判が正しくないことを確認しつつ、競争政党化と、その自己否定および再編から、新しい政党のあり方が模索される。明示はしてないけど、オッフェは緑の党に期待してたみたい。地方が政治的イシューとして重要になることや、なんやらかんやらの理由で競争政党への批判が行われている。
分かるようでよく分からない。それって分かっていないということ。
「多数決決定による政治的正当化」1984年
民主主義論の方へシフトしていったみたい。多数決原理が何なのかを確認し、それがどのような条件のもとで成立するかを説いている。
なぜこんなに分からないんだろう。ゆっくり読めばわかるのか、知識が全く足りていないのか、訳が悪いのか(たぶん違うと思う)、いったいなにが問題なんだろう…あまりに分からなさ過ぎて、どうしたらいいか分からん。
「競争的政党民主制とケインズ主義的福祉国家」1983年
「競争政党と〜」と「福祉国家に抗する民主主義?」(87年、英語)のちょうど間にある感じ。
マルクス主義における国家論の位置づけを再考する。レーニンが『国家と革命』において国家の粉砕を主張したが、この前提としては資本主義国家は資本主義的支配の道具であるという位置づけであった。国家道具論なんて呼ばれる。これは、ブルジョア制民主主義、つまり選挙権が財産制限を伴うものであった時期にあっては、階級的な性格を有する議会構成にならざるを得ないため、「国家は資本家の利益の調整委員会である」(『マニフェスト』にでてくる一節だったと思う)というのがマルクス主義者の国家認識であった。
しかし、普通選挙権が「国民」へと敷衍していくと、こうした資本主義と民主主義の調和は無前提には受け入れられなくなる。というより実際には、オルテガなどが既に主張していたように、資本主義と民主主義が必ずしも調和をもって併存するとは言いきれないのであるが、マルクス主義にあってもこうした議論が検討されるようになる。ケインズ主義に基いた福祉国家は、むしろ福祉国家批判が高まっていく中で、民主主義と相いれないのではないか。これが、新保守主義の議論も取り入れたオッフェの主張である。
競争政党…イデオロギー的希薄化、支持層の受動化、政治のアイデンティティの希薄化
「現代福祉国家の諸矛盾」1981年
右翼からの批判(統治不能)、社会民主主義からの批判(福祉国家は抑圧的で、非効率的で、正当化機能がある)、それらに基づいた政治的変化が語られる。福祉国家批判という点において、一見対照的に語られることが多い右派―左派が実は認識において共通点を有しており、そしてそれが福祉国家の再編につながっていく。
最後にメモ
・なぜこういう編集にしたんだろう。方針がブレてる。
・後半は民主主義と資本主義の関係について割にまとまってるんだが、それにしてももう少し順番とか選んでくる論文にはやりようがあったんじゃないか
・分からないところは、どう分か(るようにす)ればいいんだろう
思いのほか時間がかかってしまっている。でも読むしかない。
「競争政党と集合的政治的同一性」1980年
大衆民主主義が成立して以降、福祉国家がなすべき業務が増大することになり、一方では行財政の肥大化が進展したために明示的な政治的決定が相対的に縮小し、他方では与党になろうとする責任政党/競争政党は与党の地位を確保するために中道化することになる。このような政治―行政形態が、政治的内容を規定することになる。競争政党は、もはや階級的主張や世界観を提示することを避けるようになり(ドイツだと、社民党とキリスト教民主同盟のことかな?)、政治の領域が再編されることによって階級や宗教観もイシューのひとつとなるため、大衆への支持をえるためにこのようなイデオロギー色を抑えることになる。
しかし、福祉国家は継続的に肥大化傾向にあり(まだこのときは、ようやく福祉国家批判が一般的になってきたくらいかな?)、実際には福祉国家の再編は思う以上に進まないため、政党への批判もまた政治不信の表出として現れるのだが、政党は与党になろうとするのになるためには既存の支持勢力からの支持を緩和することになってしまうというディレンマに陥る。
まず議会制批判が正しくないことを確認しつつ、競争政党化と、その自己否定および再編から、新しい政党のあり方が模索される。明示はしてないけど、オッフェは緑の党に期待してたみたい。地方が政治的イシューとして重要になることや、なんやらかんやらの理由で競争政党への批判が行われている。
分かるようでよく分からない。それって分かっていないということ。
「多数決決定による政治的正当化」1984年
民主主義論の方へシフトしていったみたい。多数決原理が何なのかを確認し、それがどのような条件のもとで成立するかを説いている。
なぜこんなに分からないんだろう。ゆっくり読めばわかるのか、知識が全く足りていないのか、訳が悪いのか(たぶん違うと思う)、いったいなにが問題なんだろう…あまりに分からなさ過ぎて、どうしたらいいか分からん。
「競争的政党民主制とケインズ主義的福祉国家」1983年
「競争政党と〜」と「福祉国家に抗する民主主義?」(87年、英語)のちょうど間にある感じ。
マルクス主義における国家論の位置づけを再考する。レーニンが『国家と革命』において国家の粉砕を主張したが、この前提としては資本主義国家は資本主義的支配の道具であるという位置づけであった。国家道具論なんて呼ばれる。これは、ブルジョア制民主主義、つまり選挙権が財産制限を伴うものであった時期にあっては、階級的な性格を有する議会構成にならざるを得ないため、「国家は資本家の利益の調整委員会である」(『マニフェスト』にでてくる一節だったと思う)というのがマルクス主義者の国家認識であった。
しかし、普通選挙権が「国民」へと敷衍していくと、こうした資本主義と民主主義の調和は無前提には受け入れられなくなる。というより実際には、オルテガなどが既に主張していたように、資本主義と民主主義が必ずしも調和をもって併存するとは言いきれないのであるが、マルクス主義にあってもこうした議論が検討されるようになる。ケインズ主義に基いた福祉国家は、むしろ福祉国家批判が高まっていく中で、民主主義と相いれないのではないか。これが、新保守主義の議論も取り入れたオッフェの主張である。
競争政党…イデオロギー的希薄化、支持層の受動化、政治のアイデンティティの希薄化
「現代福祉国家の諸矛盾」1981年
右翼からの批判(統治不能)、社会民主主義からの批判(福祉国家は抑圧的で、非効率的で、正当化機能がある)、それらに基づいた政治的変化が語られる。福祉国家批判という点において、一見対照的に語られることが多い右派―左派が実は認識において共通点を有しており、そしてそれが福祉国家の再編につながっていく。
最後にメモ
・なぜこういう編集にしたんだろう。方針がブレてる。
・後半は民主主義と資本主義の関係について割にまとまってるんだが、それにしてももう少し順番とか選んでくる論文にはやりようがあったんじゃないか
・分からないところは、どう分か(るようにす)ればいいんだろう
チョモランマたかはし。
メモ。
・ルーマンを現実の分析に応用する
のは、とても難しい。『権力』『信頼』そして『福祉国家における政治理論』を読むには読んだわけだが、そのタイトルだけ聞くと、ルーマンが書いたものだと言わなければ、なんとなーく現状分析を行った本のようにも思われるが、中身は違う。権力は権力という言葉で想像されることとはかけ離れたことが書いてあるし、福祉国家〜は政治理論といっても、ルーマンのシステム理論による政治理論の批判なので、いわゆる政治理論political theoryでは全くない。実際これを現実の分析に適用してみるというのは、少なくとも今の私には、かなり苦しい。
もし仮に、私が全く個人的な価値判断を捨象できるとするなら(もちろんそんなのできない。価値判断を完全に捨象できるというのも、一つの価値判断だから。)、二大政党制を支持する理論をきっちり固めたい。というのも、その背景はおくにしても、日本は二大政党制が長らく慣習にならなかったからであり、今も野党が与党との関係から分析されていないし、いわんや政治家の間の認識をや、という状況があるからであって、少なからず、「悪くない方」を選択するというのが有権者の仕事であるとするなら、二大政党制への理論的なバックボーンは必要かと思うためである。
そういうわけで、ルーマン理論で二大政党制を考えてみたい。(もちろん、この文章が信頼するに足るかどうかといえば、かなり心もとないということは承知の上で。)
ルーマンのバイナリーコードは、一方と他方がセットになっている概念のことである。真理−非真理、合法―不法とか。信頼―不信は、信頼→不信は起こりうるけれど不信→信頼は起こりがたいので、バイナリーコードとは厳密には言えない。で、与党―野党というのも、与党でなければ野党だし、野党でなければ与党なので、バイナリーコードと考えられる。確か、与党―野党のセットに加えて、世論、行政、マスコミがその外堀を囲う形になるかと思う。
んで、日本の二大政党制は、ここ5年間くらいようやくと機能してきた状況であろう。社会党は政権をとってないし、90年半ばの社民政権は本当にいっときのものだったし、90年半ば以降の小選挙区比例代表並立制も、なんだかんだでもたもたして、ようやくとねじれ国会が生じたり政権交代になったという感じ。でこの変遷というよりは、与党―野党というセットでものを考えていない政治家に焦点があてられるべきで、そうなると当然、有権者にその認識が欠如しているのではないか、という点こそ問題にされるべきであろう。
明確な公明党、共産党支持者でない限り(今、議会外政治勢力に関しては考察しないものとして)、あるいは党および支持母体の関係者でない限り、おそらくほとんどの有権者は選挙の際ごとに投票行動を検討しているだろうと想像される。しかしこのメカニズムは、基本的には与党―野党を前提として認識される「べき」であって、つまりは与党がダメだったら野党に交代させるという圧力が存在して、意味があることであろう。でこのことがきちんと認識されていないから、日本では自民党が長期政権を誇っていたときには自民党内部でも内部の自己改善は目指されなかったのだろうし、民主党も自分が政権をとるときのことを考えないで平気で実行不可能なマニフェストを掲げるし、他の政党も「批判」に異議を見出してしまう。共産党のように、「しっかりした野党」としてアイデンティファイするならそれはそれでいいにしても、「与党を引きずりおろして、『自分が』政権に参与するのだ」という意思を有していないという点こそ、最も問題なのではないだろうか。
橋下が大好きな私は、以前にメモを残した。保守―革新→保守の勝ち。改革―保守→改革の勝ち。実際いま、「既存の政党ではないから」という理由で新政党が勝利を収めているのは、新政党の戦略(意図的な既存政党のグルーピング、B層への徹底した選挙キャンペーン)のみでなく、選挙民のこれまでの選挙行動へのある種の「無自覚さ」の反映と見なければなるまい。与党は信頼を基にし、野党は与党に不信をつきつける。それが交代する可能性があるからこそ、批判は建設的批判でなければならず、自分ができもしないことやあまりに過激な(価値判断の上でというよりは、手続き的に困難なという意味において)政策を掲げることになる。
実際、それをやることは、政治家個人の手柄の問題やら、大衆の不満の溜飲を下げるということやらに関してはいいのかもしれないが、民主主義として健全化と言われると、なかなか難しいところがある(し、制度論に基づけば、実際そんなに一気に物事が進められるような制度にはたいていなっていない)。実際、一方では福祉国家がいいなあなんてアンケートでは答えておきながら、公務員を2割削減しろなんて、どうやって両立するのかが分からない意見を平気で答えてしまうというのが大衆社会の恐ろしいところであって、だからこそ、第三勢力を中心に見る前に二大政党制を中心にして見なければならないはずなのである。
うーん、やっぱりあんまり分かってないなあ笑
・じゃあ二大政党制は日本では
成立しなかったというと語弊があるかもしれないが、まあしなかったはず。そんで今、民主党が叩かれていて、これは上記のように野党のときに与党としてふるまうことを予想せずして行動してたからであろう。これは民主党の「選挙管理委員」小沢個人の戦略にのみ帰すべきものではなく、政治家として幼稚な集団、選挙寄り合いとしての民主党ということからも見なければならず、もっといえば、社会党時代からの与党への意志の欠如だと見たほうがよいかな、と思う。
しかし時代はリーダーシップ論はなやかなりし、という感じである。これは、いつの時代もリーダーが大切だといってはばからない英雄史観の論者のみならず、経済成長きついから誰か損しても国家運営していかなきゃいけないよねという時代的な要請もあって、小泉の時には参院解体論とかも出てた。でおそらく、橋下あるいは「おじいちゃん新党」――全くどうでもいいのだが、おじいちゃんていうとかわいいから、私はあんまりおじいちゃん新党と呼びたくない。石原がトップに立つなら、「目シパシパシパシパ新党」って呼ぶ。略してシパ新――が国政に出てきたら、参院の存在は批判的に検討されることはおそらく長期的に見て政治的イシューになってくると思われる。こうしたリーダーシップ論は、必ずしも権威的秩序体制の形成を目論む者ばかりでなく、宮本太郎さんとかもけっこう近い立場にあるように思われる。彼の『福祉国家という戦略』は、時代こそネオリベがスウェーデンに襲いかかる前くらいの時期で終わっているものの、スウェーデンの福祉国家形成を、マルクス主義的な手法というよりは、リーダーの方向性やらコーポラティズムの方針やらで説いていた印象がある。
しかし、太郎さんの主張を読んでて気にかかるのは、とはいってもやっぱり階級なんじゃないの、運動が背景にあったからじゃないの、というのを上手い具合に薄めているところである。太郎さんの仕事はどれも評価が高くて、個人的にもそれなりに読んだ(私の読書経験の中で、ということであって、他の人と比較してということではない)のだが、スウェーデンと日本の比較で最も大きいところは、地質学的な要因を除けば、労働者階級のヘゲモニーであろう。このことを相対的に希薄化した形で、この階層が二極化傾向にあってしかも普遍主義的な政策が重視されてこなかった日本で、「安心できる社会を」と言ったって、それは「誰に対して呼びかけてるの?」と言いたくもなってしまう。
結局まだ読めてないのだが、新保守主義者の勝利宣言を宣告する投票に名前を連ねたのは、新中間層だという点を理解しないといけないのではないかと思う。つまり、経済成長を遂げて富が均霑したがために労働者階級は豊かになり、それに加えて産業構造も変化したのだから、階級が政治に与える影響はそれまでよりも相対的に緩和したし、むしろ中間「階層」こそが保守化することによって、自民党の安定も図られたし、ここ15年ほどの行財政改革を中心とする新自由主義化への圧力は、なにより彼ら中間層の支持があってのことだろう。でもそれって、やっぱり階級なんじゃないの。階級ではなく階層を、階級社会論ではなく大衆社会論を、というとき、私たちは視点を変えたのか、論点をズラされたのかをもう一度考えなくてはいけないと思われる。だって大衆社会がよくないだなんて、もう何年前から言われてることなのさ。でも、小泉を知りながらも結果的にそれに対する有効な反対策を出せず、そしてまた橋下の台頭にほぞをかむって、歴史は繰り返してるじゃあないですか。悲劇が喜劇として演じ改まるならいいですが、喜劇をずっと演じるのもなかなかムリってもんですぜ。
・そしてそこに潜む保守思想の無内容
中間層の意識が保守化したというとき、私が恐ろしいのは、保守だと自認する(まあしなくてもいいんだけど)輩の、保守思想の無内容である。おじいちゃん新党も石原と亀井が組むんだったら、教育思想や労働政策については一致するかもしれないけど、財政策や行政改革の議論は、おそらく一致しないと思う。石原がネオリベ的なナショナリスト(つまり、「国民」が生き残るのではなく、生き残れるものを国民と呼ぶナショナリズム)で、亀井が経済的ナショナリズムの立場に立つから、保守として共同戦線を組むのは難しい。
対比して考えれば分かるけど、公明党や共産党は、思想のズレは少ない。で、政治家の間でも党員の間でも、その結束が強い(し、それがゆえに一般ウケがいいわけがない。)のに対して、保守というのは、保守と改革がちゃんぽんになってしまっている。このことに対して、保守を自認する奴らが無内容にも「日本の伝統を」とか「美しい日本を」とか言ってるのが、私には恐ろしい。恐ろしいというのは、その思想の強度ゆえではなく、思想の無内容さゆえである。つまり、誰でもそこに入ってきていいのだ。何でもそこに入れてしまっていいのだ。日本を愛しているといいながら日本経済を解体させようとする人も、日本を愛していると言いながら何もしない人も、日本を…(書いてて気持ち悪くなってきたけど、ようするに、)といった人々が、機能的等価物になってしまう。
だから実際には、自民党が内部変革を行ったように、そして今橋下が台頭してきているように、保守も保守―革新というセットそれ自体が既存政党という枠組みとして批判されているのに、「改革こそ保守である」という奇妙な簒奪によって、あたかも「私たちはずっと保守だったし、これからも保守である」と宣言することに成功「してしまう」のである。非常に気持ち悪い。
で結局何が言いたいのかっていうと、まあとくに結論を考えずに頭の整理で書いたから別になにも書くつもりはないけど、ルーマンの理論を政治に応用してみるという基本的な作業――それはかなり困難であることを強調してもしたりない――を徹底してやらないと、変に変な奴らが変なことをするのをとめられませんよ、ということを再確認するためである。もし、それまでは死んでもイヤだねと思っていた、自民党か民主党に票を入れることが民主主義的であるという思想がなんらかの正当性を有するものならば、私は自分の一票の使い方を考える。
・ルーマンを現実の分析に応用する
のは、とても難しい。『権力』『信頼』そして『福祉国家における政治理論』を読むには読んだわけだが、そのタイトルだけ聞くと、ルーマンが書いたものだと言わなければ、なんとなーく現状分析を行った本のようにも思われるが、中身は違う。権力は権力という言葉で想像されることとはかけ離れたことが書いてあるし、福祉国家〜は政治理論といっても、ルーマンのシステム理論による政治理論の批判なので、いわゆる政治理論political theoryでは全くない。実際これを現実の分析に適用してみるというのは、少なくとも今の私には、かなり苦しい。
もし仮に、私が全く個人的な価値判断を捨象できるとするなら(もちろんそんなのできない。価値判断を完全に捨象できるというのも、一つの価値判断だから。)、二大政党制を支持する理論をきっちり固めたい。というのも、その背景はおくにしても、日本は二大政党制が長らく慣習にならなかったからであり、今も野党が与党との関係から分析されていないし、いわんや政治家の間の認識をや、という状況があるからであって、少なからず、「悪くない方」を選択するというのが有権者の仕事であるとするなら、二大政党制への理論的なバックボーンは必要かと思うためである。
そういうわけで、ルーマン理論で二大政党制を考えてみたい。(もちろん、この文章が信頼するに足るかどうかといえば、かなり心もとないということは承知の上で。)
ルーマンのバイナリーコードは、一方と他方がセットになっている概念のことである。真理−非真理、合法―不法とか。信頼―不信は、信頼→不信は起こりうるけれど不信→信頼は起こりがたいので、バイナリーコードとは厳密には言えない。で、与党―野党というのも、与党でなければ野党だし、野党でなければ与党なので、バイナリーコードと考えられる。確か、与党―野党のセットに加えて、世論、行政、マスコミがその外堀を囲う形になるかと思う。
んで、日本の二大政党制は、ここ5年間くらいようやくと機能してきた状況であろう。社会党は政権をとってないし、90年半ばの社民政権は本当にいっときのものだったし、90年半ば以降の小選挙区比例代表並立制も、なんだかんだでもたもたして、ようやくとねじれ国会が生じたり政権交代になったという感じ。でこの変遷というよりは、与党―野党というセットでものを考えていない政治家に焦点があてられるべきで、そうなると当然、有権者にその認識が欠如しているのではないか、という点こそ問題にされるべきであろう。
明確な公明党、共産党支持者でない限り(今、議会外政治勢力に関しては考察しないものとして)、あるいは党および支持母体の関係者でない限り、おそらくほとんどの有権者は選挙の際ごとに投票行動を検討しているだろうと想像される。しかしこのメカニズムは、基本的には与党―野党を前提として認識される「べき」であって、つまりは与党がダメだったら野党に交代させるという圧力が存在して、意味があることであろう。でこのことがきちんと認識されていないから、日本では自民党が長期政権を誇っていたときには自民党内部でも内部の自己改善は目指されなかったのだろうし、民主党も自分が政権をとるときのことを考えないで平気で実行不可能なマニフェストを掲げるし、他の政党も「批判」に異議を見出してしまう。共産党のように、「しっかりした野党」としてアイデンティファイするならそれはそれでいいにしても、「与党を引きずりおろして、『自分が』政権に参与するのだ」という意思を有していないという点こそ、最も問題なのではないだろうか。
橋下が大好きな私は、以前にメモを残した。保守―革新→保守の勝ち。改革―保守→改革の勝ち。実際いま、「既存の政党ではないから」という理由で新政党が勝利を収めているのは、新政党の戦略(意図的な既存政党のグルーピング、B層への徹底した選挙キャンペーン)のみでなく、選挙民のこれまでの選挙行動へのある種の「無自覚さ」の反映と見なければなるまい。与党は信頼を基にし、野党は与党に不信をつきつける。それが交代する可能性があるからこそ、批判は建設的批判でなければならず、自分ができもしないことやあまりに過激な(価値判断の上でというよりは、手続き的に困難なという意味において)政策を掲げることになる。
実際、それをやることは、政治家個人の手柄の問題やら、大衆の不満の溜飲を下げるということやらに関してはいいのかもしれないが、民主主義として健全化と言われると、なかなか難しいところがある(し、制度論に基づけば、実際そんなに一気に物事が進められるような制度にはたいていなっていない)。実際、一方では福祉国家がいいなあなんてアンケートでは答えておきながら、公務員を2割削減しろなんて、どうやって両立するのかが分からない意見を平気で答えてしまうというのが大衆社会の恐ろしいところであって、だからこそ、第三勢力を中心に見る前に二大政党制を中心にして見なければならないはずなのである。
うーん、やっぱりあんまり分かってないなあ笑
・じゃあ二大政党制は日本では
成立しなかったというと語弊があるかもしれないが、まあしなかったはず。そんで今、民主党が叩かれていて、これは上記のように野党のときに与党としてふるまうことを予想せずして行動してたからであろう。これは民主党の「選挙管理委員」小沢個人の戦略にのみ帰すべきものではなく、政治家として幼稚な集団、選挙寄り合いとしての民主党ということからも見なければならず、もっといえば、社会党時代からの与党への意志の欠如だと見たほうがよいかな、と思う。
しかし時代はリーダーシップ論はなやかなりし、という感じである。これは、いつの時代もリーダーが大切だといってはばからない英雄史観の論者のみならず、経済成長きついから誰か損しても国家運営していかなきゃいけないよねという時代的な要請もあって、小泉の時には参院解体論とかも出てた。でおそらく、橋下あるいは「おじいちゃん新党」――全くどうでもいいのだが、おじいちゃんていうとかわいいから、私はあんまりおじいちゃん新党と呼びたくない。石原がトップに立つなら、「目シパシパシパシパ新党」って呼ぶ。略してシパ新――が国政に出てきたら、参院の存在は批判的に検討されることはおそらく長期的に見て政治的イシューになってくると思われる。こうしたリーダーシップ論は、必ずしも権威的秩序体制の形成を目論む者ばかりでなく、宮本太郎さんとかもけっこう近い立場にあるように思われる。彼の『福祉国家という戦略』は、時代こそネオリベがスウェーデンに襲いかかる前くらいの時期で終わっているものの、スウェーデンの福祉国家形成を、マルクス主義的な手法というよりは、リーダーの方向性やらコーポラティズムの方針やらで説いていた印象がある。
しかし、太郎さんの主張を読んでて気にかかるのは、とはいってもやっぱり階級なんじゃないの、運動が背景にあったからじゃないの、というのを上手い具合に薄めているところである。太郎さんの仕事はどれも評価が高くて、個人的にもそれなりに読んだ(私の読書経験の中で、ということであって、他の人と比較してということではない)のだが、スウェーデンと日本の比較で最も大きいところは、地質学的な要因を除けば、労働者階級のヘゲモニーであろう。このことを相対的に希薄化した形で、この階層が二極化傾向にあってしかも普遍主義的な政策が重視されてこなかった日本で、「安心できる社会を」と言ったって、それは「誰に対して呼びかけてるの?」と言いたくもなってしまう。
結局まだ読めてないのだが、新保守主義者の勝利宣言を宣告する投票に名前を連ねたのは、新中間層だという点を理解しないといけないのではないかと思う。つまり、経済成長を遂げて富が均霑したがために労働者階級は豊かになり、それに加えて産業構造も変化したのだから、階級が政治に与える影響はそれまでよりも相対的に緩和したし、むしろ中間「階層」こそが保守化することによって、自民党の安定も図られたし、ここ15年ほどの行財政改革を中心とする新自由主義化への圧力は、なにより彼ら中間層の支持があってのことだろう。でもそれって、やっぱり階級なんじゃないの。階級ではなく階層を、階級社会論ではなく大衆社会論を、というとき、私たちは視点を変えたのか、論点をズラされたのかをもう一度考えなくてはいけないと思われる。だって大衆社会がよくないだなんて、もう何年前から言われてることなのさ。でも、小泉を知りながらも結果的にそれに対する有効な反対策を出せず、そしてまた橋下の台頭にほぞをかむって、歴史は繰り返してるじゃあないですか。悲劇が喜劇として演じ改まるならいいですが、喜劇をずっと演じるのもなかなかムリってもんですぜ。
・そしてそこに潜む保守思想の無内容
中間層の意識が保守化したというとき、私が恐ろしいのは、保守だと自認する(まあしなくてもいいんだけど)輩の、保守思想の無内容である。おじいちゃん新党も石原と亀井が組むんだったら、教育思想や労働政策については一致するかもしれないけど、財政策や行政改革の議論は、おそらく一致しないと思う。石原がネオリベ的なナショナリスト(つまり、「国民」が生き残るのではなく、生き残れるものを国民と呼ぶナショナリズム)で、亀井が経済的ナショナリズムの立場に立つから、保守として共同戦線を組むのは難しい。
対比して考えれば分かるけど、公明党や共産党は、思想のズレは少ない。で、政治家の間でも党員の間でも、その結束が強い(し、それがゆえに一般ウケがいいわけがない。)のに対して、保守というのは、保守と改革がちゃんぽんになってしまっている。このことに対して、保守を自認する奴らが無内容にも「日本の伝統を」とか「美しい日本を」とか言ってるのが、私には恐ろしい。恐ろしいというのは、その思想の強度ゆえではなく、思想の無内容さゆえである。つまり、誰でもそこに入ってきていいのだ。何でもそこに入れてしまっていいのだ。日本を愛しているといいながら日本経済を解体させようとする人も、日本を愛していると言いながら何もしない人も、日本を…(書いてて気持ち悪くなってきたけど、ようするに、)といった人々が、機能的等価物になってしまう。
だから実際には、自民党が内部変革を行ったように、そして今橋下が台頭してきているように、保守も保守―革新というセットそれ自体が既存政党という枠組みとして批判されているのに、「改革こそ保守である」という奇妙な簒奪によって、あたかも「私たちはずっと保守だったし、これからも保守である」と宣言することに成功「してしまう」のである。非常に気持ち悪い。
で結局何が言いたいのかっていうと、まあとくに結論を考えずに頭の整理で書いたから別になにも書くつもりはないけど、ルーマンの理論を政治に応用してみるという基本的な作業――それはかなり困難であることを強調してもしたりない――を徹底してやらないと、変に変な奴らが変なことをするのをとめられませんよ、ということを再確認するためである。もし、それまでは死んでもイヤだねと思っていた、自民党か民主党に票を入れることが民主主義的であるという思想がなんらかの正当性を有するものならば、私は自分の一票の使い方を考える。
2012年02月02日
びぼーろく0202
びぼーろく〜0202
*今までは記事をまとめて挙げてたんですが、ひとつひとつページに貼るようにしたので、時間的に前後してる記事が同時に載ってます
→そういうわけで、ひとつひとつのHPのコメントが長くなりました。
→まあ、だからなんだっていうね。
奨学金。色々、ふざけやがってまったく。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4682.html
だから教育は個人個人でやる「ようなところじゃないっていつも言ってるのに」。
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3253996.html
韓流デモが継続的に続いている。そしてひらめく日の丸。この気持ち悪さよ。
http://news.harikonotora.net/r/21490/
もてなさすぎて、変になってしまった人たち。葬式があったので、いつもより坊さんを見る機会があったので考えたのだが、果たしてなにかを得るために、なにかを犠牲にしなくてはいけないのだろうか?また、自発的になにかを犠牲にしてしまった人と、結果的にそうなっていた人には違いがないのだろうか?
http://www.matacoco.com/archives/67270719.html
おれ橋下大好きかw!今日の「朝生」はみませんけど。そして田原総一郎の激しい劣化。原発ってこんなに素晴らしいですよって2時間言うだけで、15万円もらえるらしい。
http://news.harikonotora.net/r/21562/
→その後の板を見ると、わざとアンチ橋下の頭悪い人を集めて、逆に橋下の人気を高めようとする戦略らしいw
朝生を見ずに、こっちを見てた。(時間的には朝生の前だけど、マツコ見て、二択の番組見て、現代芸術を解説するテレビ見てた。ダラダラした。)バスガイドになりたいっていうハタチのお姉さんなんだが、こういう人好きね〜。マツコが言ってた、「あなたと話せたこの時間、とっても楽しかった」と言われる人になりたい。すごく好き。
http://waraimasu.blog40.fc2.com/blog-entry-4192.html
悲しい物語。時間ができたらよーもおっ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4079264.html
ホントは、もっとページがたまってから挙げようと思ってたんですが、記事の間隔じたいが空いちゃうんで、分量はすくないけどあげておきます。
伊集院光の、中学校のときの先生の言葉。いつもはもの静かであまり目立たないような人が、卒業文集への言葉として「今の怒りを忘れるな」と挙げたらしい。今の怒りを忘れるな。明日、私は泣くかもしれない。泣かないかもしれない。ただ、その時の思いを忘れてはいけない。
それを聞いたとき、私は無関係な方なのにもかかわらず言葉を失った。岩田弘さんが亡くなられたそうだ。人が亡くなり、私の部屋の本棚が崩れる。一冊の本を取り出そうとしただけなのに。再生産表式を理解したかっただけなのに。死とは何ぞや。
*今までは記事をまとめて挙げてたんですが、ひとつひとつページに貼るようにしたので、時間的に前後してる記事が同時に載ってます
→そういうわけで、ひとつひとつのHPのコメントが長くなりました。
→まあ、だからなんだっていうね。
奨学金。色々、ふざけやがってまったく。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-4682.html
だから教育は個人個人でやる「ようなところじゃないっていつも言ってるのに」。
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3253996.html
韓流デモが継続的に続いている。そしてひらめく日の丸。この気持ち悪さよ。
http://news.harikonotora.net/r/21490/
もてなさすぎて、変になってしまった人たち。葬式があったので、いつもより坊さんを見る機会があったので考えたのだが、果たしてなにかを得るために、なにかを犠牲にしなくてはいけないのだろうか?また、自発的になにかを犠牲にしてしまった人と、結果的にそうなっていた人には違いがないのだろうか?
http://www.matacoco.com/archives/67270719.html
おれ橋下大好きかw!今日の「朝生」はみませんけど。そして田原総一郎の激しい劣化。原発ってこんなに素晴らしいですよって2時間言うだけで、15万円もらえるらしい。
http://news.harikonotora.net/r/21562/
→その後の板を見ると、わざとアンチ橋下の頭悪い人を集めて、逆に橋下の人気を高めようとする戦略らしいw
朝生を見ずに、こっちを見てた。(時間的には朝生の前だけど、マツコ見て、二択の番組見て、現代芸術を解説するテレビ見てた。ダラダラした。)バスガイドになりたいっていうハタチのお姉さんなんだが、こういう人好きね〜。マツコが言ってた、「あなたと話せたこの時間、とっても楽しかった」と言われる人になりたい。すごく好き。
http://waraimasu.blog40.fc2.com/blog-entry-4192.html
悲しい物語。時間ができたらよーもおっ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4079264.html
ホントは、もっとページがたまってから挙げようと思ってたんですが、記事の間隔じたいが空いちゃうんで、分量はすくないけどあげておきます。
伊集院光の、中学校のときの先生の言葉。いつもはもの静かであまり目立たないような人が、卒業文集への言葉として「今の怒りを忘れるな」と挙げたらしい。今の怒りを忘れるな。明日、私は泣くかもしれない。泣かないかもしれない。ただ、その時の思いを忘れてはいけない。
それを聞いたとき、私は無関係な方なのにもかかわらず言葉を失った。岩田弘さんが亡くなられたそうだ。人が亡くなり、私の部屋の本棚が崩れる。一冊の本を取り出そうとしただけなのに。再生産表式を理解したかっただけなのに。死とは何ぞや。

