帰宅。
人生一番の大勝負を前に私がすることといえば、「AX2012においてヘビーローテーションがなぜ1位にならなくてはならないか」というテーゼを明らかにすること、なわけがない。(もしそうだとしたら、私は大島優子だ。「私は、神だ。」「私も…神だ。」「大島優子は……私だ」『ヒマをもてあました、神々の……遊び。』)そんなことをしている場合ではないが、葬式の感想について書いておきたい。というのも、勉強は復習が大切ってわけで、葬式の事を忘れてから葬式のことを書くと今この瞬間の思いが思い出せなくなるので、書いておこう。
大勝負といっておきながら、まあ実際大勝負なのかどうかは後からしか分からないという意味で結果論なわけだが――はたしてこんなことをしている場合であろうか!という突然のレーニン風味――はたしてこんなことしている場合ですか、いいえ、こだまです。児玉清です。今週もみなさん張り切ってまいりましょう、アタック、チアァャーンス!!
マルクスは、階級闘争の前衛であった亡きヴィルヘルム・ヴォルフに永遠の古典『資本論』を捧げた。エンゲルスは、マルクスの葬式に際して社会主義革命の決意を誓った。現在から見て、その内容が正しいかどうかとか今はどうだっていい。個人的には、葬式やら亡くなった人に捧げる本てあんまり好きじゃない。だって、どんな人だってそれなりの期間生きていればある一つの側面に集約できない面があるはずで、しかも政治的な発言を葬儀でするっていうのってなんかなあ、と思っていたわけである。
そして私としても、正直じいちゃんが亡くなったということに、実感がわかなかったというところがあった。むしろ父から、DVして悪態ばっかつく人間だったから若いときにはあんまじいちゃんと仲良くなかったとか、自分が1週間前に最期のあいさつをしないでおこうと決めたのに逝ってしまったということがあって、どこかじいちゃんの死が、後片付けをきちんとすませていないで部屋にあるおもちゃのように感じていた。
だもんで、司会を務めてくださる女性の方が――ちなみにこの女性のスピーチはすごく感動した。でもそのあと、小脇にハンドバックを抱えて「あっおつかれさまでしたー」とスーパーのパートさん的な軽やかな帰宅風景を見て、この人プロだと思った。東南アジアの葬式に出没するという泣き女、東南アジアのある国では葬式のときに大声で泣いてくれる人が立派な人だという考えがあるらしくて仕事としてお葬式のときにわざと大声で泣き叫んで悲しみにくれる人がいるらしい、その泣き女をほうふつとさせた。泣き女は、あまりに泣き過ぎてホルモンバランスが崩れるために、葬式の前後ですごい勢いでタバコを吸うらしい。仕事に集中するためのタバコ、プロの仕事じゃよ。――葬式のときに故人の思い出を話すために家族を集めて「おじいさま、どんな方でした?」と聞かれたときも、家族はみんな色々語ってたけど、自分はぼーっとしていた。むしろ、その女性の方が、自分が好きなアダルト動画に出てくるフェラの上手い女性にすごく似ていたので、この人にフェラされたら世界観が変わるくらい気持ちいいんだろうな、という身内には終生話すことのない不謹慎な思考を頭の中で健やかに育て上げていた。
そして通夜だから夜通し起きていないといけないという慣習の下、私の勉強時間は完全になくなることが決定し、私はとっとと寝ることにした。寝付きの悪い――そしてそのせいでブログの更新が活発になる――私からすると、久しぶりに快眠であった。祖父の前で寝るというのもなんだか不思議な気分だった。
そして、アリエッティ(私)、アネエッティ(姉)、チチエッティ(父)、ハハエッティ(母)のみならず、親族・血族・ご近所の方が参集するのもほぼ10数年ぶりで、なんだか人が死んだんだか人が集まってんだかわかりゃしねえや、となんとなく考えていた。
以上のようなくだらないことを考えながら、「とか言いながらきっとどこかで泣くんだろうな〜」、と思いながら、ホントに涙が出なかった。身内が死んだのに涙を流さないって、ホントに自分で血も涙もないクズなのかなとも思った。
でも、司会の方が読み上げた「ソフエッティ(おじいちゃま)さんは、ラーメンが好きでした。几帳面な彼のことでしたから、そしてなによりも息子さんが作るラーメンが好きでしたから、息子のチチエッティさんは毎日12時きっかりにラーメンを作ってあげたのでした。」という一文で、私は初めて涙を流した。そしてそれが、葬式の意味なんだろうな、と思った。
繰り返すように、私は葬式なんかくだらねえと思ってたわけだ。だけど、立派な棺をこしらえてやって(父は祖父のことを悪く言いながらも、一番高い棺を用意してやった)、綺麗に身支度もしてもらって、通夜にも告別式にも多くの方に参列にあずかって、身内からも「周りの人たちに支えられて、幸せな人生だったね。幸せだった」と感想が聞かれて、一人の人間が幸せに最期を迎えたんだ、というなんとなくの実感が、わいた。ヘーゲル『精神現象学』に出てきた、もうあんまり内容覚えてないけど、身内を看取ってやるのが家族だといったような文章が私の中で不安定に頭を何度もよぎった。
私も、今度は自分の番だ、あまり考えたくない「そのとき」が来たときは、両親を看取らねばならない、と誓いを立てた。
昨年、私のお世話になっている方のお父様が亡くなられた。もう10年ほど前に母親を亡くし、また父も研究者であったために親子関係ではしないような会話も交わしたという父親を持ち、彼との二人の時間を終えた私の恩師は、「葬式というのは、私たちを納得させるというプロセスなんだろうな」と語っておられた。
私は葬式なんて意味ないと思っていたし、死んだ人間は自分の死んだ意味を決定できないのだから、やる必要なんてないと思っていた。古い習俗は古い習俗として私たちを拘束し、私たちの営みが無前提に継続されることでどこかで誰かが得をしている、そういったあやふやなものだという位置づけを、私は葬式に与えていた。だがおそらく、それは違うのだろう。先生のおっしゃる通りだと思う。死んで悲しむのは死んだ本人ではない。身内であろう。血族であろう。近隣の世話になった方々であろう。その人々に、棺を蓋いて事定まる、この人はああこういう人だった、そして幸せな人生、幸せな最後であった、と納得させるプロセスなのであろう。
そう言った意味では、ギリシャ神話に出てくる夜の話と同じだと思う。息子を亡くして嘆き悲しむ女神のために、朝が来たら夜が来て、そして一日が終わっていき、そして一週間が、一年が…というようにするために、神が夜を作ってやったという話である。ただ葬式は、単に時間を繰り返すことによって故人への思いを整理するという以上に、死んだことを自覚させ、荼毘にふす(こちらは仏教用語だろうか?)という一つの区切りなのであろう。
このように書くと、私はどこか慣習を重んじる古い人間のように思われる方もいるかもしれない。そして事実、葬式に行く前よりはいくらか葬式を必要だと思ったむきもある。ただ、「これがマルクス主義がつきつめられないところだろうな」と繰り返し考えていたのが私の率直な感想である。
おそらくそんなことを真剣に考えている研究者はいないと思うのだが、マルクス主義には死生観がないと思う。そして私は、このことは非常に重要な意味を持っていると感じている。階級闘争と労働による「解放」というストーリーは、人間の誕生と終末を語らない。その意味で、この世界は何であり、人間は何をなすべきのかという各々の宗教に存在する世界観が、マルクス主義にはない(ように思われる)。そしてマルクス主義ともリンクする、「反体制」という思想もそうだ。人間はいつか死ぬ。宗教はそれに意味を与える。したがって、おそらく宗教はなくならない。マルクス主義は死に意味を与える言葉を持っていない。(繰り返すけど、だからダメだといってるわけじゃないし、そもそもマルキシズムにそんな思いを抱いている人ってそんな多くないと思う)
資本も宗教と似たところがある。「こんなかわいいコートがある」「この化粧品を使えばキレイになれる」「ホットドッグが800円のあそこは、誰でも夢がかなう場所、夢の国」商品を購買するという、結果的に資本蓄積に貢献するその行為は、もっと消費したい、お金を手に入れたい、だってそうすれば色んな可能性を手に入れられるから、というロジックでもって人間の欲望に働きかける。マルクス主義は、資本の運動法則を明らかにしながらも、資本それ自体には絶対的にとってかわることはできない。資本主義のせいで悪いことが起こったところで、スターバックスでコーヒーを飲みながらアイパッドを開いて株の動きをチェックする高級スーツを身にまとう紳士にはどうだっていいことなのだ。でもそのことにこだわってみないと、ポストフォーディズムにおけるマルキシズムの存在意義って分かんなくないかい?、と私なんかは思うわけである。
キレイゴトだけ言おうと思えば、私は以下のようにするべきなのである。つまり、地元のちょっとした名士として外面がいいくせして家庭内では暴力と悪態をつく祖父の矛盾した面を指摘し、その残虐さをなじるべきであろう。そして身内が葬式の参列者に食事をふるまう際に飛び交う、「おう、結婚したかい?早く身を固めちまえよ」と姉に向けられる言葉の一つ一つに反応して、「女性の自己決定にあんたが口をはさむな、余計な御世話だ」と相手を徹底して論破しなくてはいけない。でもおそらく、実際にそんなことをする人はいない。あんまり右翼みたいな言辞を並べるのは好きじゃないけど、分をわきまえなきゃいけないときはあるにはあると思う。そういうわけで、「反体制」って難しいなと思った。左翼の頭の悪いセクトみたいに、口だけ反体制って言ってれば反体制になったと思っている自己満足に陥らないためには、ミクロな意識・ミクロな行動に着目する必要があるんだなあ、となんとなく感じた。思いのほか、当然だとされていることを当然ではないということを意識し、ふるまうのは簡単ではない。
とまあ、そんなところでしょうか。この後勉強するでしょうか、しないでしょう。失った48時間を取り返そうと思ったが、私とケミストリーには時間を止める魔法が使えないという驚愕の事実を受け入れることができず、私は近所のファミリーマートに駆け込んだ。そして私は、時間を取り返したのだ!
たらみ株式会社,2011,『果実の時間――ナタデココ・ヨーグルト』ファミリーマート.
このスイーツ(笑)を手に入れた私は(民法95条によると、スイーツについて議論を行う際にはスイーツ(笑)と表記することになっている)、私の失われた48時間を取り返すのだ。そう、マドレーヌの香りで幼い時のコンブレーの町の情景を思い出すというプルーストの小説のように。
あ、あとファミマのお兄さん、いつもスイーツ(笑)を2つ買うのでスプーンを2つつけてくれるはありがてえんですが、残念ながら自分彼女も彼氏もいねえんで、スプーン1つで構わねえんで!自分の場合、2×1じゃなくて、1×2なんで、そこらへん純情な乙女心を理解してほしいんで!
さ、フェラの上手なお姉さんの動画みよーっと。
2012年01月19日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのTrackBack URL
http://blog.netlaputa.ne.jp/tb/2348721
http://blog.netlaputa.ne.jp/tb/2348721

